30.身内に会ったら……驚愕の事実
今さらながらだが、ヤスオは緊張した。
膝においた両拳が震えが止まらない。ど、が付く緊張状態にあった。
「大丈夫、やっちゃん。酔っちゃった?」
向かいに座る未亜は心配そうだ。
ヤスオが返事をするより先に、隣りの凪海が勘弁してくれよとばかりだ。
「おいおい、まだ発車してないんだぜ。乗っただけで乗り物酔いかよ」
さすがに名誉のため真実を伝えなければならない。
「酔ったわけではありません。人生初めての経験に、気持ちの昂りが抑えられないだけですよ」
「女性と旅行することですか」
斜め向かいの菜々が鞄の中へ入れた手をがさごそながら訊いてくる。
我が意を得たヤスオは勢い込んだ。
「そそそそうです、その通りです。思春期以降、電車に乗って女性とどこかへ出かけるなど妹以外にはあり得ませんでした。それが三人も、しかも実家へだなんて……悪い予感しかしません」
まだ乗り物酔いとしたほうがマシ、とする解答をヤスオは何の疑いもなく吐き出してくる。
電車内とする場所だったから、小さな笑いで済んだ。もし家のなかだったら、どれだけ大笑いになっていたか。その証拠に女性陣三人の笑いを堪えるあまり起こった身体の震えは一向に収まる気配がない。
「ほほほホントに、うちの親はヤバい者なのですよ。まったくなにを仕出かすか……」
「これでも食べて落ち着いてください。安田さん、最近これお気に入りですよね」
菜々が鞄から取り出したお菓子の箱を差し出す。抹茶味として発売されたチョコ菓子だ。家では食べていないが仕事中の必需品としているここ最近だった。
いただきます、とヤスオに遠慮はない。飲み物は未亜が淹れた水筒のお茶がある。これ以上望むべくないラインナップだ。目前の欲望に負けていれば、つい今まで感じていたこれからの不安は投げ捨てられた。
喜色を湛えて食べるヤスオの横に座る凪海が窓枠へ頬杖をついた。
「三浦海岸まで、電車に乗ってんの、一時間半くらいだったっけ?」
「降りる駅は三崎口だよ。時間はそれくらいだけど」
答えた未亜はポッキーをぽりぽり齧りながら手にした箱を突き出している。
凪海は二本を抜きながら苦笑する。
「オレ、すっかり三浦海岸だと思ってた」
「特急の終点は三崎口ですいし、車で迎えにくるなら、そっちのほうが楽なんですよね?」
未亜のポッキーを一本だけ抜く菜々が、独りだけ特別なおやつを頬張っている者へ訊く。
ごくんとヤスオは口の中にあるものを呑み込んだ。
「ええ、わざわざ忙しいなか信二くんが……信二くんとはうららの旦那さんですが、その信二くんが迎えに来てくれることになってます」
「へぇー、じゃ、ヤスオって義理とはいえ弟がいるんだな」
「でももしかして弟といっても、やっちゃんより年上だったりする?」
凪海と未亜の立て続けに、ヤスオはおやつに伸びかけた手を止めた。
「うららと同学年ですから、自分より四つ下ですか。本当に良い人で助かってますよ」
「安田さんは、妹の旦那さんと上手くいっているんですね」
菜々が感心したように言ってくるから、ヤスオは恐縮の態で答えた。
「どちらかといえば、こっちこそ信二くんに頭が上がらないです。娘婿に入ってくれたおかげで、自分は東京でふらふらできるのですよ」
ふらふらって、と未亜が笑ってくる。
いい弟じゃねーか、が凪海の感想だ。
娘婿ですか〜、と菜々はなにやら考え込んでいる。
「信二くんは怪我さえなければサッカー選手として活躍できた方なんですよ。自分と違ってリア充の極みみたいな格好いい男が、どうしてうららなんかと一緒になってくれたか、不思議です」
いやいやいや、とヤスオを囲む三人の女性が一斉に手を振った。
「うららさん、かわいいよ、美人だよ」
「一回きりしか会ってないけど、気持ちいい人だと感じたぜ」
「兄妹だから採点が厳しくなるのはわかりますけどね」
未亜と凪海に菜々と、思いもかけない高評価だ。ヤスオはついお茶を一口しなければ次の言葉が出せなかったくらいである。
「そそそそんなにうららが良いとしてくれるなんて、びっくりです」
ここでヤスオが見せた以上の驚愕が、電車を降りた女性陣に待ち受けていた。
三崎口駅を降りて、ロータリーで待っていた男性を目にすれば軽くも動揺が隠しきれない。
精悍ながら甘いマスクにこざっぱりしている。想像以上に、いいオトコだった。どうです、格好いいでしょ? とヤスオの確認には素直にうなずいた。
「信二くん、わざわざ忙しいなか迎えに来てくれて。ごめんよぉー」
珍しく気安い態度を見せるヤスオに、それこそ爽やかな笑顔が応える。これくらい当然です、お義兄さん、と節目正しい返事が心地よく響く。
「おいおい、ホントにヤスオと正反対じゃねーか」
失礼に違いない凪海の感想なのだが、向けられた当の本人はさも当然とする様子だった。
「そうでしょう。うららの兄と正反対なタイプを求めた結果がここにありますよ」
「……やっちゃんって逞しいね」
未亜の複雑な想いを読み取れないヤスオは胸を張る。
「冴えない陰キャな兄を持つ妹の苦労が信二くんによって報われた気がします。本当に良かったです」
SUVタイプの車へ、後部席に女性陣が、助手席にはヤスオが腰掛けた。
運転は信二だ。漁港まで行き、そこで降りるそうだ。
その後はヤスオが運転を引き継ぐ段取りだ。
車中は観光の見どころといった話しで盛り上がった。お互いに大人だけあって、話題のツボは押さえている。女性三人とも訪れたことがない土地だけに質問だけでも尽きなかった。
まずとする目的地は信二の実家だ。漁師をやっており、引き揚げのいくつかを融通してもらう代わり漁船の清掃などをたまに手伝うらしい。
停車すれば、「ちょっと待っててください」とヤスオが真っ先に降りた。走って離れた場所で立つ高齢の女性へ向かっていく。頭を下げている。
うちのおふくろです、と車中にいる信二が教える。
「やっちゃん……ヤスオさんって普段は人見知りなのに律儀なとこ、ありますよね」
しみじみ未亜がもらせば、意外な事実の判明を呼び込んだ。
ええ、と信二はフロントガラス越しのヤスオから目を離さずだ。
「安田の家に入ってようやくわかりましたよ。うららがどうして重度のブラコンになったのか」
後部座席に並ぶ三人は声を失うほど驚いている。
ちょうどヤスオがこちらへ駆け戻ってくる途中で転けていれば尚さらであった。