1話 安里翔
『ドク、ドク、ドク・・・』
心臓が激しく脈打つ。
とっくに決心は付けたはずなのに、その決心が、ここへ来て、また鈍る。
ダメだ。この機を逃したら、俺はきっと、一生後悔する。それはちゃんと分かってる。分かってるのに、一歩が踏み出せない。
窓の外に見える暖かい夕日が、森閑とした放課後の教室を包み込んでいた。下校の時刻を過ぎて、そこに残ってるのは、俺と、そしてもう一人、俺の斜め後ろの席に座る相川陽菜の二人だけだ。
俺と陽菜とは幼稚園の頃からの幼馴染で、昔は家族ぐるみの付き合いをしていた。
俺は、彼女を初めて見た時から、恋をしていた。
彼女は気立てもよく、男女問わず、誰からも好かれていた。
容姿端麗で、欠点らしい欠点も特に見当たらない。
それでも、強いて欠点を挙げるとするならば、勉強が苦手という事だ。
学内での成績は、俺と同じく、下から数えた方が早い位置にあった。何せ、中学三年の夏まで、九九を覚えていない程だったからだ。
今の時代は電卓があるし、電卓が手許に無い時には、全部足してけばいいと、足し算を駆使して問題を解決していたのだ。
しかし、高校受験が迫ると、本人も、九九位は覚えていないとマズイと感じたらしく、小学生の俺の妹と一緒に必死に暗記をしていた。そんな、おっとりしたヤツだから、周りの人間との間に、壁を作らない。
普通だと天然系の女は、同性に敵を作ってしまう傾向がある。しかし、彼女と一言でも言葉を交わせば、その天然は、決して計算によるもので無いと分かるはずだ。
彼女がいかに、人を疑うことを知らない、純粋無垢な人間であるかと言うのは、皆の知る所である。
そんな彼女を周りの男が放っておくはずが無い。
告白を受けてる姿を見たのも一度や二度とは言わない。俺も何度か、そこまで親しくも無い友人に、彼女との仲を取り持ってくれと頼まれたりもした。その度に、そいつらには悪いが、適当にはぐらかして来た。
同じ高校に入学したのは、お互いに示し合わせた訳では無く、俺達の学力では、行ける所が限られていたからだ。
これだけ付き合いが長いのに、俺が彼女に、『好きだ』という思いを伝える決心をしたのはこれが初めてだ。
もし告白して振られたら、これまでの友達関係さえも壊れてしまう。その恐怖が、長年に渡って俺を踏み止まらせた。
あと少しで卒業だし、下手に波風立てずに、このままの卒業の日を迎えようと考えていた。
しかし、ここへ来て、状況が一変した。
転校生が現れたのだ。
そいつのせいで、俺は苦悶の日々を過ごす羽目になった。
出処は不明だが、転校して直ぐに、他校の生徒と喧嘩をしたり、未成年が入れない場所に出入りしていたりと良からぬ噂を耳にした。
そんな噂は、本来であれば、俺の与り知らぬ事。しかし、それは陽菜が絡んでなければの話だ。
何よりも俺が我慢ならないのは、あいつが、どんなに無視されようが、彼女にちょっかいを出す事だ。顔を合わす度に、歯の浮く様なセリフで彼女を口説くのだ。あれだけ積極的にアプローチされたら、いくら最初は相手にして無くても、心変わりする可能性だってある。
そうなってからでは遅いと、俺は居ても立っても居られなくなったのだ。
とは言っても、俺と陽菜との関係は、高校に入ってから、悪い方へと変わった。
そうなった原因を作ったのは、他でもない俺自身だ。
不意に、文庫本を閉じる音が聞こえた。
「はあ~。退屈な本だったな~」
陽菜は伸びをしながら、独り言か、俺に向かって言っているのか、どちらか断定し難い調子で言った。
考えるまでも無く、陽菜は独り言を言ったのだと、俺はそう結論づけた。
そう考えた理由は簡単だ。ある日を境に、約三年近くもの間、俺と陽菜とは、お互いに会話らしい会話を避けて来たからだ。
必要最低限の言葉だけを交わすのみ。だから俺は、何の迷いも無く、彼女が俺に話し掛けたのでは無いと決めてかかる事が出来たのだ。
不自然な沈黙が流れた。
俺は机に広げた参考書を読む振りを続けた。
「これでもダメか~」
彼女が小さく呟いた。
そうして、一つ深呼吸した。
「安里君が放課後も教室に残ってるなんて珍しいね。ましてや教科書広げて勉強なんかしちゃって。さっきからずっと見てたけど、全然ページをめくらないね。難しい所があるなら私が教えてあげようか?」
まさか陽菜がずっと俺の方を見ていたなんて思わなかった。教科書を開いていたのは、放課後の教室に残る口実が欲しかっただけで、教科書の内容など何一つ頭に入っていなかった。頭の中では、これから彼女に告白する言葉を繰り返していたのだから。
陽菜が、俺の事を少しでも気にしてくれていたのが、何だか嬉しかった。
しかし、嬉しさを感じると尚更、自分の愚かさを悔やまずにはいられない。
あの日の事を、俺は決して忘れない。
今思い返しても、陽菜に対して、どうして、あんな酷い事を言ったのか、自分でも説明出来ない。
もし、一度言ってしまった言葉を、全て無かった事に出来たのなら、どんなに幸せだったろうか。
中学を卒業した俺と陽菜は、家から電車で二駅の高校へ進学した。
同じ中学の人間は、俺達以外には、誰も居なかった。陽菜は、知った女友達が一人も居ない状況に、多少の不安を感じていたのだろう。入学式前日に俺の携帯に電話で、朝、一緒に登校しようと言った。他に一緒に登校する相手も居なかったから、俺も「別に良いけど」と答えた。
陽菜は新しい制服に身を包んで、俺を家まで迎えに来た。
紺色のブレザーに、その下からr覗くワンピース型のジャンパースカート。胸元の紫色の大きなリボンが目を引く。
思わず声を失った。この可憐な制服は、恐ろしい程、彼女に良く似合っていたのだ。
彼女はその場で一周しながら「どう、似合ってる」と悪戯っぽく言った。俺は彼女の美しさに圧倒され、いつもなら口をついて出る、皮肉めいた言葉の一つも見つからず、「ああ」と情けなく返すしか無かった。
彼女も俺の答えが意外だったらしく、少し面食らっていた。そのせいか、少し間が空いて、頬を赤らめながら「ありがとう」と小さく言った。
校門の前には、大きく祝入学と書かれた縦看板が掛けられていた。
そこを通り抜けると、同じ新入生らしき人の群れが、掲示板の周辺を取り囲んでいる。どうやら、クラス割を見ているらしい。
俺と陽菜は人垣を搔き分け、クラス割を確認した。
「やったぁ~。翔、私達、同じクラスだよ~」
陽菜は俺の手を取り、嬉しそうに飛び上がりながらはしゃいだ。
「お前達、入学早々、仲良く手なんか繋いで、周りが恥ずかしくないのかよ」
隣に立つ目つきの悪い男が、嫌味をたっぷりと含んだ口調で言った。
「恥ずかしくないよ~だ。ね~、翔」
陽菜は笑いながら、わざとらしく言った。そんな陽菜とは対照的に、俺は周りの視線を感じ、顔から火が出る程恥ずかしくなった。
「陽菜、周りから誤解されるから、これからは下の名前で呼ぶのは止めろ。それからベタベタ引っ付くのも止めろ」
俺は入学初日から他の生徒にナメられたくなくて、彼女に理不尽に強く当たってしまった。
「うん。ごめんね。翔・・・じゃなかった、安里くん」
この時の陽菜の寂しそうな横顔が、今でも俺の胸を締め付ける。
その日を境に、俺達二人の間に、取り返しのつかない深い溝が生じた。
陽菜はどこかよそよそしくなり、俺を苗字で安里くんと呼ぶ様になった。そして、俺も陽菜の事は、苗字で相川さんと呼ぶ様になった。