24.優しくて……いい人でした
片桐が出ていけば暗いオフィスに残っている者は自分だけだ。
そう固く思い込んで再びモニターへ向かったヤスオだったから、突然なる声がけにたまげてしまう。
うわっ! と小心者をさらすリアクションで応えた。
「そんなにびっくりしないでくださいよ、安田さん。こっちがびっくりするじゃないですか」
丸メガネに手を当てた菜々がいた。空いたもう一方の手には弁当屋の袋を提げている。会社近くにある評判のいい店だ。
「せっかく差し入れを持ってきたのに」
と、続けば、ヤスオだから「すみません」と謝るだけでは終わらない。
「自分に何かあげようなどとは、どんな意図があっての所業ですか」
口調次第では気の利いた冗談になるが、真剣に問うから笑えない。呆れて返された。
「今日は遅くまで続けるつもりですよね、ちょうど未亜さんが寝ついたから、帰宅の音で起こさないように時間を開けようなんて、安田さんなら考えそう」
当たりです、と感心したヤスオだがすぐさま疑問が湧き上がる。
「あれ? 鮎川さん、なんで知っているんですか」
「だってアドレス交換してますもん」
「えっ、昨日会ったばかりですよね」
「でもチームに誘ったの、そちらですけど」
あ、そっか! と合点がいったヤスオへ、さらなる詳細が伝えられる。
どうやら帰り道で凪海から申し出があったらしい。それからメッセージ上のやり取りで未亜も加わった。
「安田さんの登録は、まずご本人に確認してからとなりましたけど」
若干の緊張を湛えていた菜々だが、ヤスオが気づくはずもない。
「自分のなんか、どうぞどうぞ。でもアドレスをどこかに売るのだけは勘弁してください」
真面目に言っていることがわかるから、はい! と菜々は少々熱りながら弁当袋を置く。なんですか、これ? と鈍いにも程があれば、怒りの口調をもってである。
「おごりです。片桐さんのプロジェクトに参加してくれたお礼も兼ねてますっ」
「なんかすみません。では有り難くいただくとします」
あっさり受け取るヤスオに、やや拍子抜けするしかない菜々だ。加えて聞き捨てならないことまで続く。
「鮎川さん、実は優しい人だったんですね」
「なんですか、実は、て」
すすすすみません、と謝るくらいなら言わなければいいのにとするヤスオがさらに口を滑らせる。
「いい人だって知ってはいたんですけど……」
複雑そうな顔になった菜々は何か言おうとして止めた。諦めて、別の話題というより話さなければいけない事柄を選んだようだ。
「未亜さんがどういった事情で安田さんの家に住むようになったか、だいたいわかりました」
「聞いたんですか?」
「いえ。でも蒼森の名前に事件を入れて検索すれば詳しく出てきますから。だいたい事情は察せます。父親への愛憎で少し不安定になることがあるのかも、と想像もしています」
ヤスオは納得すべきある一点が浮き上がってきた。
生真面目っぽい菜々が、なんで早くも未亜を名前で呼んでいるのか。普段ならまだ苗字だっただろう。父親を想起される響きを避けるため、いつにない親しさを示した。
変なところで勘が働く、それがヤスオだった。
「やっぱり鮎川さんは優しくて良い人です」
今度こそ菜々は心中を口に出してくる。
「あのぉー、しみじみ言われると逆にいつもはそうでもないように聞こえてしまいますけど」
すすすすみません、とヤスオは幾度と知れない謝罪をまた繰り出す。
ここで菜々はようやくだ。笑みを浮かべた。
「もうお礼したくて差し入れに来たのに、謝られてばかりではこっちが悪いような気になってきます」
対してヤスオと言えばである。
す、すみません、と謝っていた。
しまった! と気づくのは口にしてからである。しかも失敗の自覚を思い切り顔に出してしまった。なれば、なんとなく気まずい。
菜々が笑みを広げてくれたおかげで気持ちは立て直せた。
「まったく、安田さんらしいですね」
と、言われれば胸を撫で降ろせた。
しばらくもしないうちに菜々はオフィスを出ていった。
弁当を平らげたヤスオは終電近くで退社した。
駅を降りて自宅までの道すがら、ヤスオは歩きながら夜空を仰ぐ。
月以外の星灯りはかき消す都会だ。
昔は星屑で満天が輝いていた、と祖母だけでなく浪漫など無縁そうな祖父も言っていた。
二人はもういない。亡き人の思い出を守るために、あの家はあると考えていた。
けれども現在はこれからがある人を助けられている。
きっと祖父母も喜んでくれているだろう。
「それよりびっくりのほうかもしれません」
つい独り言が飛び出た。
はっとしてヤスオは周囲を見渡す。路上で誰ともなしにごちるなんて、気味が悪いことをしてしまった。祈るような想いで他人様の存在を確認しては、ほぉーと息を吐くくらい安堵したりした。
何ともない帰り道で一人勝手に忙しくしているヤスオが自宅に至れば、そっとだ。玄関を潜り階段を昇る。自分でも感心するくらい音をさせず、病人が寝ている部屋の真向かいにある自室前へ辿り着く。
もっとも細心な注意を必要とする襖の把手へ手をかける。
息まで殺してドアを引こうとした時だ。
やっちゃん、と部屋の内から呼ぶ声した。