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6.どきどきの後……どっきり

 朝の挨拶の際には言い出せなかった。


 廊下のすれ違いざまくらいでは無理だ、仕方がない、とヤスオは自らをなぐさめられた。


 会議となれば、こういう場所で言うものではないよなと自問する。やはり終わって引き揚げのタイミングを見計らいさりげなく、とか懸命に頭を巡らせていたら当人に脇腹を突かれた。


 必要以上に驚いてしまったヤスオだが、周囲へ伝達するほどではない。幸いにも驚愕度の強さに押されて反応が縮んだようである。

 仕掛けてきた菜々(なな)でさえ気づいていない。安田さん、と囁くように切り出してくる。


片桐(かたぎり)さん。本当に元気がなくなりましたよね」


 まったくです、とヤスオはなんとか動悸を収めて返事する。

 片桐修一(かたぎり しゅういち)はリーダーシップ溢れる将来を嘱望されている社員だ。ヤスオより十歳下ではあるけれども尊敬の念すら抱いている。とても自分には出来ないことをやってのけていれば、素直に凄いと思う。

 しかもジム通いで引き締まった肉体に高身長のイケメンである。人当たりもよく明るい。ヤスオにすれば嫉妬すら湧かないイイ男なのだ。

 ところが窓から差し込む陽にありありと浮かぶ顔ときたらである。


「なんだかずいぶん痩せたというか、やつれてますよ」

「安田さんも、そう思います。今度のプロジェクト、大丈夫かしら」


 何もなければ、片桐さんなら大丈夫で済ますヤスオだ。

 今回は理由が見えているため、考え込んでしまう。

 きっと失恋のせいだ。

 相手はガールズバーの女性だ。

 ミーを源氏名としていた、未亜(みあ)だ。

 かなり片桐は惚れ込んでいた。呑みに付き合った同僚から、自ら失恋を公言していたとする逸話がヤスオの耳まで届いている。

 突然に辞められて連絡が取れなくなり、かなりショックを受けているらしい。

 店の、特に男女間の接客を売りにする業種であれば珍しくはない。いきなり音沙汰がなくなるなど、よくあるケースだ。

 けれども片桐にすれば、せめて最後の一言くらいは交わしたかったそうだ。何もなしで気持ちに踏ん切りがつけられないそうである。


 ヤスオとしては胸が痛い。

 たぶん未亜の一言がもらえなかったのは、自分のせいだ。片桐がヤスオの同僚と知ったから慎重を期したのだろう。一つ屋根の下で共にすごしていることを知られたら、どうしていいかわからない。

 大人なのだから気にしても、と考えたりもするが憔悴した様子を目にすれば、なんとなく気まずい。


 だがいつまでも片桐の件で(わずらわ)っていられなかった。ヤスオは人生初のアクションを行わなければならない。自分が女性を旅行に誘うのだ。しっかり言葉を選ばなければ気持ち悪いだけである。


 実があるようで無いような、いつもの会議が終了したところで思い切った。

 がやがや皆が会議室から立ち去っていくなかで、必要ないくらいの早口で伝えた。


「いいですよ、わかりました」


 あまりにあっさりな了承ぶりだ。

 だからヤスオは菜々が何か仕事と勘違いしているかもと不安になる。もう一度、両親が経営する旅館へ遊びくるように言われてますがどうします? と繰り返してしまう。


「安田さんのご実家が経営する旅荘は毘沙門天浜(びしゃもんてんはま)の近くでしたよね?」


 よく知ってるな、とヤスオは感心しつつ少し落ち着きを取り戻した。


「基本は食堂なんですよ。旅館のほうは釣り人の素泊まりが中心なので、あまり期待しないでください。温泉なんかありませんし」

「でも横瀬島(よこせじま)が眺められたり、景観に優れた場所なんでしょう」


 本当によく知ってるな、とヤスオは感動した。ゲームのチームメイトだから、と本来のユルさから不審は抱かない。


「そう言ってもらえて助かります。なにせうちの両親ときたら、鮎川(あゆかわ)さんは絶対に連れてこいと言うんですよ。たぶん、うららが何か口を挟んだと睨んでいるんですが」

「未亜さんや凪海(なみ)さんじゃなくて?」

「なにがなんでも鮎川(あゆかわ)さんは連れて来い、と言われました。なんでだろ?」


 誘いをかけているヤスオのほうが不明では、菜々が答えられるはずもない。

 何はともあれ無事に誘えれば、詳細がまとまり次第となった。

 お互い別々にこなさなければならない業務が待っている。


 相も変わらずヤスオはデスクでキーボードをカタカタ鳴らして夕刻を迎えた。


 安田さ〜ん、と馴れ馴れしく若手社員がやってくる。

 一色邦夫(いっしき くにお)だ。この頃、プログラムで行き詰まると聞きにくる。菜々からすると、年上に対する態度がなっていないそうだ。だが凪海と同じくらいの年齢と知れば、この年代から受ける態度は一律な気がする。要はもう諦めているわけである。


 でも別に不快どころか気が楽としているから、問題ではない。


 それに一色は話し方が雑でも真摯に取り組んでくる。必要以上に丁寧な態度や口振りを取りながら、実は端から理解する気がない者よりずっといい。今回も「了解っす、安田さぁ〜ん」と舐めた口調を響かせつつも、こちらの説明をちゃんと咀嚼している。文句どころか満足感さえ覚えていた。


 指南が終わるたび一色は紙コップの珈琲を持ってくる。当然ながら自分の分も手にしており、飲み終わるまで雑談していく。社内でヤスオと会話する稀少な人物となっていた。


 ところで安田さぁん、と一色が始める。


「ずいぶん鮎川先輩、ご機嫌でしたけど、なにか思い当たることありやす?」


 ないですよ、と返事したヤスオだが心当たりはある。

 どうやら旅行をずいぶん楽しみにしてくれているみたいだ。特に個人的にはどきどきしながら誘う、人生初とする行動であった。報いられたみたいで、とても嬉しい。

 やっぱりなんかあったんでしょ、と一色のツッコミを呼ぶ、例の自覚ない笑みを浮かべてしまっていたほどだった。


 達成感にヤスオは帰り道の足取りは軽い。

 だが機嫌良いとする状態も、ちょっとした近道の林を抜けて公園が見えるところまでだった。

 思わぬ光景に身体が硬直してしまう。

 誰もいない園内のなか、ぽつんとあるブランコの前で見た。


 未亜が見知らぬ男性と抱き合っていた。

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