4.ミシェル・ライネル『ビッグウェーブ』
「食さぬ、食さぬと言ったら食さぬ! 皿を下げよ」
東宮殿の食堂に響くのは、
少年特融のヒステリックな声色だった。
「この料理は口に合わぬゆえ、食さぬ」
フンッ! とそっぽを向くと、
給仕役のメイドが決まって泣きそうな顔をする。
「ミシェル様は成長期でございます。
このようにお食事をボイコットされますと、お身体に障ります」
おろおろと、ただ顔色を伺うメイドごときでは、埒があかない。
やがてメイド頭と執事がやってきての、お説教時間となる。
自分の命とか、存在とか、それを大事だと思ったことがなかった。
ミシェルには父親がいない。
母親は、この国の第二百七十八代女王ロザリア・ライネルだ。
母親が自分を生んだ時、誰もが困惑し、口を噤んだという。
母親こそ尊い血筋だが、父の知れない子、
そういうレッテルを貼られてミシェルは育った。
誰にも喜ばれていないこの存在を、
心底消したいと願い、ただ陰鬱に時を過ごしている。
ミシェルはどうにも食事をとることが苦手だ。
命の元である食事をとれば、それだけまた生きなくてはならない。
そう考えれば、食事をとることがひどく億劫になってしまうのだ。
ミシェルは今年十二歳になったのだが、
食堂の磨き込まれた硝子に映る自分の姿は、とても貧相だった。
これが自分かと嘲笑いたくなる。青白く、ひどく痩せていて醜い。
扉をノックする音で、ようやく執事の説教が止まった。
先触れの侍女の後で、
部屋に通されたのは金色の髪の少年だった。
自分と幾らも違わない、
隣国の小国が差し出した人質。
ミシェルは物憂げな視線を、少年に向けた。
金色の髪に翡翠色の瞳を持つこの少年に、
ミシェルは暫し魅入った。
少年は輝くような金の髪を、濃紺のビロードのリボンで背で緩く結び、
その髪飾りと色をあわせた、ブリーチズとハイコートを着ている。
「お食事中失礼いたします。
こちらが本日付けで、ミシェル様の学友として王宮に入られました、
ゼノア・サイファリア様でございます」
先触れの侍女がそういって、ミシェルに頭を下げた。
「よろしくお願い致します」
そう言って少年が微笑むと、
ミシェルは珍しく興が乗った。
「長旅ご苦労であったな、楽にされよ」
そして少し目を細めて、口調を変えた。
「貴殿は美しいな」
生命の輝きに満ち溢れたこの少年を、
ミシェルは素直に美しいと思った。
ミシェルの言葉に、少年は薔薇色に頬を染めた。
「からかわないで下さい。恥ずかしいです」
耳まで真っ赤になっているその様が、ひどく初々しい。
「私は醜いであろう」
そう言ってミシェルは、少年を見つめた。
少年もまたミシェルを、真っすぐに見据える。
問われても、困る問いだろう。
(なぜ私は、このようなことを彼に問うのだ?)
それはミシェルの心に、細波が立った瞬間だった。
(私は果たして彼に、それを肯定して欲しいのか、否定して欲しいのか)
ミシェルは、自身にそう問うた。
(それすらもわからない)
ただ心に細波が立っている。
長く絶望に閉ざされた心は、ある意味ずっと凪いでいたのに。
ミシェルははっとした。
ミシェルが彼に問いたいと思ったのは、
ただ目に見える容姿などといった、
上っ面のものではなくて、もっと根底にある、自身の存在意義についてなのだ。
「ミシェル様は美しく生きることもでき、
醜く生きる事もできます。
それはミシェル様のお心が、お決めになることでございましょう」
少年はそう答えて、
はにかんだような微笑みを浮かべた。
ミシェルは直感的に、
この少年が自分との間に距離を置こうとしていると思った。
無理もない。
彼はこの国に差し出された人質で、
ミシェルはこの国の王太子だ。
下手な回答はできない。
刹那、ミシェルは心にひりつくような渇きを覚えた。
「貴殿の目には、私はどう映る?」
その渇きが、ミシェルにそう問い直させた。
暫くの沈黙の後で、
少年は真っすぐにミシェルを見据えた。
澄んだ美しい眼をしている。
それは嘘偽りのない眼だと、ミシェルは思った。
「私の目には、ミシェル様はとても美しい方だと映っております」
その言葉が、ミシェルの時を止めた。
「どうしてそう思う?」
油の切れたブリキのように、
ミシェルがぎこちなく尋ねた。
「だってミシェル様は、
私の長旅を気遣ってくださったではありませんか。
取るに足らないこんな私にさえ、ミシェル様は優しい言葉をくださいました。
ですから私の目には、ミシェル様は誰よりも美しい方として映っております」
心に津波が起こった。
とんでもないビッグウェーブである。
(なんだ、こいつ。超かわいいな。天使か?
天使が私のもとに舞い降りたのか?)
ミシェル・ライネル十二歳、
ゼノア・サイファリア(セシリア)との初対面の感想である。
頭の中では盛大にラッパが鳴り響き、
思考回路はえらいことになっていたのだが、悲しいかな表情筋が死んでいる。
(こういうとき、どうしたらいいんだ。
くそっ、万年恋愛氷河期のこの私にもこういう日が訪れるのなら、
さすがにもう少し表情筋を鍛えておくべきだったか)
色々な後悔の念がミシェルの中で渦巻いていたが、
動かないものは動かない。
「ところでミシェル様は、どうして食事をなさらないのです?」
天使が無邪気な顔で尋ねてくる。
「今日のメニューは、私の口に合わないからだ」
ミシェルはフンッと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
「ああ、だからですね。ミシェル様は体格が貧弱で、モヤシみたいなのは」
合点がいったというごとくに、
ポンと手を打って少年が微笑んだ。
「貧弱……、モヤシ……だと?」
ミシェルのこめかみに青筋が走り、目が座る。
「ようし、だったらそこでちゃんと見ておけ、
この私のグレイトな食べっぷりを!」
そう言ってミシェルは、
目の前に置かれた食事をペロリと平らげた。
食後のお茶を共に飲みながら、天使が微笑んで言う。
「ダイエットだなんだと食事をきちんと食べない人がいるけど、
私はミシェル様のようにしっかりと食事をなさる方が好きだなぁ」
次の日から、ミシェルが食事を残すことはなくなった。