18.嬉しいけど……無茶振りもある
ヒドいよー、と思わず叫びそうになったヤスオだ。
会社でなければ、オフィス内でなければ、人生初めてとする内容の無茶振りだ。情けないトーンで悲憤を上げていただろう。
「安田さん、安田さん。なにかありやした。同棲相手からエロい要求のメッセージとかきたんすか」
と、目ざとく顔色を読む、やたら親しげな態度を取るようになった若い男性社員もいる。
「いいい一色さん、へへへへ変なこと、いいい言わないで、くくくくださいよ」
うろたえすぎて図星だと教えてしまっている。
えへへ、いいな〜、と言われたら、赤くなってもごもごしてしまう。
入社して二年の社員にからかわれる四十手前の古参社員であった。
ところで、と一色がちょっと雰囲気を変えてヤスオのデスク傍で立っていた。
「先だってのあいつ、切狹とか言いましたっけ」
「ああ、賛和企画の」
何気なく返しているが、ヤスオにすれば過敏にならざる得ない相手だ。
ただこちらにとって悪い話しでないようなのは、一色が浮かべる悪い笑みでわかる。
「他の担当者に聞いたんですけど、あれ、転勤というより左遷みたいですよ。自社内でも相当手を焼いているみたいで、下手すればずっとらしいですよ。もし帰国となっても地方の支社へ飛ばしだそうです」
へぇ〜、と感心してからヤスオは、ふと思いついたように訊く。
「よくそれ、知ったね」
「そりゃもー、俺の目指すポジションは片桐さんですから。取引先とは幅広く仲良くです」
それは凄い、とヤスオが素直に表明したらである。
「だから安田さんとは仲良くしていきたいわけなので、よろしく」
そう言ってくれる一色には嬉しいけれど、真意がよくわからない。
こっちこそだよ、と取り敢えず返事をするヤスオが発動されていた。
「この頃、ずいぶん話しかけられるみたいですね」
背後の声にヤスオは椅子ごと振り向いた。目に丸メガネの女子社員が映る。
「同棲報道以来、なんかこう落ち着きません」
真面目くさって応じれば、菜々がオフィスから出ていく一色の姿を目で追いつつだ。
「一色くんってなかなか目の付け所がいいですね。片桐さんではなく、安田さんというところが」
「なにを言っているんですか。ただ遊ばれているだけですよ」
本気で答えたせいか、菜々がする微笑みは大事な話しの前兆を窺わせる。実際にヤスオが考えたことさえない内容が語られてくる。
「一色くんがリーダーを取るようになったら、安田さんの取り合いが始まるかもしれませんね。片桐さんとは奪い合いになりそう」
今度こそヤスオは声だけではない、思い切り顔の前で手首を振る仕草も取った。
「そんなこと、あるわけないじゃないですよ」
変な言葉遣いになってしまうほど、菜々の言うことは嬉しいを通り越している。
「安田さんこそ、思いません。プログラミング作業に没頭できる人材が減ってきているように」
「そうなんですか、みなさん、やっているように思えますが」
「与えられて分はそこそこにね。だけどいざ無理を押さなければいけない局面が訪れたら、馬力を出して没頭できる人材は安田さんだってことです」
「ああ、でもそれなら他の人でも出来ないことでもないですし。別に自分でなくても」
なんだとばかりヤスオは照れ臭そうに頭をかく。ただ自分は他のスキルがないから出来ることを頑張っているにすぎない。つまり代えならいくらでも利くわけで、自分くらいの人材ならいくらでもいると思う。
はぁー、と菜々に力いっぱいため息を吐かれてしまった。
「まったく、ホント自己評価低いですよね。でもまぁ安田さんらしいですけど」
怒られるかと思ったら、認めてくれているようでもあればヤスオとしては迷うところだ。
「ずいぶん弄られるようになってしまいました、この頃。それも関係あるのかもしれません」
「慣れてきたら実は接しやすかった、なんてなってきたんじゃないですか。安田さんって、年上を感じさせないですしね」
うーん、と胸の前で腕を組んだヤスオは菜々を改めて見上げる。
「それって、いいことなんでしょうかね」
「さぁ、どうでしょう」
珍しく悪戯っぽい笑みを菜々が向けてくる。
どきっとしてしまったヤスオは自問する。
同棲などと冷やかされる生活形態を続けているが、まだまだ自分は女性馴れに程遠い。
前よりマシになったとはいえ、異性は異質。ビビる存在ですよ、としたところで思いついた。先ほど送られてきたメッセージの難題に相談をできる相手は菜々しかいない。鮎川さん、と縋りついた。
ヤスオから相談の内容を聞かされて、菜々はやれやれといった表情になった。
「もう凪海さんったら、安田さんには遠慮なしですね。完全に楽しんでますよ」
「あー、やっぱりそう思います。ヒドいですよー、凪海さん。下着も買っといてなんて。これ、未亜さんが一緒に行けなくなったって知ってから言ってくるんですよ」
憤慨のあまりに普段ならしないスマホのメッセージやり取り画面を掲げた。
なにやら菜々の目つきがヤスオの予想していたものと違う。真剣というより、厳しい。ふと思い至った。不意に強敵モンスターに出くわしたような険しさだ。敵慨心に満ち満ちている。
考えもなくスマホと下げたヤスオは「どうかしました?」と訊いていた。
「凪海さんって……いいプロポーションしているんですね……」
どうやら購入を求められた下着のサイズから割り出したらしい。
なんだか感心するよりそら恐ろしさを覚え、ヤスオの背筋は震えた。
「ところで未亜さんが急に買い物にいけなくなるなんて、なにかありました?」
少し顔を曇らせている菜々だから、ヤスオは意識して元気よく答えた。
「昔の知り合いと大事な話し合いをしなければならなくなったそうです。切鋏さんのような変な相手ではないそうなので、心配する必要はないと言ってます」
懸念はないと伝えたつもりだ。
けれども菜々の顔は晴れずにいた。