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36.軽く吹っ飛ぶ……体験

 いつになく遅くまで残業したヤスオだ。

 プロジェクトはスパートをかけなければいけない時期にある。


 片桐と新人メンバーの間で起こった不穏によって、プログラミングにおける遅延が気になる。ヤスオにすれば、やらない社員がさらにやらなくなっただけだ。さほど大きな問題ではない。ただし滞った雰囲気が流れ、他メンバーの不安視が感じ取れる。


 ならば頑張る、とした姿勢を見せれば、少しはささくれ立つ空気も和らぐだろう。


 不貞腐れた新人メンバーは早々に帰っていったが、ヤスオはまだまだとしてデスクから離れない。珍しく周囲に伝わるほどのやる気を見せた。現にやっておけば、後々安心できる。


 少しは役に立てたか。


 片桐が帰り間際にそそくさ寄ってきては「助かります」と小さく告げてくる。


 次に菜々(なな)から、まだ帰らないんですか、と訊かれた。


「今、いいところなんです」と答えたら、切り返された。


「はまると抜け出さなくなりますよね、安田さんって。明日もあるんですから、そこそこで切り上げてくださいよ」


 有り難い忠告だったが気を廻せるヤスオではない。今晩は残業がサービスになろうが関係ない。ひたすらキーボードと格闘していた。


 本当は職場だけが理由ではない。


 もやっとする胸のわだかまりを振り払うためにも集中して励んだ。


 けれども日を跨ぐはやりすぎだ、くらいの判断はできる。


 帰りがけにはスマホをチェックだ。

 少し以前まではメッセージの確認などしなかった。

 現在、帰りがけにチェックは要となっている。


 未亜(みあ)だけではなく凪海(なみ)に、菜々も加わった。

 常日頃からチームYMN=やみんの団結力を図るは大切なこと、とたぶんヤスオだけが思っている。なぜなら他の三人は日常生活に関する遣り取りがほとんどだ。必要事項の遣り取りを主なのである。だけどこれがモンスター攻略の連携に繋がる、とヤスオは頑なに信じていた。


 あまりやりすぎないでくださいね、と事情を知る菜々からメッセージが送られてきていた。


 今度の夕飯をどうするかはヤスオなー、と凪海が早くも週末の献立についてお任せとくる。


 返信していた矢先で、未亜からのメッセージが飛び込んできた。

 今、どこ? とする短い内容だ。後から事情を聞けば、切羽詰まった気持ちの表れであっただろう。

 ちょうど会社を出るところだとする旨で送れば、返事は即行だった。

 駅で待ち合わせよう、ときた。自宅から最寄り駅の改札を出た辺りに居るそうだ。


 理由はわからないが、珍しい。いや初めてではないか。


 初めて……、という単語でヤスオは気づく。駅で待ち合わせれば、家までの道すがらは一緒ということだ。まず大人になってから女性と待ち合わせるなどという経験がない。未亜と最初の待ち合わせは、男だと思ってであった。業務上仕方なしとする以外で女性と二人きりで肩を並べて歩くなんて、人生において初めてではなかろうか。


 途端に気持ちが昂るヤスオだ。

 いちおうもういい頃合いの成年男性、平たく言えば、おっさんである。これくらいのことで興奮していては気持ち悪いにも程がある。あるのだが、やはり胸の高鳴りは抑えられない。

 けれども電車のなかでは、あまりに女性の免疫がなさすぎる自分の人生に安っぽさを覚えた。なれば落ち込まずにいられない。

 感情の起伏が激しい退社から改札を出るまでの夜遅い道程だ。


 階段を降りて改札口からすぐ出たところにある案内板の前で立っていた。


 この頃すっかり忘れていたが、やはり素敵な女性だ。夜の仕事をしている女などと新人くんは言っていたが、どうしてどうして。健康的な明るさで輝くような美人さんである。

 改札を潜れば、未亜が手を振ってくる。


 思わずヤスオは後ろを振り返った。それから目を戻せば、なんか美亜がズッコケている。

 どうかしましたか? と訊いたらである。


「わたしは、やっちゃんを待ってたの、わかってるぅ〜」

「え、あっ、はい。そうですよね。家族や友人以外の誰かが待っているなんて、人生初めてです」


 余計なことを口走っているヤスオである。

 ぷっと未亜が噴き出す。幸いにもウケていた。だから抗議も笑顔の下でなされた。


「わたしが手を振った相手って、やっちゃんだからね」


 何もかもお見通しだ。未亜が手を振った際、自分ではない知り合いがいると反射的に思ってしまった。


「そそそ、そうですよね。そう普通に考えれば、そうです」


 当たり前なのだが、ヤスオはフラッシュバックがあった。綺麗な女性が振る手に振り返したら、背後のハンサムに対してであった。顔が赤くなるような想いをしているなか、女性の鼻で笑うような顔つきが忘れられない。

 恥の多い人生が幸福には素直より猜疑心で受け止める心構えを形成してしまっていた。

 今回はもはや疑いようがない、幸せである。


 そうそう、わかってくれれば良し、と未亜も満足そうにうなずいている。


「ではこれから家まで歩いて帰るわけだけど……黙って言うことを聞いてもらってもいい?」


 お願いに拒否なんてヤスオがするわけがない。ただ、黙ってと言われているのだから、聞くだけにすればいいものを、変に口を挟んでしまう性質の持ち主である。  

 

「うちに住むとなった以上のことなんてないでしょう。どうぞ何でも言ってください」


 言質に太鼓判を押して渡せば、後に退けるわけもない。


「そっか、良かった。じゃ、ラブラブでお願いね」


 にこにこの未亜が謎の内容で言い渡してくる。 


 特に、ラブラブとは一体どういったことか? それをヤスオが問いただす前だ。


 腕が絡められてくる。手が指の間を通して握られてくる。

 まさしく恋人同士がする腕と手の組み方だった。


 ヤスオにすれば家に住むとなった衝撃など軽く吹っ飛ぶ体験であった。


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