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12.つい……言ってしまった

 他人からすれば、たかがそれだけのことかもしれない。


 気持ち悪いなんて思わないよ。


 だけどヤスオにとって、誰かに一番に言って欲しかったことだった。

 無自覚を装っていただけに、いっそう胸に沁みた。

 ヤスオがやりがちな人付き合いを重んじた便宜上からではない、自然と吐いて出た心からの嬉しいとする言葉だった。


「やっと名前で呼んでくれたね」


 その時、未亜(みあ)は柔らかい笑みを浮かべていた。

 はい、とヤスオは思わず顔を上げてから慌てた。涙を溢しそうな様子を見せたくなくてうつむいてきた。つい反応し見せてしまった目元を急いで拭う。ははは、と照れ笑いしてしまう。


 静かに未亜は待っている。

 バカにするどころか、とても優しい表情だ。落ち着くまで余計な口を挟んでこない。


「……ありがとう、未亜さん……って、こればっかりですね」


 自分の言葉でヤスオは苦笑いしてしまった。少し余裕が生まれたようだ。お茶に手を伸ばし呷れば、ふぅーと息を吐く。


 どう? と未亜が急須を持ち上げている。

 お願いします、とヤスオは手にした湯呑み茶碗を押し出した。

 残った中身を他の茶碗へ移してから、新たなお茶を注ぐ未亜の心遣いが嬉しい。

 改めて淹れられたお茶の湯呑み茶碗を口に運び、テーブルの上へ置いた。


 なぜか対座からこの上ない圧が伝わってくる。

 未亜が真剣というより物凄く緊張をしている。


 どうしました? とヤスオは訊かずにいられない。


「やっちゃん……もし、もしだよ……」


 思い切ったようで言い淀む未亜だ。


 はい、とヤスオは一言だけだ。本当はリラックスしてとする類いの言葉をかけたい。けれどもうまい文言が浮かんでこない。

 おかげで何も聞かずに待つ男の姿を演出できたなどと、ヤスオ当人が知る由もない。


 しっかり待っててくれたと解釈した未亜が重い口を開いた。


「わたしが……風俗の仕事をしていたら、この家を出ていったほうがいい?」


 さすがに黙ったままというわけにはいかなくなったヤスオだ。

 正直なところ、驚きはない。やっていてもおかしくはない、とする見識だ。未亜ほどの美人である。華やかな雰囲気をまとう理由も納得といったところでもある。

 後になって思えば、衝撃を受けて言葉を失っていたくらいのほうが良かった。

 変に納得してしまったから、考えもなしに述べてしまった。


「あ、いえ、でも自分は風俗がなかったら女の人を知らなかったです」


 伝える内容の表現には気を遣えた。けれど気を回すべき肝心は言って良いものか、ではなかったか。布団に入るまで考え至らなかった。


 この時点においてヤスオは未亜へひたすら気を配っていた。黙る彼女が心配だった。気にする必要はないとする気持ちが伝わってくれれば、と願うだけだ。


 だから今度こそ驚いた。

 ぷっと未亜がいきなり噴き出す。懸命に噛み殺そうとしているものの、結局は笑いを吐き出した。


「……ホント、やっちゃんって、おもしろいね」

 と、目許を拭きながら言ってくる。


わけがわからないヤスオであるが、ともかく未亜が笑顔なら嬉しい。でも笑いは長くは続かなかったから、「どうしました?」と訊いた。


「わたしはこうだからダメなんだ。本当に、やなヤツ……」


 急に顔を曇らせた未亜の、ぽつり洩らすような吐露だ。

 自己嫌悪は自分の専売特許としていたヤスオなれば、これは我が事のようにせつない。そして思い入れがすぎた場合はろくな結果を招かない。


「自分は本当に助かりました。女性と付き合ったことがないので、お相手してくれた風俗嬢が導いてくれなければ、うまくできなかったです」


 元気づけるため、さらなる体験談を語ってしまう。


 なぜか未亜が違う違うとばかりに手を振った。


「ごめん。そうじゃなくて、やっちゃんの様子を探ろうとしたわたし自身がイヤになったの。本当にやなヤツだ……」

「本当にどうしたんです?」


 やっぱりというか、ヤスオの心配はさらに深度を増していく。

 はぁ、と未亜は嘆息を一つ吐いてからだ。


「わたしが夜やっている風俗は性的サービスじゃなくて、ガールズバーなの。お酒を一緒に飲んでしゃべるお仕事なんだ」

「あ、じゃあ、初めに聞いた通り呑み屋だったわけですね」


 嘘は吐かれていないとするヤスオの好意的な反応だ。

 あ、うん……、と意表を突かれたように戸惑っている未亜である。ヤスオが予想していた点に触れてこないだけではない。


「それでも毎晩、ずっと呑み続けるなんて偉いですよ。お酒って呑みすぎると、どうしてああも疲れるんでしょうね」


 なにやら感心までされる始末だ。ええっと……、と未亜は始める。


「いちおう日曜は休みにしてもらったから、大丈夫」

「でもお客さん相手なんて大変でしょう。自分には絶対にできないですよ。あ、そうか、だからここのところレオンの攻撃が荒れているのですね」

「お客さんというより、一緒に働いている女の子のほうが大変かな。ほら、ガールズバーはだいたい二十五くらいまでなのに、三十近くのわたしが出張っているのは面白くないみたい」


 いやいや〜、と今度はヤスオのほうが手を振る否定の仕草を取った。


「未亜さん、若いですって。真面目に二十代前半にしか見えないですよ」

「若く見えるって言われて喜んじゃうわたしはもういい歳の証拠なんだけどねー」


 にこにこで答える未亜に、ヤスオだって笑顔である。


 お互い場に流されるまま明日へ備え、そのまま就寝となった。


 灯りを落とした自室で一人、布団のなかへ横たわったヤスオがしばらくしてだ。

 がばっと掛け布団をはいで上半身を起こす。あああっ、と頭を抱えた。


 ヤスオは気がついてしまった。

 女性に対してするべきではない恥ずかしい体験をべらべら口にした。どう考えても情けなくも安っぽい男の体験談を、選りによって同じ屋根の下にいる女性へ語ってしまった。

 恥ずかしさで身悶えずにいられない。


 平穏はなかなか訪れないヤスオであった。


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