22話 Cecil
終礼が終わると共に、教室に残る者、部活動に向かう者、家路に向かう者と、三年五組の生徒は散り散りとなった。
セシルは室内の生徒が帰るのを待った。黒魔法に類する何らかの痕跡が残っていないかを調べる為だ。教室に残る彼を訝しく思いながらも、一人また一人と、生徒達は教室を後にした。全ての生徒が居なくなったのを見計らって、彼は引き戸を閉め、調査を開始した。
教室をぐるりと見回すが、これといって不審な点は見当たらない。生徒一人一人の机や椅子を注意深く見ていくが、ここにも何ら疑わしいものは確認出来ない。
結局空振りだったかと諦めかけた時、教室の隅に置かれたシーディープレーヤーが明滅しているのに気付く。耳をそばだててみるが音は聞こえない。
『ガラガラ』
引き戸が開かれ、立派な体躯の教員が眉をひそめ、こちらに詰め寄る。
「こんな時間まで何やってんだ!とっくに下校時刻は過ぎてるんだぞ!」
男は厳しい口調で言い放った。
気のせいかもしれない。一瞬、男の視線がシーディープレイヤーに泳いだかの様に見えた。
「すみません。直ぐに出ます」
何の収穫も得られないまま、僕は止む無く教室を後にした。
帰る前に白百合先生に七海さんの事を相談しようと物理教室に足を運んだが、物理教室には鍵が掛かっていた。僕は彼女に会うのを断念し、帰宅する事にした。
小高い丘の上から黄昏時の空をぼんやりと眺めていると、七海さんの顔が思い出される。元の世界に戻る事を忘れ、熱に浮かされた様に、僕は今彼女の事ばかりを考えている。
こんなだから、彼女の幻影が見えてしまうのだ。
眼下に見下ろす公園で、七海さんが俯きながらブランコに座っている。
果たしてこれは幻覚なのか?
目を擦って焦点を合わせる。
やっぱり幻影じゃなかった。そこには、はっきりと彼女の姿が見える。
僕は一目散に丘を駆け下りた。彼女と少しだけでもいいから話しがしたい。だけど何を話せば良いんだろう。楽しい話題が全く思い浮かばない。僕は今まで女性とは、どんな話をしてたんだっけ。
そうだった。これまでにアリシア以外の女性とは、会話らしい会話をした試しが無かったんだ。
公園の入り口にある黄色いアーチスタンドの前で呼吸を整える。
「七海さん!」
驚いた表情で彼女がこちらに顔を向けた。しかし、直ぐにまた正面に向き直り、顔を伏せてしまった。
僕を拒絶しているのだろうか。だけど、このまま何も話せないまま帰りたくはない。勇気を振り絞り、ゆっくりとした足取りで彼女に歩み寄る。距離が縮むに従って、心臓の鼓動は早くなる。よかった。彼女が立ち去らない所を見ると、完全には拒絶されてはいないらしい。
顔を伏せたまま、徐に彼女が口を開いた。
「私と一緒に居る所を見られたら、あなたまでクラスのみんなから酷い目に遭わされてしまう・・・。それに私に近付いたら、きっとあなたまで不幸になる・・・。だって私は死を招く存在だから・・・」
「死を招く存在・・・。クラスの人達が七海さんに向けて言っていた死神とはどういう意味ですか?僕には、あなたが死神だとは到底思えません」
「私と親しかった人は、必ず死んでしまうから」
「それは、たまたま不幸が重なったからではないでしょうか?あなたのせいではありません!」
「どうしてそう言えるの?だったら教えてあげる」
彼女は隣のブランコの座版を指でポンポンと軽く叩き、立ち尽くす僕に、横に座る様に促した。
僕が座るとブランコは小さな軋み音を立てた。軋み音が落ち着くのを待って、彼女はようやく口を開いた。
「この話は、死ぬまで私の胸の内にだけ留めておこうと思ってた。話した所で、誰にも信じて貰えないて分かってたから。だけど、私と同じ様に、他の人には見えないモノが見えていたあなただから、こうして話をしようと思ったの。退屈かもしれないけど、少しばかり、私の昔話に付き合って」
彼女はブランコの鎖をギュッと握り締め、オレンジ色の空を見上げた。
僕は彼女が話すのを、固唾を呑んで見守った。
「物心ついた頃から私には、他人には見えない幽霊が見えてた。初めは幽霊と生者の区別も付かなかったんだけど、大きくなるに従って、段々とそれも分かる様になっていった。言葉では上手く言い表せないんだけど、彼等から発せられる独特の気の様なモノで見分けがつけられるまでになったの。
昔から私の日常には彼等の姿があって、害意を向けられた経験も無かったから、取り立てて彼等に対して恐怖心を抱く事は無かった。莫迦かと思われるかもれないけど、何度か彼等に話し掛けてみたりもした。だけど、いくら私が話し掛けても返事は返って来ない。そこで私は、私の声は彼等には届いていないって理解した。同じ世界に居ながらも互いに干渉出来ない存在。彼等の事はそう思う事にした・・・。
小学校の低学年の頃だったかな?そこで私は初めて幽霊とは違う”あれ”の存在を知る事となったの。
その日私は、父と母と連れ立って、病で入院するお爺ちゃんのお見舞いに行ったの。個室の扉を開けた時、思わず息を呑んだ。そこで私は、ベッドで横になるお爺ちゃんを俯瞰する禍々しい存在を見てしまったの。
漆黒の胴体の上に、まばらに肉片がこびり付いたしゃれこうべ。落ち窪んだ眼窩の奥からは、赤い球が不気味に鈍く光っていた。私にはそこだけ空間が捻じれてるかの様に見えたの。
私の存在に気付かないでと心の中で強く願った。だけど、その願いは虚しく”あれ”はゆっくりと眼下のお爺ちゃんから私に視線を移した。
目が合った瞬間、時の流れが止まる感覚を覚えた。周囲の声や動態、空気の流れまでもが止まって見えたの。私は全身が引き攣って呼吸するのが苦しくなった。
恐れ戦く私に向けて、”あれ”は腹の底に響く茫漠たる声を放った。私が耳を塞ぎながら『止めて!』と声を上げた次の瞬間、止まっていた時間が再び動き出した。
そして”あれ”は再びお爺ちゃんへと視線を戻した。私は怖かった。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。だけど、大好きなお爺ちゃんをこんな場所に残して行くのは心苦しかった。
私以外にはきっと”あれ”の姿は見えていない。見えないのだから、何も恐れる必要はないのだと、そう思う事によって祖父を残して行く罪悪感を打ち消そうとした。
父と母がお爺ちゃんと話をしてる時も、私は出来る限り頭上の”あれ”を視界に入れない様に意識した。父が煙草を吸いに喫煙所へと向かい、母もそれに続いて、花瓶の水を替えに席を外した時、私は”あれ”の居る病室でお爺ちゃんと二人きりになった。
そこで、お爺ちゃんが天井を指差しながら徐に口を開いたの。『七海にも"あれ"が見えるのか。父さんと母さんには見えてないんだ。"あれ"に憑り付かれた人間は、そう長くは生きられない。数日後には必ず死んでしまうんだ。おじいちゃんが、七海に会えるのも今日で最後かもしれないな。こうして、七海にまで人ならざる者が見えてしまうのは、儂の古くからの因果のせいかもしれぬな。本当にすまない』そう言っておじいちゃんは申し訳なさそうに、私の頭を優しく撫でてくれた。
私は”あれ”の存在を知らせず、何食わぬ顔でお爺ちゃんを一人残して行く事を正当化していた自分を恥じた。
その三日後。快方に向かっていたおじいちゃんの容態は急変して、そのまま息を引き取ったの。
自らの死期を悟って尚、お爺ちゃんは最後の最後まで私の事を考えてくれていた。なのに私は、そんなお爺ちゃんを見殺しにした。私はどうしようもない人間なの」
彼女は歯を食い縛り、ブランコの鎖を握る手も強くなる。
「全ての元凶は”あれ”と呼ばれる死神のせいです!七海さんには何の非もありません!僕はこれまでの話を聞いて、尚更、”あれ”の被害者である七海さんが、死神という蔑称で呼ばれるのは我慢ならない!」
彼女が嘆息をもらす。
「あなたは今、私が”あれ”と呼ぶ存在を、死神って言ったけど、私は死神だとは絶対に思いたくない。私の大切な人を標的として、その命を否応なしに奪う”あれ”を曲がりなりにも神と認めたくない。だって神って認めてしまえば、どう頑張っても太刀打ち出来ないものに思えちゃうから。死神でないにしても、私が死を招いているのは事実。だから他人が私を死神って言うのを受け入れるしかないのよ」
「”あれ”がお爺様に取り憑いた理由は定かではありませんが、無作為に選ばれ、被害に遭ってしまわれたとは考えられませんか?」
「私も最初はその可能性も考えた。だけど、それから一年後。その可能性は否定された」
「一体何があったのですか?」
彼女は目を閉じ、大きく息をした。