2話 安里翔
俺は席を立ち、陽菜の前に立った。そして、彼女の眼を真っ直ぐ見据えた。
彼女は一瞬たじろぎ、俺から視線を外し俯いた。唇を小刻みに震わせ怯えている。そこで改めて、入学式から今に至るまでの間に生じた、二人の距離というものを、まざまざと感じさせられた。
あの一件以来、陽菜は俺を嫌っているかもしれない。出来るだけその事は考えない様にして来た。だけど、今の彼女の反応で、その悪い予感は確信へと変わった。
あんなに酷い事を言って彼女を傷付けたのに、今更虫が良すぎたんだ。
俺には、彼女に告白する資格なんて無い。
急に頭の中が真っ白になり、体の熱が一気に凍り付くのを感じた。
この告白を機に、二人の溝は埋まり、入学式の前よりも、より良い関係が新たに築けると、甘い期待を抱いていた。胸に抱いていた希望の光は、跡形も無く静かに消去った。
俺は、どの面下げて陽菜に告白しようとしてたんだ。
そう考えると、彼女の前に立っている自分が惨めに思えた。
全てが既に手遅れだったのだ。
俺は自分の席に戻り、参考書を鞄に詰めた。一刻も早く、彼女の前から立ち去りたいという衝動に駆られた。
「安里君!」
思わず手が止まり、彼女の方を顧みた。
「ごめんね。急に真っ直ぐな目で見つめられて恥ずかしくなっちゃった。安里君、もしかして私に何か言おうとしてた?」
言葉に詰まる。何か言わないと。
「今まで、ごめん・・・」
俺は振り向かずに短く言った。自分の声が震えているのが分かる。告白する資格は無くとも、これまで冷たい態度を取って、彼女の心を傷付けてしまった事だけは、せめて謝りたかった。今はこの言葉を言うのだけで精一杯だ。これ以上何か喋ると、感情が爆発して、泣いてしまいそうだ。そんな情けない顔を、彼女には見られたくない。
「どうしたの。ごめんって?」
「入学式の日、俺は相・・・陽菜に酷い事を言ってしまった。あれは本心から出た言葉じゃなかったんだ」
「うん」
それは短い一言であった。しかしその一言は、慈愛に満ちていた。
だめだ。ずっと押さえていた思いが、堰を切った様に溢れ出す。もう止める事が出来ない。
俺は両手で机を叩き、勢いに任せ、立ち上がった。
「あの日の事、陽菜に謝りたいって、そして仲直りしたいって、昔みたいに話したいって、ずっとずっと思てた!明日こそは必ず謝るんだって毎日その繰り返しだった。でも、いざ面と向かうと、言葉が出て来なくなって・・・。そんな自分が情けなかった」
陽菜は椅子から立ち上がり、こちらに歩み寄った。そして、俺の背中にそっと凭れ、顔を埋めた。彼女の涙が背中に伝わる。
「私、翔に嫌われちゃったんだって、ずっとそう思ってた。話したい事、聞いて欲しい事、いっぱい、い~っぱい、あったんだよ。地域のけん玉の大会、優勝おめでとうって、誰よりも一番最初に言いたかった。体育祭のリレー、最下位だったけどカッコよかったよって言いたかった。修学旅行のバスの中で、隣の席になった時、どれだけ話したかったか」
「俺達、また昔みたいに戻れるかな?」
俺は涙に濡れる彼女に向き合って言った。
「戻りたいよ~・・・」
彼女は止めどなく溢れる涙を、何度も何度も拭いながら言った。
「随分と遠回りしたけど、やっと自分の気持ちを正直に言える。俺は誰よりも一番近くで、泣き笑いするお前を見て居たい。辛い時には、そっと肩を貸してやれる距離にいつも居たい。陽菜。愛してる」
「私もこれからずっと、翔の一番近くに居たいよ~」
夕日が彼女の顔を優しく照らした。
彼女が今まで以上に愛おしく感じる。もう二度と泣かせるもんか。約三年もの間、真面に話をしていなかったから、これからはその三年分を埋めるくらい、沢山話をしよう。
俺は彼女の両肩に優しく手を乗せた。彼女はそっと目を閉じ、静かに唇を結んだ。
その時、黒板の粉受けから、チョークが落下し、割れる音を聞いた気がした。そんな些事ごときに、せっかく盛り上がった空気を壊されてたまるか。
俺は目を閉じ、手にした幸せを噛み締めながら、陽菜と唇を重ねた。
次の瞬間、安里翔は眩い光に包まれ、忽然と、この世界から姿を消した。