11.先輩づらして……ぎくりともします
たまにはヤスオから珈琲を差し入れた。
すみません、と受け取る一色はまだ興奮が鎮まっていない。
紙コップからは熱い湯気が立っている。
ふと未亜が挿れてくれたお茶に重ねるヤスオだ。祖母の味に通じるまろやかさを思い出せば気持ちが落ち着く。有り難いとしみじみ思う。
だからこそ残念である。これから断りのメッセージを送らねばならない。
男女交際が羨ましい。行き着くところは結局その程度だった。しかも四十手前のいいおっさんの叫びである。笑われて然るべきだろう。
ところが未亜ときたらである。
やっちゃんに女性と認識してもらわなくちゃ、なんて言い出す始末だ。恐れ多いにも程がある。とりあえず明日の夕飯の買い物には付き合ってね、と言われれば一も二もなくうなずいた。
オレの荷物も頼んだぜ、とくる凪海にはいちおう抵抗した。こちらは快い返事をしたら、どこまでこき使われるかわからない。
なにはともあれヤスオにとっては嬉しい今朝であった。
今日は未亜と駅で待ち合わせの約束をしている。スーパーの買い出しにおける荷物持ちを心待ちにして仕事に励む。
残業もなさそうだし、と安心していた。
トラブルとはたいてい降って湧くものだ。
ふと真向かいの電話で話す一色が気になった。入社三年目のまだ若手といった社員が四苦八苦している。懸命に感情を抑えつつ、謝罪を混じえながらも、受話器の向こうにいる相手に無茶だと訴えている。
長い電話が終われば、憤然とした顔で一色は課長の下へ向かう。
どうやら先方が直接に謝罪へ来いと要求しているらしい。上の者も連れて来い、とする条件を付けたようだ。
聞きたくなくても、だなんてヤスオは殊勝ではない。興味津々で耳をそばだてる。
なんだか一色が気の毒になってきた。
報告を受ける山松課長は巻き込まれそうになると避ける人だ。徹底的に問題が自身へ及ばないようにしてきた結果で現在の役職を得ている。捉え方によっては大したものではあるものの、共に働く者からすれば頼りにならない。
今回もまた同行を求められながら、はっきりした物言いはしない。課長と指名されたわけではないとする主張を全面に押し出して、主任クラスの誰かに相談するよう求めている。片桐あたりが相当するものの、現在は出払っていない。
鮎川でどうだ、と山末課長が言い出した。
ご指名された菜々が相手は誰かと訊く。
会社名と担当者を一色が答えれば、途端に嫌そうな表情が出現である。
「賛和企画の切狹ですよね。あれ、『女なんか寄越すなー』タイプですよ」
以前から問題がある担当者らしい。菜々も相当にやられたくちに違いない。
なれば山松課長が回避の姿勢を打ち出してきても不思議ではなかった。上に当たる者が不在だったとする理由で一人で行くよう言いつけてきた。時間を開けては先方に失礼と、急かすことも忘れない。
もっともらしいようで、適切とは言い難い。
まずは予定の決定だ。もちろん早め早めがいい。先方には上司の不在を告げるしかない。ただ菜々の証言を聞く限り若手社員を一人で行かせるほうが却ってこじれる危険性はある。一色もだいぶカッカしている。
ヤスオは古参の社員だ。似たような場面を一度ならず目にしてきている。その中には辞めていった者もいた……。
ああああのさ、と一色に声をかけていれば、何よりヤスオ自身が驚いていた。知らないふりをする以前に、誰かに話しかけもしてこなかった。仲良くやってくる若手の同僚だったが、こちらから申し出るなど今までならあり得なかった。
毎日、誰かとしゃべり、週末には大騒ぎする生活のおかげとしか考えられない。
共に赴き帰社後、先方の横暴さに腹立ちが収まらない後輩に珈琲を差し出すなど、まるで自分ではないみたいだ。
「すみません、安田さん。今日は嫌な想いをさせてしまって。でも一緒に行ってくれてありがとうございます」
普段では見られない一色の神妙な態度だ。
そそそんな、と返すヤスオの胸のうちは実のところだ。
ちょっと気分がいい。
いちおう上の者として同行した先では、かなり散々な言われ方をした。まさしくクソ味噌だ。
けれども見た目からして貧相なおかげで、つけ上がる相手に言われ放しの経験を数多く踏んでいる。今回もまたか、といった程度である。むしろ自分が付いていったせいで先方の横暴さをさらに焚き付けてしまった可能性は無きにしも非ずだ。
一色には悪いことをした気になる……としながらでもある。
落ち込んだ若手のため、珈琲を差し入れてやる年長者の社員。やってみたかったシチュエーションだ。格好よくないか、と自身の行動に酔ってしまう。
だから少し冷静になれば、申し訳ないなぁ〜となる。がんばりましょうか、と自戒もこめてする励ましだった。
結局ペナルティとして見積りにない作業を加えられた。量で誠意を見せろ、ときたわけである。
時間はない。残業しか手立てはない。
今晩は未亜と駅前で待ちわせてスーパーへ買い出しに行く予定だったが、キャンセルするしかなかった。
スマホで約束の時間まで帰れそうにないメッセージを打っていたところであった。
「安田さん、誰かに連絡ですか」
ぎくりとなったヤスオの文字を打つ手が止まる。
送信相手である未亜にご執心だった片桐が目の前に立っていた。