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47.これは……人生の一代転機

 主張なんてしてこなかったヤスオである。

 この家を残すことぐらいしか意見を挙げてこなかった。

 況してや女性に対し、あれこれどころか一言だって口を挟めないタイプだ。我慢してというレベルではなく、反射的にビビってしまう小心者なのだ。


「そんな、どうして。どうしてですか、未亜(みあ)さん!」

 と、詰め寄るなど人生において初めてである。


 いつになく冷静な佇まいを未亜が見せてきた。


「お父さんが残してくれた保険金で返済できるだけじゃなく、当面の生活もできそうなの」


 ぐっと詰まるヤスオだ。


 いちおう事故死とされた未亜の父親だ。けれども自殺とする線も秘めたものだ。状況の蓋然性から判断されただけで、確証まで至ったわけではない。人生最後と決めたような逃亡の足取りと酩酊ぶりである。

 罪を償って娘と共に生きる道を選んでくれれば、と思わないでもない行動だった。


 結局、未亜は深く悲しんでいる。傷ついている、と言い換えていいかもしれない。

 存在を消したかったとするまで憎んだ、そんな父親が命と引き換えに置いていったお金だ。使用使途に他者が言明など以ての外だろう。


 わかってはいる、わかってはいてもヤスオはヤスオらしくとはなれなかった。


「だだだだだけど、ですね。い、家を出ていくなんて、しなくていいじゃありませんか。このまま居てもなんの不都合もないですよ」


 頭が真っ白になっていたおかげだろう。懸命になって引き留めていた。


 手を膝に置いた未亜がゆっくり静かに首を横に振る。


「ううん、ダメだよ。わたしがダメなの」


 立ちかけていたヤスオの膝はがっくり落ちていく。そうですか、となんとか返事を振り絞る。うな垂れてしまう。打ちひしがれるとはまさにこのこと、とした姿だった。


 わたしね、とする未亜の声がする。


「やっちゃんを騙して住んでいる気持ちが、どうしても拭えないの。きっと男だと思って住む場所を持ちかけてくれているって想像できていたよ。だけど一刻でも早く返済して、お父さんを消すんだって。わたしの都合で利用したことには間違いないんだ」


 顔を上げるヤスオだった。


「そんなこと、気にしないでくださいよ」

「こうして返済の目処がついて、お父さんが本当に消えちゃって。そうしたら、やっぱり考えちゃう。やっちゃんにだけは不誠実なことはしたくない」


 しっかり目を見て話す未亜の気持ちだった。


 向けられた当のヤスオといえばである。

 とても感動していた。

 自分なんぞを真剣に考えてくれる人間がいる。

 自分の人生にこんなことが起きるなんて嬉しさのあまり心が震える。

 けれども感動で言葉が出ないですませていい場面ではないくらいわかっている。


「いいんですよ、未亜さんは気にしなくていいんです。自分は騙されたなんてぜんぜん思っていないんですから。むしろ来てくれて良かった、そう、そうなんですよ」

「やっちゃんは優しいからそう言ってくれるけど、わたしはわたしを納得させられない。やっぱりズルしてこの家に住んでいると思ってる。でも、でもね……」


 言葉を切った未亜が、なぜか急にもじもじしだす。頬を紅く染めていたりする。

 思いもかけない様子だったから、ヤスオだって戸惑ってしまう。どうしました? と尋ねずにいられない。


 おずおずと未亜が口を開く。


「もし……もし、わたしが望まれるなら……やっちゃんが望んでくれるなら……わたしは……」


 さすがのヤスオだって気づく。

 ここは人生の分岐点だ、と。

 自分には一生縁がないとしてきた道が出現している。

 燦然と輝いて目前へ開けている。

 ここで決めなければ! とした場面だってわかっている。

 気合いを入れて喉が鳴るほど息を呑み込んだ。


「ななななならば、じじじじじ自分は、みみみみみ未亜さんに、ずずずずず……」


 ピンポーン!


 安田家に設置された昔ながらのドアチャイムが、これ以上にない最悪のタイミングで家中に鳴り響いた。

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