27.感激してから……カレの名へ
お帰りなさい、と口にしたヤスオがなにやらである。
じーんと感動している。
ただいまを言った未亜だけでなく凪海だって問わずにいられない。
「やっちゃん、なんかスゴく疲れてる?」
「おい、ヤスオ。ナニ変な妄想してんだよ」
誤解も甚しければ、ヤスオは胸に当てた感激のポーズを解くしかない。
「いえ、自分は心配されるほど疲れてもいませんし、変な妄想……て、なんですか!」
答えている途中で失礼なことを言われていたことに気づいたくらいである。
すっかり自意識に閉じこもっていた。いかに他者へ不可解な態度を取っていたか。ようやく説明の必要性を悟った。
「よくよく考えてみてください。これはなかなかなことなのですよ」
「考えてと言われてもさ、やっちゃん。情報が少ないじゃないな、ないよ」
「ヤスオの妄想なんか、こっちがわかるわけねーだろ」
なにげに厳しい未亜に、一刀両断の凪海である。
普段なら引っ込むヤスオだが、自宅の居間で同居の二人相手ならば頑張ろう。
「でははっきりお教えいたしましょう。自分の感激は、です」
感激してたんだ! と驚く未亜に、早く言え! の凪海である。
注目を感じればヤスオは、コホンッとわざとらしく咳払いをする。変なスイッチが入ると大げさな仕草をしたがる、悪い癖だ。
「ただいま、と言われたことですよ。なんかこう素晴らしいですよね」
お茶いれる、と未亜が荷物を床に置いた。
夜だから豆腐にするか、と凪海が立ち上がった。
女性陣が台所へ向かっていく。
「ちょちょちょちょっと、未亜さんも凪海さんも何かリアクションください」
泣きつくヤスオだ。これならまだ罵声を浴びたほうがマシである。憎まれるより辛いは無関心とする事例がここにあった。
お湯が沸き、冷奴と共に炬燵テーブルへ湯呑みが置かれた。つまりヤスオの訴えは届かずだ。だが、当の本人ときたらである。
「夜の小腹を満たすならば、たしかにこれですよ。さすがです」
感心して箸を取るヤスオだ。もう無視されていたことを忘れている。
一口飲んで、豆腐をつまんで、少し落ち着けば女性陣が切り出した。
「で、ヤスオはなにが言いたいんだ」
「やっちゃん。いいよ、いくらでもしゃべって」
凪海と未亜はスタンバイオッケーといった態だ。
すると呑み終わった湯呑み茶碗を置くなりだ。
「えええ、えーと。なにがです?」
はぁ〜と未亜は脱力の息を吐き、さっきまで話していたことだろよ! と凪海はお怒りである。
そそそそうでした、とヤスオは箸をつかみかけた手を止めた。
「今さらなのですが、気づいたのですよ。お二人がこの家に来てから、お帰りなさいと言う機会がちょくちょくあるようになったんだなぁって」
「あまり多くはないけどね。どちらかというと、やっちゃんが『ただいま』を言うほうだもんね」
やっと真面目な流れへなった。
「自分がこの家に来た時にはもう祖母が寝たきりで祖父が付きっきりで看病していた状態だったのです。だからほとんどは『ただいま』でした」
「つまり、あれか。お帰りなさいはヤスオにとって、ずっと珍しいことだったってことか」
「そう、そうです。だからお帰りなさいと答えた時に、ああ二人には敵わないんだ、と思ったわけですよ」
そう言ったヤスオはまた、じーんといった感激している様子を見せた。
対して凪海は頭をかきながらである。
「大した内容じゃないわりに良い話しになりかけたのによー。やっぱりヤスオはヤスオだよな」
「なんだか凪海さん、感動に水をさすみたいな言い草ですね」
「なんで今の話しで、特にオレたちに敵わないなんてするオチで、そうだよなぁなんてこっちがなるんだよ」
ええっ、とヤスオが驚いている。なぜわからないと表情で訴えている。
あったりめーだろ! と凪海だから声に出している。
あははは、と不意に未亜が笑いだした。
腹を抱えて、涙を流すほどだ。
当然ながらヤスオと凪海はやり取りを止めて目を向ける。
あーおっかし、と未亜は目許を拭う。
「やっぱり隠し事はできないな。一緒に生活している人たちにはさ」
それからヤスオたちより遅くに帰宅した理由を述べた。
今日一日、いたそうだ。
馳暁斗の家に。
ヤスオが公園で目撃した、未亜が胸を借りて泣いていた、かつての恋人の名前であった。