15.嬉しいけれど……優先は
会議室から出て廊下を歩くヤスオの背後に迫る影があった。
生活の大半をすごす社内であるから気は抜く。何より寄ってくる者などいない、とする先入観がある。けっこう高い足音が間近にあっても察せない。
背中を叩かれれば、ぎゃっ! と叫んでしまう。
「ちょ、ちょっと、安田さん。そんなに驚かないでください」
振り返ったヤスオの目に、丸メガネをかけた女性が映った。同僚の鮎川菜々が逆に驚かされたとする顔を向けてくる。
「すす、すみません。ぜんぜん気がつかなかったもんで」
汗をかかんばかりに慌てて謝れば、相手はトレードマークな丸メガネへ手を当てる。気を落ち着かせようとする仕草みたいだ。
「声をかけず、いきなり叩いて呼び止めたこっちもいけなかったですね。でも私も焦っていたので……本当に驚きました」
驚いたんですか? とヤスオが不思議であるとした口調で訊き返す。
それが気に障ったか。同僚の女性社員は苛立つままだ。
「驚きますよ。プロジェクトの参加を、まさか今回は見送るなんて。何かあったんですか」
「あ、いえ、ちょっと。しばらく家には早めに帰りたいので」
正確には夜遅くを避けたい。未亜へ、きちんとした夜食を作り置き出来ない日を発生させないためだ。だから理由は述べられない。
「でも今回の案件は手当ても大きいですし、出世するための覚えが良くなるかもしれまないのに」
相手が喰い下がってきた。
けれどもヤスオにすれば、どちらも特に望むものではなかった。賞与が増えることは悪いことではない。つまりその程度でしかない。少しでも多くとするような金銭に対する切迫感は自分にない。未亜と違って……。
況してや出世なんて、この年齢になれば今さらだ。少しくらい会社の上層部に良い印象を与えたところで開けるものではない。対人関係に腰引けの自分では、どう転んでも人の上など立てない。立ったら、下に就いた者が不幸だろう。
いろいろ伝えるべき事柄は多かったが、コミュ障のヤスオだから口数は多くないどころではない。すみません、の一言ですませた。
これでお終いとはならなかった。
昼休み後、午後の業務をこなすべく自分のデスクでパソコンへ向かった。
安田さん、とまた鮎川菜々がやってくる。また会議室に来て欲しい、とくる。
校舎裏ならばあからさまな恐喝の線を強く疑うが、会社である。大量業務とした体裁の脅迫を行われるのか。なんにしろ気が重くても、逃げるわけにいかない。呼び出しを断ったほうが後々面倒な事態を招くは、いつの時代も変わらない。
呼びにきた相手を背後に従え、ヤスオは会議室のドアを開けた。
今回のプロジェクトリーダーである片桐が笑顔で立ち上がる。便宜上の作り笑いしているくらいは予想していた。想像さえしていなかったのは、困ったように頼み込まれてきたことだ。
「安田さん、どうか参加してくれませんか」
椅子へ腰掛けるなり、片桐がいきなり訴えてくる。
面喰らうヤスオだ。本気かどうか疑う気持ちが声となって出ていく。
「そ、そんな自分がいなくても他にプログラマーならいるでしょう。松田や山本もいましたよね」
さきほどの招集で見た顔を引き合いに出した。二人とも若手で作業も早い。単なる古株でしかないヤスオと違ってこれからの力になれる社員だ。自分なんか出る幕などないと思うくらいの顔ぶれであった。
意外にも他人からすると見解が違うらしい。
ヤスオの隣りに座っていた鮎川菜々が尖り口調で意見する。
「まさか安田さん。あいつらがいるから嫌だって話しですか」
あいつら呼ばわりしてくれば、ちょっとびっくりなヤスオだ。何かあったのだろうか?
鮎川、と片桐が抑えてから会話を引き取った。
「やっぱり安田さんは自分のような年下に指図されるなんて我慢なりませんか」
驚くようなことを言い出されてヤスオは慌てふためく。
「い、いえ、別に。確かに最初は違和感がありましたけど、片桐さんなら納得というか、自分なんかじゃとうてい無理なことをやってのけてしまうことに感心してしまうというか」
「腹立たしいとは思ったことはないですか」
「けっこう無茶な締め切りで仕上げさせられた時は嫌になりましたけど、それは片桐さんだからという話しではないですよ」
片桐が微笑を浮かべては頭をかいている。
「やっぱり安田さんにメンバーへ入って欲しいです」
どうしてここまで自分が求められるか、ヤスオにはわからない。二人ともたまに目にしてきたはずだ。気持ち悪い思い出し笑いをしている自分の姿を知っているはずだ。参加しないで欲しいと言われるほうが理解できるくらいである。
「自分は別に仕事が早いわけじゃありませんし、ミスも多いのに。なんでそこまでメンバーにしたいのです?」
「安田さんのミスを認める姿勢がとても重要なのです」
身を乗り出して訴えてきた片桐だ。
なぜとするヤスオの表情をいち早く読み取った隣りの人物が答えた。
「あいつらだとミスしても申告してこないんです。何か言われたくないのか知りませんけど、誰かが見つけるまでシラを切り通してきますからね。作業している本人なんだからとっくに気づいていて良さそうなのに。さっさと言ってくれれば、問題にもならないってなんでわからないのかしら」
鮎川菜々が矢継ぎ早に述べてくる。あいつら呼ばわりする理由が何となく察せられた。
それに、と片桐が始めてくる。
「安田さんは黙々と作業してくれるじゃありませんか。そうした姿が浮ついた空気を抑えてくれます。だからぜひ加わって欲しい一人なのです」
ヤスオは心配になった。
今、自分はにやにやしていないか。まさかゲーム以外で褒められる機会が訪れようなど思いも寄らなかった。嬉しすぎて、気前いい返事をしてしまいそうだ。
しなかったのは、未亜の顔が浮かんだせいだった。
背負わされた借金が父親の娘に対する背信からと聞けば、優先は彼女へ置きたかった。