遅れた春
少しドキドキしながらボクはオフィスを出た。やるべきことはやったはずなのに、何かをやり残した気がするのはいつものことであるが、今日はいつもよりも早く退社したことでいつにもましてモヤモヤした気持ちがあった。上司に挨拶もしてきたし、職場を出るときもいつもより大きな声で挨拶をするほど念を入れたから大丈夫だろう。
渋谷の駅まではほんの10分程度だった。まだ外はわずかに明るい。あと数分もすればあたりは真っ暗になるのだろうが、それにしても明るい夜がボクは好きだった。明るい時間長いと一日自体が長いような錯覚に陥る。
ハチ公前の広場にはまだ誰も来ていなかった。まだ待ち合わせのちょうど5分前だったし、だいたい大喜はいつも時間ちょうどにやってくる。待ち合わせに関しては日本の鉄道よりも正確な男だ。ちょうど良い時間の電車がなくとも、必ずどこかで時間をつぶして時間通りに早くもなく、遅くもない時間にやってくる。昔から大喜はそういう男だった。
平日の渋谷にはスーツを身にまとったサラリーマンがたくさんいた。休みになるとその誰もが姿を潜めて、色鮮やかな格好をした人々で溢れかえるというのに。帰路を急ぐ人が次々に改札へと吸い込まれていき、人は減る一方のはずなのにあたりには依然として同じ密度で人がそれぞれの目的地へと向かうのだ。そしてボクも同じようにして、自分の目的地へと行くのであろう。
時間通りにやってきた大喜は会社の同僚である東という男を引き連れてボクと一緒に道玄坂にある居酒屋へと入っていく。どこにでもあるようなチェーンの居酒屋は平日の真ん中であるにもかかわらず、喧騒に紛れて騒がしい。でかい声で騒ぎ立てるのは学生の集団だろうか、暇を持て余しているのか、パワーを持て余しているのか分からないが、その余っているものを自分にも分けてほしい気分だった。6人掛けの個室に入るとうるさい声が幾分ましになり、ボクは安心した。あんなにうるさい中で初対面の人と会話をするなんて到底ボクにはできない。
少し待ったところで甲高い声とともに女の子が3人に入ってきた。きれいに着飾った女性のうち一人が大喜の何かを言ってそれぞれの自己紹介が始まる。大喜はいつになく嬉しそうだ。
ボクの正面には繭子という黒髪ショートの女の子が座っている。繭子はいかにも活発そうな見た目で屈託のない笑顔で愛嬌を振りまいている。その隣、つまりは真ん中の席に座っているのは里奈という女の子で、さらさらのロングヘアーをなびかせながら右を見たり左を見たりしてどの話題も丁寧に拾いながら、場がしらけないような気遣いをする。
「苗木さんはどんなお仕事をされてるんですか」
例のごとくこういう場ではこの手の質問がやってくる。もちろん、女性側も出会いが目的なのだから、一番に気になるポイントはそこなのだろう。わかっていてもボクはこの質問が苦手だ。職には就いているが、人に自慢できるようなものではない。活躍もしていない。できることならば収入だけ伝えて、仕事の話は避けたかった。
「一応、SEやってます」
ボクはできるだけおどおどしないように言う。それでも「一応」という前置きがついてしまう。
「SEって・・・。システムエンジニアのことですか。すごーい」
質問をした繭子が困った顔をしているので、隣から里奈が加勢する。それでも繭子はまだ何か理解できない様子でいる。仕事に説明するのは厄介なのでできれば避けたかった。
「企業のデータ管理とかそういうシステムを作っているって感じですかね。みなさんはどういうお仕事なんでしたっけ」
「えぇー、聞いてないんですかー。私たち受付嬢してるんですよ」
ボクは答えた里奈になるほどという目を向けた。道理で華やかなわけだ。最近のバリバリ働くキャリアウーマンにはこういう雰囲気は出せない。
「どうりで美人ばかりだと思いましたよ」
隣に座る東が答える。その正面に座った里奈は恥ずかしそうに「ありがとうございます」と言うが、その仕草にはもう何回もこういったやり取りをしているという慣れがあった。
「SEっていろんなシステムを作っているんですよね」
ボクがひと息ついていると再び現実が戻ってくる。繭子はまっすぐにボクの目に視線を差し込む。隣では東と里奈がどこの受付嬢はきれいだとか、愛想が悪いとかで盛り上がっている。
「いろんなって言ってもそんなに多くないですけど、システムを作るのが仕事ですから」
「私、何かを作る仕事って憧れるんですよね。何かを作り出せるのってすごいことだと思います」
繭子の羨望の眼差しはボクでは受け止めきれない。確かに何かを作っているというと聞こえは良いが、本当のところは会社から言われたものを言われたとおりに作るのがボクの仕事だった。
「そう言ってもらえると嬉しいですね。受付だって誰でもできる仕事ではないですよね」
思ってもないことを仕方なく言った。自分のしていることは何もすごいことではないし、そういわれても嬉しくもない。ただ、そう言うことがこの場を一番うまくまとめる術なのだ。
「確かにそうかもしれませんね。私ももうそろそろ良い年になってきたので、違う仕事を探さなくちゃならなくて・・・。そういう意味では誰でもできるわけではないですもんね」
何か違う扉を開いてしまった気がするが、自分の話題から遠ざかったので良いことにしよう。
「もう仕事辞めるんですか」
「すぐって話ではないですけど、受付におばさんが座っているのも変な話でしょう。だから、みんな空気読んで辞めていくもんですよ」
「そういうものなんですか」
「そういうものです」
きっぱりとそういう繭子にわずかに寂しさを感じた。誰に言われるでもなく辞めていく。それも何かの雰囲気を察して、そろそろやめたほうがいいんじゃないかと思って。ボクはどうだろうか。そういう雰囲気があってももしかしたら思い過ごしかもしれないと思い続けて、何年も会社という枠にしがみついているだけだ。その手を離さないことだけに必死になっている。
「辞めてどうするんですか」
「どうしようかなって感じです。まぁ辞めてから考えれば良いかなって」
困ったような表情を見て、本当に何も考えていないのだと思った。そして、そのこと事態に焦りや不安がない。
「ねえ、苗木さんはどうなんですか。好きなタイプとか」
繭子のことを考えていると里奈が突然目の前に現れた。隣では東とそういう話で盛り上がっていたらしく、その飛び火が飛んできたのだ。場にそぐわない暗い話題だったから、気を使ってくれたのかもしれない。ボクは「気を使える人かな」とか適当に答えるとまた場が盛り上がる。里奈はどんな回答も否定しないで、上手く盛り上げてくれた。そしてどうやらそんな里奈を東は狙っているようで、ボクはボクで繭子が気になっている。
「苗木さんは繭子さんですね」
ボクらはトイレで席を立ったタイミングで簡単な作戦会議をした。作戦というには簡単すぎる。ただ単にお互いに狙いを確認しただけの、どちらかというと意思確認に近いものだ。お互いに正面に座る女の子が気になっている。単純に会話の数が多いからだけなのかもしれない。でも、そんなこと今はどうでも良いのだ。どんな理由であっても気になったのだからそれで良い。だからボクも無意味のようで意味のあるやり取りをして、席に戻った。
「はい、東さんは里奈さんですね」
席に戻ると、大喜が場を回している。いつになく楽しそうな表情で女の子3人はきゃっきゃ言いながら、大喜の話を聞いていた。大喜はそうして上手く人の波に乗って生きていける。あいつが話すと周りも笑顔になって楽しそうにするのだ。そういうところはボクにはない。
2時間ほどしたところで会はお開きとなった。明日も仕事があるということでそのあとはまっすぐに帰路につく。ボクたちは駅まで一緒に歩いていき、それぞれの方面の電車に乗るためにそこで別れた。ボクは帰り道の車内で繭子にだけラインでメッセージを送っておいた。
「あれからあの子と連絡とってんの?」
大喜は煙草をふかしながらボクに問うた。
「ていうか言っとけよ。受付嬢が来るってことくらい」
「ああ言ってなかったっけな。すまんすまん。それでどうなんだよ」
大喜はどうでも良いことのように言うものだから、はぐらかそうとするが、自分が気になったことに関してはしつこく聞いてくる。ならばこちらだって聞きたいことがあると思うが、この喧嘩はボクには勝つことができないことはよく知っている。
「取ってるよ、来週会うんだ」
ボクはそれに端的に答えた。大喜は当たり前のことであるかのようにへぇーそうかと言いながら、また煙草を口に付けて白い息を吐き出す。大喜は真面目な話は決して茶化さない。だから、ボクはこうして大喜が人の居住空間で堂々と煙草を吸っていたとしてもそのくらいは許してやろうと思うのだ。
「で、そっちのほうはどうなんだよ」
大喜には歴とした彼女がいる。大喜からこの話を聞いたとき、ずるいと思った。ボクにとっては良い話であるが、大喜のように話も面白くて、友人も多い恵まれた人が女にまで恵まれているなんて。これが嫌いな奴の話ならば、即刻絶交しているところだった。
「俺、結婚しようと思うんだ」
煙草を灰皿に押し当てながら、何でもないように言った。こういうことをさらりと言える自分をカッコいいとでも思っているだろうか。狙っていないようにこういう事をしてくるから、ボクはカッコいい大喜をいじることができないでいた。
「もうプロポーズとかしたの」
「今日が大勝負だな」
大喜は嬉しそうに言う。相思相愛の二人にとってもうそれはごっつぁんゴールなのである。あとはインサイドをしっかりと固定してボールに合わせるだけ。
「なんで今?」
「大事なことほど、軽く言いたいじゃないの。あんまりかしこまると恥ずかしいじゃん」
大喜はいつもそうしたちぐはぐさを楽しんでいるのだ。恥ずかしいことを何でもないことのように言うくせに、どうでも良さそうなことを恥ずかしそうに言う。まるで、なんでもない出来事自体が恥ずかしいことのようだった。
「何時に約束なの」
「あと2時間後だな」
時計は4時ちょうど。大喜はいつも楽観的だ。ボクならこういう日は朝からそわそわして誰とも会いたくないくらいなのに、大喜はいつものように過ごすことができる。そういう違いがボクたちの関係を長いものにしているのかもしれない。
「店はとってあるからさ、あとは行くだけだよ。そしたら、そこから本番って感じだ」
そう言いながら手で何かを渡すポーズをする。ドラマでよく見るあれかと思ったが、現実にああいうシーンがあるんだと思うと、なぜかやけに滑稽なことのように思えてくる。まるでままごとをしているようだ。
それから、ボクは大喜に彼女のことをいろいろと聞いた。大学生の時からの付き合いだから、ほとんどのことは知っているものの、このタイミングでもう一度棚卸しておきたかった。ボクの人生で唯一といって良いほど長い付き合いをしている友人の結婚相手はどんな女性で、どのくらいの期間があって、どういうときに結婚を申し込むのか。さすがの大喜も時折はにかみながらも、やはり堂々とした口ぶりで話すのだった。それを聞いている内に時間は刻一刻と過ぎていき、もうそろそろで出発しなければいけない時間が迫ってくると、大喜のほうは相変わらずの様子で話すのに対して、ボクのほうはどうも落ち着かない気分になって足がむずむずしてくるのだった。
「お前は緊張してどうするんだよ」
ボクが耐えかねて部屋の中を歩き回っていると、そういう癖をよく知る大喜は立場を変えて言ってくる。ボクは大喜が出ていけば何もやることのない暇な人間なのである。
「お前はもっと緊張しろ」
「大丈夫、全部準備してるんだ」
大喜は仰々しく持ってきたバッグを持ち上げた。見慣れたバッグだが、そう言われてみるといつもよりも膨らんでいるような気がする。大喜が普段持ち歩くものなんて、財布と煙草くらいのもので、そのバッグもいつもはすっからかんのままで持ち歩かれているものだった。そして、何を言うかということまですでにシミュレーション済らしいのだ。こういう人は見えないところでやることをちゃんとやっているからずるい。
「ルーチンとか言うじゃないか。あと足りないのはそれだけだったんだよ。それで考えたらいつもの休日と言えばお前の家だろうと思ってな」
「光栄だね。ありがたい」
そして、こういう嬉しいことをさらりと言えるのだ。こんな人間はボクの周りには大喜しかいない。恨めしいほどに羨ましいところがたくさんあるが、決して嫌いにはなれないのだ。
「いつものように晩飯食って、いつものように話して笑ってさ、それでいつものように帰りながら切り出そうと思うんだ。もう、派手なことする年じゃないけどサプライズ感はあるほうがいいんだろうなって思ってさ」
「ボクにも一本くれよ」
「おぉいいのか」
ボクは大喜からセブンスターを1本もらって一緒に吸った。大学の時なんかはこうして一緒に話すでもなく、隣でよく煙草を吸ったものだった。ボクは世間の流れに乗って禁煙したが(こうしてたまに吸っている時点で禁煙と呼べるのかはわからないが)、大喜はただ吸いたいという理由だけで吸い続けている。彼には世間とかそういったものはあまり関係ないようだった。
「やっぱりうまいな」
「だろ。やっぱ吸いたいんじゃん」
何年かぶりに吐いた白い息は瞬く間に見えなくなって台所の換気扇へと消えていく。久しぶりの刺激に頭がクラリとする。あの頃は毎日吸っていたのに、今や1本でこれだ。そう思いながらボクは短くなるまで1本の煙草を楽しんだ。
大喜は白い煙だけを残して家を出た。いつもよりも大きく膨らんだかばんには何が入っているのだろうか。指輪だけであんなに膨らむのだろうか。今になって思うことがたくさんある。どうしていつも聞きたいことを聞きたいときに聞けないのだろうか。急激に静かになった部屋の中で一人そう思った。
ボクは新宿の西口の改札で繭子がやってくるのを待っていた。壁にもたれかかりながら改札を行きかう人を眺める。休日の新宿にはさすがにビジネスマンらしき人は少ないが、幸せそうなカップルから楽器を背負った3人組、奇抜な格好をした人―。それぞれが自分の目的地を目指して進んでいく。ボクもその中をもがきながら泳げているのだろうか。
「何を見てるんですか」
くだらないことを考えていると繭子が隣に来ていた。その一言で遅刻してきたことを咎める気力もなくなる。
「いや、何でもないですよ。ちょっとボーっとしてただけです」
ボクは人間観察なんかをしていることでいきなり引かれるのは嫌だったので、そうしてはぐらかした。こんな時に「いろんな人を見ながら、それぞれの人生に思いをはせていた」なんて言えるのはよっぽどのナルシストか成功者のオーラを持った人くらいのものだろう。
「あらそうなの。じゃあ行きますか」
繭子はそれ以上は聞くことなく歩き出した。先日あった時とは打って変わってジーンズにTシャツというラフな装いの繭子は前とは別の意味で魅力的に映る。今日は今はやりのイタリアンの店に行く予定だった。リーズナブルでおいしいというベタな理由だが、安くてうまいならばそれ以上に必要なものはほとんどない。
「この前の幹事の男覚えてますか?佐々木大喜っていうやつ」
「あぁ、覚えてますよ。あの人ってお相手いるんですよね?」
繭子はまるで汚らわしいものを見るようにボクを見る。自分が責められているわけでもないのに、胸がズキンとする。ボクはそれを知っていたから共犯と言えば共犯なのだが。
「まぁそうなんですけど。あいつ、実は結婚するんですよ」
ボクは言いたかったことを一息で言い切った。これ以上繭子が怪訝な顔をするならば、即座に話題を変えるつもりだった。
「えぇっ、結婚ですか」
展開早すぎと大げさに言いながら、その中に先ほどの嫌悪感を感じられなくなった。
「ボクも昨日聞いてびっくりしたんですけど、その日にプロポーズしてなんかうまいこといったみたいなんですよね」
あの後、ボクはドキドキしながら大喜からの連絡を待っていた。深夜まで待ったが何も連絡がなく、若干苛立ちながら翌朝を迎えると1通「大成功。やったね」とだけメッセージが来ていたのだった。ボクのそれを見て寝起きにもかかわらず一人ガッツポーズを決めてみたものの、やはり朝一の体にはきついものがあり、とりあえず簡単に祝福の言葉を並べたのだった。
「なんかもうそういう歳ですよね。一緒にここまでやってきたつもりだったのに気づいたら周りはどんどんゴールインしちゃってるみたいな」
繭子の言葉に自分にももしかしたらチャンスがあるのかもしれないと思ってしまうのは浮かれすぎだろうか。ボクはなるべくそれを表情や口調に出ないように答える。
「ボクの知っている人はこれで全員ですね。あんまり友人って多くないですけど」
冗談めかして笑っていると私ももう2,3人くらいですよと笑いながら返してくれる。
「お返しにこっちも教えてあげます。なんとあの直ちゃん、子供ができました」
「うそでしょ」
直ちゃんとはあの日大喜の正面に座っていた女性だ。あの子と大喜が幹事になって開かれた会なので、大喜がナンパした受付嬢というのはその直ちゃんなのだろう。
「その直ちゃんっていくつなんですか」
気が付いたらそんなことを口走っている。あのメンツならばおそらく繭子と同じ歳だろう。だとすると繭子が本気で焦りだすのも納得できる。
「私と同じ歳ですよ」
ボクは繭子の年齢さえも聞いていないことを思い出して、黙り込んだ。「いくつだっけ」と聞いてしまうのもいかにもあなたには興味がなかったのですと白状するようで避けたかった。
「直ちゃんは今年29歳で私も同い年です」
繭子は何かを察してそう付け加えた。ボクはその助け舟に黙って乗り込んだ。そして、彼女の年齢を決して忘れぬように頭の中で何度も繰り返した。
「いつ分かったんですか」
「先週だったかな?確か。てか、そんな状態なのに合コン開くとかどうかしていますよね」
そう言うと繭子の目がキラキラと光りだす。ボクはそれを知ったときそんなこと思いもしなかったが、確かに結婚間近の男と妊娠間近の女によって執り行われたあの出会いの会は、周到に仕組まれたコントのようで苛立ちよりも先におかしさが目につく。
「確かにそう考えると、あれは何だったんだと思いますよね。確かにあの2人だけなんかがっついてないというか違う感じはあったんですけど。もちろん大喜のほうは知ってたんですけど」
ボクは繭子がこの話をしたいんのだと思い同調した。本当のところはなんにせよこうして出会いがあったので、そんなことはどうでも良かった。
「私も直ちゃんが結婚していることは知ってるんですけど、さすがに合コンしようって言われた時はびっくりしましたよ。それも全然知らない得意先の人にナンパされているし」
誰を批判するでもなくそういう繭子にボクはうんうんと言って相づちを打った。そうしていると文句でも愚痴でもない何かを繭子は吐き出し続ける。女とは不思議なものでそこには何もなくともこうしてるだけで良いときがあるらしい。そして、ボクはボクでこうして訳も分からず人を満足させているのだと思うことが好きだった。
「もう本当にみんななんですよね。結婚とか妊娠とかのライフステージを通過していっていて。私も早く結婚したいなー」
一通り言いたいことを話した後に繭子は言った。少しばかり遠くを見ながら、決して悲壮感が漂わないように意識しているようだった。ボクにはそれが余計に焦りを感じさせものとなる。
「テレビだったら晩婚とか言ってますけど、あれは嘘ですよ。まだ30間近なのにもうみんな結婚してるって人ばっかりですもん。40、50代でも恋愛できるのって女優とかアイドルとかそういう人だけですよ多分」
「確かに周りの40代でまだまだ元気って人はいないですね」
「メディアの情報操作ですよあんなの」
「そうかもしれません」
想像以上に強い口調だったのでボクは一瞬ひるんでしまった。確かにテレビを見ていて安心していたら現実は違うなんてことはたくさんあるし、本当にそれを信じていたのならば憤りを感じるのも無理はない。
「苗木さんはそこんところどう思ってるんですか」
繭子は痺れを切らしたようにそう聞いてくる。詰問するような雰囲気にやはりドギマギしてしまう。
「情報操作についてですか」
かろうじてそう言うと繭子は動きを止めて固まる。その一瞬のちに突然笑い声が上がった。
「違いますよ。結婚についてです。今、情報操作について語り合ってどうするんですかー」
苗木さんって天然ですか。とか言いながら繭子は笑う。少し和んだ雰囲気に安心する。ピリついた空気は苦手だ。
「もうそろそろ意識はしますよね。さすがに。でも女性ほどに焦りはないかもしれません。もちろん、早くに結婚するに越したことはないですけど」
ボクはそう言ってしまってから、あまりにも曖昧な言い方を後悔した。繭子という魅力的な女性を目の前にしているだから、嘘でもすぐに結婚したいというべきだったのではないかと思う。
「やっぱり男性の感覚ってそうなんですね。女は期限があるから本当に死活問題ですよ。あまり遅くなると子供産めなくなるとか」
案の定の答えだった。ボクも決して焦っていないわけではない。ただ、何かに駆られて早く結婚せねばなるまいと意気込んでいるわけでもないのだ。そんなことも今から取り繕っては逆効果になるだろうと思い、それ以上は何も言わないことにした。
「男はあんまりそういう感覚がないから気楽なのかもしれませんね」
そう言いながら自分のことを考えた。「男は」ではなく「ボクは」なのかもしれない。結婚も子供もよいとは思うが、なければならないではない。別に何もなくても良いのだ。それ以上の楽しみさえあるのならば。
「私憧れなんですよね。結婚式でたくさんの友人に囲まれて祝福されて、子供ができて成長して大人になっていくっていう人生が。今はキャリアウーマンとかでバリバリ働くっていうのが普通みたいな感じですけど、働き続けるかどうかは別としてそういう人生でありたいですよ」
繭子はまるで少女のように言う。その言葉の節々にはもちろん年相応の現実は感じられるが、どこかそれは霧を手でかすめるような虚しさをはらんでいた。
「じゃあボクとお付き合いしてください」
繭子の目が丸くなる。ボクはその目を落ち着いて見つめた。変なタイミングだとは思ったが、今日言おうと決めていたのだ。大喜が成功したから勇気をもらったというと美談のようだが、実際そういうのも相まって焦りが募っていたのも事実だった。
繭子は少しばかり黙っていたが、驚いた目が元に戻り落ち着いてあたりを見回した後に一言だけこう言った。
「はい。お願いします」
ボクはこの時の繭子の感情を読み取ることができなかった。焦りの中で返事をしたのか、それともボクと同じ気持ちでいてくれたのか。彼女は何かを決意したように強いまなざしをボクに向けたのだ。窓の外ではまだ昼間の強い日差しがあたりを照り付けていた。
「結婚式したらお前ももちろん来てくれるよな」
大喜は台所の換気扇の下からこちらへ向けて話しかけてくる。結婚を決めてもう一緒に住んでいるはずなのに、相変わらず大喜はボクの家に来た。ボクはいつまでこの関係が続くのだろうかと不安を感じながら、そういうものを大喜には感じさせまいとしていた。
「そりゃ喜んで行かせていただきますよ」
おどけて言ってみるが大喜の興味はそこへは向かない。
「そうだよな〜。じゃあさどこまでの人が来てくれると思う」
「今付き合いある人なら来るんじゃない」
「そうだよな〜。やっぱり呼んだら来るよな〜」
大喜は聞き流しているようで、何かを指折り数えている。
「もしかしてすでに計画中なの」
ボクは率直に聞いてみた。結婚が決まったのだから式の日取りを具体的に考えるのは当然の流れである。
「こういうのは早いに越したことはないんだからさ。それにテレビとかでよく言ってるじゃん。結婚ウン十年だけど式は挙げてない夫婦の不満。ああいうのにはなりたくないんだよ。ずっと嫁さんに弱みを握られているようで対等じゃないからな。だから、俺はお金があろうがなかろうが結婚するって決めたら式もセットだってずっと思ってんの」
奥さん想いなのか、自分を守るためなのかよく分からない言い分に大喜らしさを感じる。こうして、自分を守りながら相手を立てることができる男なのだ。
「というかもう式場押さえてるんだよね。だから早く招待状送ってもろもろの準備もしないといけないんだよ~」
一瞬言葉に詰まる。式場を押さえた?すでに?飄々とした口ぶりと言っていることが合わない。
「えっどういうこと?」
「だから、もうスケジュール押さえているからあとはそれに合わせてやるだけなんだよ」
「えっえっ、だってこの前プロポーズしたばっかじゃん」
「だから、やるんだろ」
言葉だけが頭の中に入ってきて、状況が理解できなかった。一度にたくさんのことを決めすぎだ。
「そりゃ向こうの両親もびっくりしていたけどな。結婚の許しを出したら、そのまま結婚式に招待されるんだからさ。ハトが豆鉄砲くらうような顔ってこういうのを言うんだって思ったなぁ」
まるで他人事のように言う大喜に余計に現実感を削がれる。大喜は自分の非常識を嘆いたりしない。
「で、いつやるの?」
「半年後の12月だな」
大喜はそう言って今日2本目の煙草に火をつけた。ボクはあの日以来1本も吸っていない。大喜はボクの家の換気扇の下で再び指を折りながら人数を数える。知らない人の名前ばかりを並べながら、いやあの人は来ないかとか、あの人呼ばないと後でうるさいかなとか言っている。知らない人ばかりが出てくるのでボクは口を挟まずにリビングに座って外を見ていた。生ぬるい空気が網戸から入ってくる。こういうのをじめじめした空気というのだろうが、ボクは生まれてこの方じめじめしているというものを感じたことがない。部屋のほうからは煙草のにおいが漂ってくる。これは煙たいとはっきりと感じるのに。
「で、結局誰を呼ぶのか決まりそうなのかよ。そんなスケジュールだったらそろそろ招待状出さないと」
「そうなんだよな~」
大喜はまた最初の調子でふわふわしだした。溜息と一緒に白い煙が吐き出される。黙々とした煙は部屋の中を漂い時間とともに消えていく。大喜はもう3本目の煙草を吸っている。
「だから、こうして苗木君に相談に来たわけだよ。どうせなら、たくさん集まってほしいけど式場のキャパを考えると、全員来ちゃったらダメだろうし、でも呼ばれなかったってあとでなんか言われるのも癪だしな。良い案ないかねと思ってさ~」
話は振り出しに戻っている。結婚式は即決できたのに、呼ぶ人に関しては即決できない。大喜はそのくらい人の感情に関しては敏感なのだ。誰もが気を悪くしない方法を考えたがる。
「そんな完璧な方法なんてないよ。結局のところ披露宴なんてものは近しい人だけにして、全員呼びたいなら二次会とかでたくさん呼べば良いじゃん。そうしておけば二次会だけの人も両親とかに無駄な気を使う必要ないし、一石二鳥だしさ」
このくらい式場の人に話を聞けば教えてくれそうなものだが、なんにせよこのまま悩んでいる暇はないのだ。
「なるほど、それは名案だ」
今気が付いたかのような大喜の胡散臭さに若干苛立つが、いちいち怒る気にならなかった。なぜ自分のほうがこうして焦りを感じないといけないのか。
「お前、結婚式行ったことないのかよ」
大喜は本当にそんなことは考えていなかったのか、誰かに背中を押してもらいたかったのかわからないが、ボクの言ったことがほぼそのまま採用されて大喜の悩みは瞬く間に解消された。
「やっぱり持つべきは友だな」
そう言って嬉しそうに換気扇の下からボクのほうへ向かってくる。その能天気さを羨ましく思う。
「よし、そうと決まれば行きますか」
そう言って大喜は荷物をまとめて、出ていく準備をする。この光景をあとどのくらい見ることができるのだろうかとふと思う。じゃあと手を振って出ていく大喜の後ろ姿が鈍色の外へと吸い込まれていく。ボクはまだこの家の中にいた。
記録的な大雨が世間を賑わせて、川は氾濫し家は浸水し、人も車もたくさんのものが流されていった。ボクはそんなニュースを他人事のように眺めながら、手元の招待状を読んだ。他人行儀なその書面はとてもじゃないが大喜が書いたもののようには思えなかったのだが、宛名の下手くそな筆ペンの文字を見るとやはり本当に心を込めて手書きしたものであることを思い知らされる。ボクはそれを見たとき一瞬目を逸らしたくなった。近くにいたはずの、いや近くにいたと思っていた友人が実は遠くにいた。自分だけがそんな希望的観測を持っていたのではないか、とてつもなく寂しくなり、こんな時に喜びよりも先に寂しくなる自分が嫌になる。つくづく面倒くさい男なのである。そんなことよく知っている。
ボクは式の日付を確認して、ネットで調べながら丁寧に記入した出席の返信ハガキをポストに投函した。暑苦しい太陽がうっとおしかった。氾濫した川も崩れた土砂も、家に入った泥もそのすべてが、この太陽ならば照らしつくすのではないかと思う。そうして地が固まればすべてが解決するのではないかと。実際はそんなことはなく、そこには確かに固まった泥が存在したままなのだ。ボクはいつだってそうやって思いたかった。そう思いたいのだ。
「それは羨ましいね」
繭子の眼がきれいに光る。彼女は人のことを過剰に妬まないのだ。どんなことでも素直に受け止めることができる才能の持ち主だった。
「でもいろいろありすぎて疲れない?」
ボクは率直に思ったことを言ってみる。正直なところ、気持ちが温まっている内にやってしまうのが良いとは思うのは同感するが、相手のこととかいろいろを考えるとやはり常識的でないような気がする。
「疲れるとかそういうんじゃないでしょ。やることに意味があるんだから。オリンピックと同じで」
「そういうもの?」
「そういうもの」
まっすぐな言葉でそう言われると本当にそういうものなような気がしてしまう。疲れてしまうのは本人たちではなく、毎回それに付き合うボクのほうなのかもしれない。
「一番近い友人の結婚ってこんなにも寂しいもんなんだって、なんか複雑だよ。置いていかれる感じがして」
太陽が照り付ける夏には似つかわしくない言葉だと思った。自分の言葉もあの灼熱の球体に燃やされて、灰になれば良いのに。
「私はもうそんな時期過ぎたから。女は結婚するのが早いんです」
そう言って彼女は微笑んだ。女性は出産の痛みに耐えないといけないから、男性よりも強いという話をどこかで聞いたことがある。まさにそんな感じだった。
「やっぱり、結婚って必要ですよね。幸せそうだったもんな」
ボクは大喜の結婚が決まってから、すべてが上の空だった。あれ以降も相変わらず大喜は気まぐれにボクの家にやってくるが、いつもとは何かが違っている。階級が一つ上がったように、違う人を見るような感覚で彼のことを見てしまうのだ。
「私も結婚したいな~」
繭子の言う言葉からボクは彼女の本心というものを感じ取ることができないでいた。自意識過剰ではあるがこれを自分と結婚したいという意味なのだと本気で捕らえることができたのならば、もっと楽に生きることができるのだろうが。いくつかの質問が頭を横切ったが、そのすべてが場をしらけさせるような気がしてボクは何も声に出せなかった。
「そういえば―」
思い出したかのように言うので、ボクは反射的に彼女のほうを見た。鏡のように彼女も目を見開いてボクを見ていた。
「私仕事来月辞めることが決まりました」
彼女の言うそれは嬉しいことを言うわけでも、残念なお知らせをするわけでもなかった。それは本人にとっても実際にそうなのであろうと思う。とはいえ、それはボクにとっては十分に衝撃を与えるに足りる事実だった。聞いていたということと、それが実体を持って現れるということとは全くの別のものであると感じられた。
「もう年だしね。実際人事部のほうでも募集かけるかどうか議題に上がっていたみたいだし。ここまで頑張ってきたのに辞めるとなったらすんなりってのもなんかむなしいけどね」
独り言のように彼女は言う。こうして押し出されていった先には何があるのだろうか。山の中腹で頂上の景色も地上の景色もその両方が想像できるようになったボク達はその後どこへ向かえば良いのだろうか。
「この後どうするの?」
「まだ決めてない。幸い貯金もある程度あるし、ちょっとだけど退職金ももらえそうだから、一休みしてからまたできる仕事を探そうかなって」
なぜ彼女はここまで堂々としていられるのだろうか。まるで、その目の前にははっきりとした道が伸びていてただその上を歩いているみたいだ。少なくともボクにはそう見えた。
「そっか。あーボクも会社辞めたいな」
「苗木君もそうすればいいじゃん」
「そんな簡単なことじゃないでしょ」
「それはどうだろう。言ってみたら意外と簡単かもよ」
「いや・・・」
ボクは出かかった声を止めた。確かにボクくらいのものであれば、すぐにでも首を切れるのかもしれない。後輩たちは順当に育っていき、会社への貢献度で言えば彼らの方が上だろう。様々な問題から目を背けた結果、こうして細かい仕事を拾い続けるだけの30代間近の社員などこの社会にとっては重宝されないことだって知っている。知っているからこそ、辞めてどうしろというのだ。ほかの会社も状況は同じであるのならば、それにしがみついて生きていくということも一つの選択肢である。そう思えば思うほどにボクは身動きが取れなくなるのだ。
「男からすればそのあとが決まっていないということはとても不安になることだよ。気楽なことでもあるけど」
「苗木君って時々古風な考え方をするよね」
繭子は古風という言葉を使ったが、その中には鋭いトゲがあることを感じた。どう言われようがボクの未来で決まっていることなど何一つない。仕事を辞めることも、そのあとの就職先も、結婚も何もかも。見据えるということと決まっているということは圧倒的に何かが違うのだ。
「繭子は不安にならないの」
ボクは不意に浮かんだ疑問を投げかけてみた。彼女が不安にならないのは女性だからだろうか、それとも古風な考えを持たないからだろうか。
「全くないと言ったら嘘ですけど・・・・」
二人の間に沈黙が流れる。ボクは黙って静寂の音を聞いた。
「けど、不安なんてずっとあるものじゃないですか。多分このまま仕事続けていても将来のことを不安に思うだろうし、辞めたら辞めたで不安になるだろうし。安心なんてものはそうやすやすとそこにはないんじゃないかしら」
彼女ははっきりとそう言ったのだ。それを聞いてやっぱり彼女には不安というものはないのではないかと錯覚してしまうが、おそらくそうではないのだろう。繭子は不安を何かに変えることにエネルギーを費やすのだ。そこに紛れもなくあるその存在をいかに手なずけるのかということを考えている。それもほとんど本能的に。
「繭子は強いんだね。とても」
ボクは心からそう思った。少なくとも彼女はボクよりは強い。
「そんなことないですよ。中身なんてブレブレですから」
ボクはこれ以上何かを言うのを止めた。繭子は何を言ってもそうして謙遜し続けるだろうと思ったからだ。自分の中にあることをはっきりと認めることができることも彼女の魅力の一つなのだ。
家に帰ると台所に大喜が忘れていったマールボロの赤いパッケージが目についた。ボクは何の気もなくそれを口にくわえて火をつけた。仕事を辞めれば何か別のものが見えてくるのだろうか。繭子のようにすべてを受け入れながら生きることができるのだろうか。もしかするとそれは「仕事を辞める」という経験をするから初めて知ることができることなのかもしれない。煙草を吸うという経験を初めてしたときのように。
気怠い空気がボクの胸を満たす。それを感じながら煙を吐き出した。換気扇が回っていないことに気が付き、慌ててスイッチを押す。久しぶりの気怠さだけがボクの体に残った。これで最後の1本にしようと続けて煙草に火をつける。体が濁った空気を受け付けないが、それでもボクは短くなるまで吸い続けた。人生でもう吸うことのないだろうこの味を染み込ませるように半ば強引に取り込みながら、今大切だと思っていたものを一つ捨てるのだ。
大喜は相変わらずボクの家へとやってくる。彼とは同じ高校だったが、知り合ったのは大学に入ってからだ。同じ学部に同じ高校の人がいれば噂にならないわけもなく、ボクらはそういう流れの中で半ば確信犯的に知り合いになったのだ。ボクはおとなしめの生徒だったので(正確に言うならば影の薄い系統である)、大喜のように活発な学生生活を過ごした人と近づくのは気が乗らなかった。それでも大喜のほうはそんな素振りは全く見せずに1日目のオリエンテーションからずっとボクについてきては何かを話した。とても他愛のない、いちいち覚えておくほどでもない話だったと思う。疑り深いボクは彼のことを煙たく感じながら、ほかに一緒にいる人もいないので仕方なく一緒にいたのだが、不思議なもので一週間ほど経って大喜のほうに軽蔑の心がないことが分かると、その後打ち解けあうのにはそれほど時間は必要ではなかった。住む場所こそ変わってしまったが、その頃から大喜はボクの家に入り浸っている。
「いやぁびっくりだよな」
大喜は部屋に入るや否や嬉しそうに言う。いつだって大喜は話したいことがあるのだ。たとえそれが何の役にも立ちそうにない話であっても、彼にとっては話すということ自体が必要なことのようだった。そして、それは極端に狭い交友関係しか持たないボクにとっては有益な場合もあった。
「でもお前好きだったんだろ」
「そういう歳だし、普通だろうよ。大喜だって結婚したんだから」
「そうだけど、ほらやっぱり未練みたいな、なんか好きだった子がどんな男を選んだのか気になるじゃん。高校の時なんてみんな恋愛なんてこそこそやってるんだから、あの子があんな人と結婚するの。みたいなさ」
「ボクはその子のことだって、今大喜に言われて思い出すくらいなんだから。もうほぼ他人だよ」
「寂しいこと言うなよ。接点がなかったからとはいえ、同じ校舎で学んだ仲間じゃねえか」
「お前はいつからそんなこと言うようになったんだ」
「ははっ。前から言ってるさ。ずっと前からな」
大喜は笑いながら煙草を吸った。結婚をしてからというものいつにも増して調子が良い。良いことが続くことは人生にとって最も良いことのようだ。
「でも、久しぶりに色々聞いたよ。俺なんてもう最後の方だぜ。みんな結婚したり、起業したり、子供できたり、役職就いてたりしてさ。それなりにやってるみたいで、なんか時間が経つのって早いなぁってさ」
「いつまでも子供じゃいられないってことだよ。きっと」
「でも、どこからが子供でどこからが大人かなんて分からないだろ。子供みたいなことする老人だっているし、大人みたいなことをする子供だっているわけでさ。そういう線引きってどこまで必要なんだろうってたまに思うんだよね」
ボクはそのことについて考えた。最もつまらない答えは線引きが必要だから、そういう言葉があるんだろうという至極真っ当な結果論的回答だ。
「言葉はいつだって正しいわけじゃないだろう。時代に合わせて変わるんだから、いらなくなればやめればいいんだろうな。そして、必要なものは増やせばいいんだ。辞書だってそうやって毎年新語が増えてるって聞くし」
そう言いながら言葉を自分に置き換える。ボクだって社会にとって必要でなくなれば、不要の烙印を押されてしまうのだろうか。もしかしたら、皆がそう思うが故に言葉が増えることはあってもなくなることはないのかもしれない。明日は我が身である。
「そうそう、それでさ。そんなこと聞いてるとさ、なんかまた集まりたくなっちゃって同窓会しようって話になったんだよ。苗木も来るだろ」
「ボクは別にいいよ。行かなくても。知り合い少ないの知っているだろ」
「そんなこと言わずにさ。行ってみるとまた何か違って見えるかもしれないだろう」
「違って見えるも何も・・・・」
そう言いかけて次の言葉を飲み込んだ。知り合いが少ないのは本当のことだし、違って見えるからと言って人が寄ってくるわけでもない。それは紛れもない本心だった。ただそれにしてももう少し何かあっても良い気もしていたのだ。今までなら、そうしていかないという選択をしていたが、そうやって行ってみて本当に違って見えるということだけを楽しむのもありなのかもしれない。
「まぁ、行ってみても良いかな」
「さすが、じゃあ苗木も来るって言っておくな。時間と場所は未定だからまた追って連絡するようになると思うから」
大喜はすぐさま嬉しそうにして、スマホをいじりだした。どのくらいの人が来るのだろうか。果たしてボクのことを覚えている人はいるのだろうか。ちゃんと楽しめるのだろうか。決めた瞬間からボクの中には先立つ後悔が渦巻いている。
「何でも、楽しむ気持ちがあれば楽しいんだよ。その逆もしかりだから、注意は必要だけどな。要は気の持ちようってことだ」
大喜はボクの表情を見てそう言った。今や大喜専用になっている灰皿の中には3本の吸い殻が丁寧に火が消えた格好で入っている。
「お前はいいよな。なんでも楽しそうで」
強引な態度に少し腹が立ち、皮肉のつもりで言ってやった。おそらく大喜にはこういう攻撃も全く効かない。そこまで知っていながら、攻撃しないわけにはいかなかった。ボクにとってはその行為そのものに意味があるのだから。
「だから、気の持ちようなんだって。なんでも楽しい気持ちでやれば楽しいんだよ。だから俺はできるだけ楽しい気持ちでやるように心がけているっているだけの話さ」
大喜は笑いながら、そう答えた。
「たまには外にでも出ようぜ。お前もずっと家の中じゃ気持ちが下がるばかりだろうから」
余計なお世話だと思いながら、実際はそうだったのでボクは大喜の提案に乗った。二人で外に出るのは何年ぶりかと思うくらいに久しぶりだった(実際は1か月前にも一緒に飲みに出かけたのだが)。
狭い玄関を出て外へ出る。夏の日差しは未だにボクらを色濃く照らした。大喜はボクの少し前を歩いている。初めて会ったあの頃のように、ボクは何も聞かずにその背中についていった。
高校の時の同級生が結婚したらしい。この年なんだから当然のことだろうと思うが、あまりにもその数が多くて、ボクらは卒業アルバムを開きながらこいつはまだ独身だの、この子は結婚しただの言って盛り上がっていた。特にボクは高校からの友人なんてもう大喜くらいのものだから、ほとんどすべて初めて知ることで純粋にそのゴシップを楽しんでいた。
その中にボクが昔好きな人がいた。ひそかに思いを寄せていただけの関係だったのに、ふとそれを言った途端に大喜は楽しそうに根掘り葉掘り聞いてくる。クラスの中では比較的話す方というくらいで、その子にはちゃんと彼氏がいるのも知っていたから、ボクは当初何も告げることなく高校生活を終えることになったのだ。こんなになんでもない話に食いつかれても本当に話すことなど何もなかった。ただ、その話を聞いた瞬間相手は誰だろうあの時の人かそれとも別の人なのかと気になっただけだった。
「そんな苗木君に朗報です。なんとあの時の同期で同窓会を企んでいるらしいですよ~。知らなかっただろ」
「初耳だな」
高校の時はメールのやり取りしかしていなくて、その後の連絡手段と交友関係の移り変わりの中で今でも連絡を取るのか大喜くらいで、あとはまだ使えるのか分からないメールアドレスだけがボクの手元にはある。大喜が言わなければボクはそんなことを知る由もないのだ。
「なんかちょうど30歳になるし、みんな呼んでやりたいって言ってたぜ」
「本当にみんな来るのかなぁ」
ボクは半信半疑だった。高校から大学に散らばっていった友人たちが未だにそれほど強固なつながりを持っているとは想像しにくい。今回の話だってたまたま大喜が久しぶりに連絡を取ったから分かったことで、それがなければ大喜にさえも連絡はなかったのではないかと疑ってしまう。
「みんな来るかはさておき、せっかくたくさん来るんだからさ、行ってみようぜ。みんながどんな大人になったのか見てみたいだろ。お前が好きだったあの子も来るかもしれないぜ」
ボクはとても億劫な気持ちに苛まれてた。もう10年は会っていない人たちに会うこと事態をうまく想像できない。それが楽しいことなのかそれとも苦痛なことなのかわからないうちから決断ができない。
「大喜も行くよな」
「もちろんさ」
「じゃあ、俺も行こうかな」
「そうこなくちゃ。じゃあ苗木も連れていきますって連絡しておくな」
今年の夏は記録的な猛暑だったらしい。ボクは一日のほとんどを空調設備の整った室内で過ごしていたため、そういった自然の猛威とは無縁の生活をしていた。テレビをつけると毎日のように明日の気温の話から熱中症の対策まで暑さに関する多くの報道がされていたためそういうことが起こっているのだという認識をした。ボクはその報道をどこか現実のことと感じられないまま静かに夏は過ぎ去っていった。夏が過ぎると台風がやってきた。これは明白に現実のことで玄関を出た瞬間に絶望的な光景が広がっていたときには出社をためらったくらいだ。雨や風は目の前に会ったが、温度は目の前にはなかった。
同窓会は9月の中頃に行われた。いつからかシルバーウィークと呼ばれる連休が今年は短く、その1週間後を狙っての開催だった。開催場所のホテルの宴会場に早めについたボクと大喜は同じく早めについた他の同級生と会話を交わした。彼は自分のことを高橋と名乗り親しげに挨拶をした。ボクらは顔を見合わせて、記憶の引き出しの中から高橋という名の同級生を探したが、今目の前にいる真面目そうな眼鏡をかけた男性のフォルムはない。
「あっ、覚えてないんでしょ。のっぺらぼうの高橋だよ」
「えっ、えっ、あの高橋」
ボクと大喜の声が重なる。その高橋ならはっきりと覚えている。2年の夏休みが明けた時にどういうわけが眉毛がなくなり、柔和な顔立ちに眉なしという何ともアンバランスな存在感を周囲にまき散らすわりに、クラスの中では特に目立つ方でもなく誰もがその理由を大っぴらに聞くことができなかったあの高橋だ。10年も経てば眉毛も無事に生えてきて、本来の優しい顔立ちに相応な毛並みがそこにはあった。そのせいもあり印象ががらりと変わり、もはや別人である。
「眉毛あるじゃん」
大喜がでかい声を出すと、高橋は照れ臭そうに笑う。あのころと変わっていない。確か高2の2学期の始業式の日にこれと同じ光景を見た気がする。あの日は「眉毛ないじゃん」だったが、その時も高橋が照れ臭そうに笑うだけでその詰問から逃げ切ったものだからそれ以降誰もそれについて聞く者はいなかった。あの時の顔と同じだ。
高橋は大学を出て今は大手食品メーカーで営業をしているらしい。眉毛全剃り事件については依然として照れ笑いでかわしてくるが、それ以外のことはすべて誠実に答えてくれた。役職にもついてかなり優秀な社員らしかった。そして、彼の薬指にはしっかりと指輪がはめられていた。
そんな驚愕の再開を果たしていると続々と人がやってきた。ボクたちの高校は一学年で200名弱いるので、こうして人波が溢れてくると高橋みたいに悠長に挨拶をしていられない。ボクらはとりあえず人波から離れて落ち着くのを待つことにした。
受付をしてどんどん人が入ってくるのを眺めている。そのほとんどが余裕ともいうべき大人の落ち着きを携えて、それでいて少年少女のまばゆさを少しばかり残していた。10年という月日は人を大人にするには十分だった。そして、おそらくそれはボクらも同じなのだろう。
「じゃあ、苗木も楽しんで来いよ」
煙草から帰ってきた大喜が意気揚々とボクの隣を過ぎていった。元々高校生の時はあまり接点を持っていなかったボクらはこういう時には別行動になる。大喜は大喜なりのボクはボクなりの懐かしさを楽しむのだ。
「みなさん、忙しい中お集まりいただきまして誠にありがとうございます」
スピーカーからの挨拶が空間に響き渡った。気が付けば会場内は軽く100人くらいの人で埋まっていた。立食型のこの会場の中でわずかに高くなった壇上にその男は堂々と立っていて、誰もが次の言葉を待った。その男は終了時間、会場内の注意事項、メニューの紹介を粛々とボクたちに伝えた。
乾杯の合図が終わるとボクはあたりをもう一度見まわした。誰か知っている人はいないだろうか。子供を連れてきている人もいるし、堂々としたいで立ちで話をしている人もいるし、子供みたいにバカでかい声で話をしているものもいた。あの頃は同じ教室の中で同じことを学んだはずなのに、こんなにも違うのかと改めて思う。
「苗木じゃん。まさか来てくれるとは思わなかった。ありがとね。今、元4組で集まっててさ、ちょっと来てよ」
矢継ぎ早に情報を放り込んできたこの男の顔を見る。橋本だ。全体的に年を取ったという感じがするが、どこをどう見ても橋本だった。彼は当時クラスの中では特に目立った方ではなかったものの、一定の地位を持っていた。
橋本が声をかけているせいか自然と引き連れる形になった元4組の集団は理系クラスで、ボクはこのメンバーたちと2年間を共にした。さすがにほとんどの人が変わってしまったが、何となく顔と名前は一致する。そして、その中には当時好きだったあの子もいた。
ボクはその集団に紛れながら、昔話に花を咲かせ、集合写真を撮って、近況を話し合い、まさに同窓会というものをそのままに味わった。懐かしい気持ちは当時の夢や希望まで連れてきて、自然と楽しい気持ちになってくる。
「そういえば、苗木は結婚しないの」
そういう話になったのはちょうど仕事の話も一通り終わり、クラスの半分以上がすでに既婚者であることが判明したころだった。
「まだ予定はないよ。したいと思うけどね」
「彼女いるの?」
「今はいない」
「そろそろ相手見つけないとやばいだろ」
こんなやり取りを何度してきたことだろうか。ボクは紋切り型の回答を繰り返し、もはやこのくらいのことでは何も感じなくなってしまっていた。
「結婚したら自由じゃなくなるから、遊ぶなら今のうちだぜ」
「そうそう、今日だって子供の世話とか嫁に頼み込んでやっと来れたんだから」
どういうわけかこういう話になると決まっていかに結婚生活が大変か自慢が始まる。結婚を勧めてくるくせに、こういうのをのろけという言うのかもしれない。
「でもよ、やっぱり良いもんだよな。今は遊んでいられるけど、そういうものが楽しくなくなったり、遊ぶような人が周りからいなくなったときに結局頼りになるのは奥さんとか子供だからな。老人になって孤独に暮らすなんてもんは本当に悲惨だと思うぜ」
橋本がしみじみという。彼の薬指にもやはり指輪が光っている。まるで人生の先輩であるかのような口ぶりに少し苛立つ自分がいる。
「まぁいいことばっかりじゃないけどな。そこらへんはさ、自由だから。実際俺の周りにも独身決め込んで楽しくしているやつもいるぜ。端から見ればあいつも楽しそうだもんな。今の時代いろいろあっていいんじゃない」
そう言うのは高橋だ。当時長かった髪は年相応に短くそろえられ、一瞬戸惑ったが誰のことも否定しない口ぶりは当時のままだった。
「あの由美ちゃんは結婚していないのに、千穂ちゃんが結婚しているんだぜ。結局それだけはが全てじゃないし価値観の問題だろ。由美ちゃんだって相手を選ばなければ寄ってくる男なんていくらでもいたはずだぜ」
少し離れた場所にいる二人を見る。二人とも何やら嬉しそうに話をしている。当時由美ちゃんはクラスだけでなく、学年の中でも人気の女の子だった。千穂ちゃんは逆に目立たない存在で、男友達がいないようなおとなしい子だった。
「こういう場で再会してっていうパターンもあるらしいから、願望があるなら苗木も頑張らないとな」
「うん、それなりに頑張るよ」
ボクはどういう表情をして良いのか分からなかった。結婚の二文字の前ではボクは圧倒的に劣っている気がした。
「そういえば、森田のやつ未だに芸人やってるんだって」
「あいつまだやってんの、テレビで見ないしもうやべえんじゃねえの」
「それがさ、今どきは40くらいでブレイクするのも珍しくないんだから、まだまだチャンスはあるんだとか言ってやめる気はゼロらしいんだよね」
森田は高校のときから面白い存在としてこのクラスに君臨していた。授業中もチャンスがあれば笑いを差し込んできて、先生を困らせていた。ただ卒業と共に養成所に入るとか言い出したときにはさすがに誰もが無謀な挑戦だと思っていたが、本人だけは大真面目だったものだからそれだけは誰も笑いにすることができなかった。
「今日も舞台の出番とかで来れないって」
「頑張るのは良いことだけどさ、引き時も大事だよな。最終的に売れればスゴイことなんだろうけど」
彼らはそうして現実を見てきた組なのだ。そしてボクとは違いある程度人に誇れるくらいの何かを手に入れている。夢は叶わずとも、夢にすがるほど飢えてもいない。
「結局は才能の世界だもんな。ああいうのって」
同じ空間で過ごした仲間のはずなのに、遠くの世界の話をするような口ぶりになってくる。森田はまだボクらと地続きの場所でサラリーマンをするのと同じくらいの、いやそれ以上の努力をしているのだろうと想像する。何となく一日を終えるくらいならば、笑われてもそういう人生を歩んだ方がよっぽどかっこいい気がした。
「でも、夢や目標があるって良いことだよな」
「何でもかんでも追えば良いってもんじゃないけどな」
橋本の答えに高橋も黙って同意する。彼らにとって目標は手を伸ばせば届きそうな、指先をかすめそうな実感を持ったもののことなのだ。雲をつかむようなものは所詮空想上の話にしかならないようだった。じゃあそのどちらも持たない人間は彼らにとって正しい存在なのだろうか。
ボクは彼らの言葉を胸に沈めながら、会場を後にした。楽しい雰囲気の中で二次会にも誘われたが、それは今の自分にそぐわないものだと思った。そういう場所へ行けばより惨めになる。遠く離れた会話をしないといけなくなる。この会場に来る以上にそれがどうしようもなく億劫だった。ボクはできるだけそこから何かを持ち帰らないようにいそいそと狭いワンルームへと帰ったのだった。
「同窓会行ったんだって」
「うん、懐かしい人たちがいっぱいいた」
できるだけ何でもないことのように努めた。繭子とはいつしか敬語無しで会話をする間柄になっていた。ボクが欲するのと同じくらいに彼女もボクを欲していた。
「もう10年ぶりくらい?」
「そうだね、そのくらいかもしれない」
ボクはそっけなく答えることに終始しようとした。そうして早く繭子の興味が削がれることを期待した。
「高校だよね。じゃあ当時好きだった人に会っちゃったりとか、この10年間で変わってしまった人たちもいるよね」
「まぁそうだけど」
ボクはズキリとしたものを感じながら、この直接攻撃すらもかわそうと試みた。
「なにそれ、面白い話いっぱいあるんでしょ」
繭子は眉間にシワを寄せて、口を尖らせた。このまま放っておくとしまいに、何も話さなくなってスマホを見出すのだ。そこまでなら良いがそれに加えて、「もう帰る」なんて言い出したらややこしくなる。以前に一度つまらないことがきっかけでそういうことがあった。あのときは何度謝っても許してもらえず、最終的には時間とともにその機嫌も治ったわけだが、頼りにするには時間という概念はあまりにも心細い存在である。彼女のその予兆をみて、このまま機嫌が悪くなるのをみすみす見ているのは得策ではないと思った。
「大体言うとおりだよ、好きだった子もいたし、変わった奴らもいた。でも変わらないやつもいたんだよ」
なるべく深堀されないように、話したつもりだった。自分がどうしてこの話をしたくないのかはよくわからないが、条件反射的に嫌だと思ったのだ。
「いいなぁ。私なんてもう本当にずっと会ってないよ。誰とも。羨ましい」
繭子の昔話はあまり聞かない。ボク自身特別気になったわけでもないが、会社員になってからの話以外を聞いたことがなかった。ただそれは何か暗いものがあるからではなく、単純に機会に恵まれていないからなのだと思っていた。
「未だに売れない芸人続けているやつとかいてさ。面白かったよ」
ボクがそれ以外にも、サラリーマンでそれなりにやっている者や結婚して幸せそうにしている者、風貌が変わってしまった者の話をした。ボクが話せば話すほどに繭子の瞳の奥の影が薄くなる気がした。ボクがそれを照らすようにして、あの日のことを必死に思い出し続けていた。見たくないものを見ないように。
「やっぱり良いもんだね。昔はなんでもできるような気がしたけど、今となってはこうだもん」
「夢を叶えた奴なんて結局一人もいなかったよ。みんなもがいてもがいてどこかであきらめる理由を探して、それを手に入れたらおしまいさ」
言いながらむなしくなる。ボクは本当にそんなことを思っているのだろうかと。まるであきらめることがカッコイイことのようだ。
「大人になるって寂しいね」
繭子はただ真っすぐにボクを見た。目が合わない。少し下を見ている。今ばかりは貫くばかりにボクを見つめてほしかった。
「そんなことが大人になるって言うのなら、子供には教えられないよね。みんな夢を持てとか言われて育ったのに、その行く先は夢をあきらめろだなんてあまりにも残酷すぎる」
「繭子には何か夢があったの」
繭子の熱につられるように聞いていた。
「具体的に何って感じじゃないけど・・・」
繭子は恥ずかしそうに口を開く。
「夢とか希望とかがないと生きがいがないというか。なんて言えばいいのかわからないけど。人生つまらないじゃんって言う話」
「希望か・・」
ため息のように漏れ出た言葉がたばこの煙のように空気に溶け込んで消えていった。ボクは希望そのものを夢見ていた。だから未だに希望自体の正体を知らない。
「そうはいっても私たちもう夢なんて諦めて生きてきた口じゃん。カッコいいこと言っても実態とはかけ離れているから、説得力ないよね」
そういう彼女が強がっているようで自分まで恥ずかしくなる。そもそもボクは希望などもともと持っていない。ただどこかに光り輝く何かしらの未来があって、何となくそれを夢見ていれば気づいた時には指が触れていて、少しの努力と時間さえあれば誰もがつかめるものだと思っていたのだ。そして、今でも現実を受け止めながらも心の奥底ではそれが自然と自分の手の中に落ちてくるかもしれないと待ち構えているのである。
「夢がなくても楽しければ良いんだよ」
ボクたちはそうして得体のしれない何かに対して強がるのが精一杯だった。光り輝くような楽しさは日常にはなかった。目の前には霧がかった未来があるだけだ。だからこそ想像の世界だけでは未来は光っていなくてはならないのだ。
「楽しければねえ・・」
「たまに思うんだよね。同じような毎日が続いていると、今日みたいな日をずっと続けていくうちに年ばっかりとっていって人生が終わっていくのかなって。でもみんなそうじゃん。毎日会社行って仕事して、家に帰ってご飯食べてお風呂入って寝て、頃合いを見て結婚して子供ができて、人生のイベントは終わり。それが普通だからって理由だけでそういうものが正当化されているのはなんかおかしいような気がする」
普通を生きる必要なんてない。そう言おうとしたが言えなかった。そう思っていてもボクは十分に普通を生きていた。世の中のスタンダードを突き詰めていけば、ボクのような人間にたどり着くような気がする。特別に秀でた存在ではないのだ。不特定多数の平凡な人間に過ぎない自分の口から、そんな使い古された言葉を発することができなかった。
東京に何年振りかの雪が降った。昨日一日降り続いた後、何事もなかったのように広がった青空を眺めながら休日の新宿を歩いていた。ところどころに雪は残るものの、人の体重によって圧着していくせいで歩くのに注意は必要なかった。皆に踏みつぶされた雪は端のほうでひっそりとして、時たま子供に見つかり無残にも手でもてあそばれてそれすらも日が沈むころにはほとんどなくなっていた。
ボクはこうして訳もなく街に繰り出すのが好きだ。今日は大喜も家に来ないし、繭子との約束もなかった。適当にウインドウショッピングを楽しんで、CD屋を覗く。欲しい服があるわけでも聞きたい歌があるわけでもない。ボクはこうして街の空気を吸いたいだけなのだ。この空気にさえ触れていればこの荒波に揉まれて無力であるのは自分だけではないと感じることができるからだ。誰もが人波に揉まれる不特定多数の人間である。自分だけが特別な人間でないように、彼らもまた特別な才能を持った人間ではない。なぜか、こうして人波に揉まれているとそう思えるのだった。
「あの~。すみません」
声のする方を振り向くと見知らぬ男と女が立っていた。夜を間近に控えた新宿の地下道で、ボクと男女は人波を崩さないようにして立ち止まっている。
「ここらへんでおいしいラーメン屋知りませんか」
「おいしいラーメン屋?」
「そうです。おすすめのところ教えてほしいんです」
見知らぬ人に道案内を頼まれることはあっても、その目的地を尋ねられることはまずない。不思議な気分に包まれながらどういうわけかおすすめのラーメン屋のことを考えていた。
「すみません。あんまりラーメンって詳しくなくて。そこらへん歩いてたら何件かありますけど・・・」
「あぁそうなんですね。なんか詳しそうだったからつい声をかけちゃいました。すみません」
「そんなことはよくありますので、気になさらずに」
二人があまりに申し訳なさそうにするので、まるで悪いことをしたような気分になる。
「もしよかったら、一緒にどうですか?ラーメン屋探し」
「えっ・・」
「そうだね、3人のほうが楽しそうだもんね」
申し訳ないと思っているのか、それともただ厚かましいだけなのか。その男女はボクの一言につけ込んで会話のペースを握ってきた。ボクはボクでちょうど良い時間だし、やばそうな見た目でもないことに安心して、それでも良いと思っていた。
「でも本当にどこがおいしいのか知りませんよ」
「大丈夫です。僕たちも知りませんから」
少しの違和感を感じながら、この奇妙な体験を楽しむ気持ちで二人についていった。
この二人はカップルではないらしく、会社の同僚でもなく、学生時代の付き合いがあるわけでもなかった。何かの集まりで知り合い仲良くなったらしいが、ボクにはその何かが良く理解できなかった。とにかく不思議な関係の二人に連れていかれる形で、ボクは見知らぬ、しかも道端で話しかけられただけの人たちと食事に出かけるという出来事を受け入れていた。刺激のない日常にはこのくらいの刺激が必ずしも必要だった。
「あそこなんてどう」
地上に出て少し歩いたところに赤い看板を光らせている店があった。店先にはボリューム満点のラーメンの写真が掲げてあり、カウンターのみの狭い店内はいかにも男が一人で入る店という趣だった。
「なんか・・・」
「あそこにしよう」
「あ・・・」
ボクの言葉は男のほうに遮られ、探してたラーメン屋ってこういうところなのかと後悔しながら、一緒に店に入っていく。
目の前に写真にあったラーメンが運ばれてくる。カウンター席にはやはりむさくるしい男の一人客が一席おきに座っていた。ボクたちはその中に入り込んだ場違いの客だった。それでも二人はお構いなしに純粋にラーメンと会話を楽しんでいる。
「さっきも言ったかもしれないんですけど、私たちいろんな目標を持った集まりがあってそこで出会ったんですよ。苗木さんも何か目標とか持ってますか」
「目標ですか・・・」
「そうです。私は将来自分の店を持ちたいと思っています。カフェでもバーでもいいんですけど、いろんな人が集まれるそんな店を持ちたいんです。ほかにも、会社立ち上げたい人とか、俳優目指している人とかいろいろいますよ。徳川君は馬主になりたいって言ってたもんね」
「そうだね、競馬が好きだからとにかくそれに携わりたいんです」
「そんなに大きなものばかりじゃないですよもちろん。会社でトップに上り詰めたいとか、子供たくさん産んで幸せな家庭を築きたいとか、何千万円貯めたいとか。そんな人もいます」
ボクが眉間にしわを寄せると慌てて女のほうが付け足した。ボクにそんな目標はあるのだろうか。森田のように泥臭く追い続けるもの、橋本や高橋のように何かを諦めた上に築かれたもの、テレビで見るようなもの―。
「大したものはもうないですよ。普通に暮らして、それなりの生活ができれば」
ボクはラーメンをすする二人を見た。いわゆる意識の高い二人はこういうことを言えば一気に自分に興味をなくすんじゃないんだろうかと思った。だが、二人の反応はボクの思ったものとは全く違った。
「今からでも見つかりますよ。些細なことでも目標持って生きることって大事ですよ。例えば些細な生活って言っても、いろいろあるじゃないですか」
「普通の中にも種類があるってことですか」
「そうですよ。だって結婚して子供育ててって言ってもいろんな夫婦がいますよね。それに金持ちの家庭があったり、貧乏でも幸せな家庭があったり。あっすみませんもしかして結婚とかじゃなくてってことでしたか」
「いや・・・」
ボクは今出かけた言葉を言うべきか迷った。確かに結婚はしたい。だがそれは世間の空気に押されてのことだ。自分が心の底からそう思ったものではない。そうでなければこの気持ちに説明がつかない。
「いや、そういうもろもろを含めて明確なものがないんです。ボクには」
「じゃあこれから探さないとですね」
女のほうはそう言ってにこりと笑った。そこには悪意は微塵も感じられない。様々な目標を持った集まりという怪しげな集団に所属するには不自然な性格に感じられた。だが、本当のところまさかそんなものに引っかかるなんてと思った人のすべてがこうしてイメージと実態の違いを知らずにひっかかるのかもしれない。この体験は経験値としては面白いがこれ以上足を突っ込む気はなかった。
「年も年ですが、そういうものがあればもう少し人生が楽しくなるんですかね」
「そうですよ。やっぱりそういうものが生きがいみたいなものにつながるんですよ」
「生きがいですか・・・」
「もしよかったら、知り合いに会社を立ち上げた人がいるんであってみませんか」
「えっ・・・」
「そうだね。一回あってみるといいかもしれない。いつなら行けますか」
「ちょっと待ってください。そんな急に言われても、話すことなんてないし困りますよ」
「もしかしたら話してみると何か見えるかもしれませんよ」
「本当に何もなかったら、相手にも悪いですよ。ボクらだって今会ったばかりじゃないですか」
「今会ったばかりでも話すことたくさんありましたよね」
「そう言われればそうですけど・・・」
「じゃあ、予定聞いときますね。また連絡しますよ。目標見つかるといいですね」
女のほうがやはりにこりと笑った。その日は半ば強引に連絡先を交換し、そのまま駅で別れていった。ボクはこの手の話が苦手だ。みんな目標だの夢だのそんなものがないといけないと言ってばかりだ。ボクには昔からそんなものはなかった。小学生の頃はありきたりだった野球選手と言っていたが、野球チームには入っていなかった。年次が上がってくるとさすがにそれは無理が出てきたので、スポーツ関係の仕事とかを自分の夢としていた。そうなりたくないわけではない。ただ、そう言ってそこに向かって貪欲に努力するほどなりたいわけでもない。テレビの中のヒーローはみんなそれに向かって必死にやってきた結果ようやくそれに手が届くかどうかなのだ。それには必ずなってやるという強い意志がいるが、ボクにそんなものを感じさせる職業も環境もない。言葉にならない何かは常にボクの後ろで影を潜めて、ことあるごとに姿を見せろとせがまれるのだ。大学に入るとそれは顕著で夢や目標をはっきりと言える奴ほど、早く就活を終えていき、もやもやしている奴ほどなかなか決まらない。それでも見つからないものは見つからないのだ。そして、そんなものがなくても幸福はつかめるはずだと信じたかった。
「なあ大喜ってさあ、夢とか目標とかあったわけ?」
「急になんだよ気持ち悪いこと聞くなよ」
思い切って聞いてみたが思った通りの反応に拍子抜けする。だがこういうやつに限って抜け駆けしてしっかりしたビジョンを持っている。知らないのはボクがそれを避けてきたからだ。
「今はなくても昔はなんかあっただろ」
「なんかあったのかよ。話なら聞くぜ」
「そうじゃなくてさ、ただ聞きたいんだよ」
ボクはいつになく真面目に大喜に食い下がった。大喜の丸くなった目はだんだんと鋭い輪郭を取り戻し、恥ずかしそうに目尻を下げた。
「そんなかっこいいものなんてほんとにないよ。ただ、今日を明日を楽しく過ごせたらそれでいいじゃん。俺なんてさ元々スポーツも勉強もできるほうでもないし、それを克服するために血のにじむような努力もしたくない。でも、何もせずに流されるように生きるのも嫌だ。だから、どうやったら毎日楽しくなるのか必死に考えて自分で決めるんだ。目に見えることでなくてもいいんだよ。名前のあることでなくてもいいんだ」
大喜は照れ笑いをした。恥ずかしそうで少年のような笑いだった。
「たいそれたことできないから、できることをやるんだよ。要するに、人生一度きりなんだからよ、苦しいより楽しいのほうが良いだろ」
「で、お前はどうなんだよ。そこんところは」
大喜はふっと息を吐いて、ボクの言葉を待った。まるで、一つの舞台を終えた後のようだった。ボクは戸惑いながら頭の中をフル回転させた。恥ずかしいことに自分が同じ質問を返されるとは思っても見なかったのだ。
「ボクは・・・。何も考えてないかもしれない。毎日同じような日が過ぎて、目標も持たずに」
考えるより先に口が動いた。普段は言わないことも大喜が話したことでとめどなく流れ出す。一度ほころんだ場所は簡単には補修できない。
「時間がたてば自然と大人になって、かっこいい社会人になって結婚して子供ができて、同僚と愚痴を吐いて、おじさんになって子供も成長して、それなりの稼ぎになかで家も買って車も買って幸せになるんだと思ってたんだ。いまさらになって気づいたんだよな。みんな手を伸ばしてたんだよなって。開けた道を歩くだけじゃなくて、ちゃんと求めていたんだよなって。だからこそ掴めるものがあって、ボクみたいに胸元に落ちてくるのを待っているだけじゃ何も起こらないだって」
霞んだ視界で大喜の腰あたりまで視線を持ち上げる。人前で泣くのなんて何年振りだろうか。何がつらいのかわからない。もしかすると分からないことがつらいのかもしれなかった。
「苗木くん。じゃあ質問するが、今の自分にはそうやって目の前に落ちてきたものばかりが残っているのかい」
ふざけたように振る舞う大喜に少し笑いながら、考えてみる。すべてがすべてそうではない気がする。だが、そう言われればそうだし、そうじゃないと言われればそうじゃない気もする。ボクはその質問に対してはっきりと答えることができなかった。
「答えられないんだろうな。お前には」
大喜の口調は蔑むわけでもなく優しくボクをなでるようだった。
「じゃあ代わりに答えてやろう。答えはノーだ。当り前さ、本当にそうだったとしたら今頃苗木はどこかで通り魔でもして誰でもよかったとか言っているよ」
ボクは目だけで大喜にその意味を促した。
「来たものを受け入れるのだって一つの行動だぜ。確かに自分から積極的でないのかもしれないけど、そういうのを受け入れられずに上手い関係になれないことだってたくさんある。現に俺なんてそうやって何度も当たって砕けてきたんだから。こうして、受け入れられて長く関係を持つってことは実はなかなかないことなんだ。お前がどう思ってそんなことを言うのか知らないけど、そうやって救われる人もいる。行動してない人なんてこの世にいないんだよ」
大喜は優しさでもなんでもなく、本当にそう思っているのだろう。彼はいつになく真剣な表情でそうやって語ってくれた。ボクはいつまでもそうやって何かを勘違いしたがって、救いを求めていたのだろう。望むものに手を伸ばすことを怖がって、すべてが勝手に手元に転がりこむような都合の良いことばかりを考えていた。空想の中の夢物語がいつか自分にもやってくるんじゃないないかと真剣に考えていた。でも今になって分かったことがある。今まで何もしていないのではなく、今こうして目の前にあるものこそが自分の力でつかみ取ったものであり、掴もうとしなければ手元からいくらでもするすると離れていくのだ。ボクにはもっとつかまなければならない未来がたくさんあるはずだった。子供のころに夢見た未来はこんなはずじゃなかったのだ。
「大喜は後悔していないのかい。今の何もかもに」
「後悔なんていくらでもあるさ。あの時声かけとけばなとか、一回のチャンスを間違えたとか、いくらでもな。でも後悔って自分で何かをやったやつにしか来ないから。何もせずにぼーっとしている奴にはやってこないから、それだけ後悔しているってことは次につながるってことなんだ。時間は前にしか進まないんだから、前を向いていかないと楽しくないからな」
「まだ間に合うのかなボクにも」
そう言うと大喜はでかい声で笑った。「当たり前だろ」って言いながらいろんな思いをボクにぶつける。チャンスはまだまだある腐る年でもないし、そもそも腐る年なんてない。年を取ってできなくなることってのは、スポーツすることくらいだよって。確かにそうだった。ボクはどうしてこれもできないあれもできないと思っていたのか分からなくなり、大喜と一緒にでかい声で笑った。これまでにないくらいでかい声で笑った。悩んだすべてが馬鹿らしくて笑った。手を伸ばさない自分が恥ずかしくて笑った。こんなことを親友に聞いた自分を笑った。久しぶりに心から笑いがこみ上げていた。
「えーっ。なんで?」
繭子の開いた口が塞がらない。驚嘆の声も広いファミレスの喧騒の中でかき消されてしまい、誰もこちらのことなど気にもしない。
「自分で切り開いていかなくちゃなって思ってさ」
「ああ、大丈夫。あてはちゃんとあるから」
繭子の開いたままの口にボクは慌てて言葉を継ぎたした。
「何かあったの?一言くらい言ってほしかったのに」
「何かってわけじゃないけど・・・。良い転機だと思って。それに・・・」
「それに?」
「それにさ、このまま流されてたら本当に流されるままにどこかにたどり着いてしまうんじゃないかって思うと、せめて辺鄙なところであっても自分で決めたところに行こうとしたいなって思ったんだよね」
「男の人のそういうのって私よくわからないわ。ロマンって言うのか夢見がちって言うのか」
「どっちも正解だね」
ボクが余裕の笑いを見せると繭子は不可解なものを見るようにボクを見た。それすらも今や快感だ。ボクはずっと何かに囚われていたのだ。自分でも全く気が付かないくらいの何かに。それが今一つはっきりと落ちていった。
「正確に言うとロマンでも夢でもないんだ。ただ、何にも囚われないということだよ。お金にも世間にも両親にも友人にも。何かに囚われようとするのをやめてしまおうとしたら、こういう結果になったんだ」
上司に退職の話をしたとき、いつも仏頂面で書面とにらめっこしては、申し訳なさそうに誰かに電話しているあの顔が「待ってました」と言わんばかりに開いた。ボクはそれについて悔しくも悲しくもなく、ただ面倒な引き留めをくらわなかったことにだけは安堵したのだ。そして、万が一にもそんな可能性を考えていた自分が恥ずかしくなった。自己評価が低いだけで実は自分も気が付かない市場価値があるんじゃないのだろうかと勝手に妄想を繰り広げた挙句、今の自分の仕事は誰がやるんだろうといらぬ心配までして、もっと言えば部下が一人辞めると上司のマネジメントが責められるのではないかと訳の分からない責任感を感じて、なかなか切り出せずにいた自分がばかばかしかった。思ったことを実行したときある反応は二つしかない。受け入れられるか、受け入れられないか。そして、目の前の繭子の反応は受け入れられないだ。
「えっ、えっ。怖いんだけど。何かの宗教かなんかなの。そういう怖いやつじゃないよね。そうだよね」
「宗教じゃないよ。ただ自分に正直にいるっていうか。なんというか、周りの目を気にせずにやりたいこと、思ったことをそのまま実践したほうが楽しんじゃないかと思ったんだ」
「苗木君ってそういう人だったっけ」
繭子はまだ目を丸くする。ボクにはその意味がよく分かる。繭子が知らなかっただけだ。そういうボクを。いや、ボクが繭子に教えなかっただけか。そう思うとこれまでの自分の行動すべてが後悔の対象になるような気さえした。
「繭子には謝らないといけないのかもしれないね。ボクは知ってたんだ。そういう自分を。それなのに君には教えなかった。いやもっと言えば教える気にもならなかった。繭子に限らずどの人にも」
繭子は困惑し、眉間にしわが溜まっていく。
「でも、豹変するという点ではそういう人ではない。こんな豹変は人生で初めてなんだ。初めて豹変をしてみようと思ったんだ。今までは流され続ける人生だったから、たとえそれが誰も乗っていけないような小さな流れであっても、自分で流れを作り出してみたいとそう思ったんだ」
人生は一度きりだから。そう言おうとして口をつぐんだ。まるで宣教師のようだ。ボクは今まさに繭子に理解してもらおうとしている。今の自分の素晴らしさを、人生の温かさを、これからの未来のことを。そのためにいかにも魅力的な言葉を並べ立てるのは、ボクが今まで出会ってきた「夢の押しつけ」と同じことだった。あぁみんなこういう気持ちだったんだ。下戸に酒を勧めるように、趣味を勧めるように、ドラッグを勧めるように、夢を勧めるんだな。
「ちょっと、今日は帰るね。一旦。私、気持ちの整理がつかない。苗木君のことは好きだけど、これからも好きでい続けられるかどうかわからなくなってきた」
30歳目前の繭子のとってこの別れが何を意味するのか。ボクには何となくわかる。無論、ボクは別れるつもりなど微塵もない。が、好きになるのか嫌いになるのかは繭子が決めることで、ボクが決めることではない。これで気持ちが離れるようならば、別れようと今日この場に来る前に決めていた。ボクはそうして自分で決めて生きるのだ。みんなが結婚するから結婚するわけではない。結婚したいと思うから結婚するのだ。
新しい職場はボクを何も変えなかった。今までと同じように期待に応えられず、段々と同じところに吸い込まれるようだった。面接で何社か見たうえでしっかりと見極めたうえでの入社だったはずなのに、自分には見る目というものがないのだろう。この調子だとあと数か月も経てばデジャヴのように同じ未来が出来上がる。そして、時間とともに自分の市場価値は間違いなく落ちていくのだ。ここの上司は偉そうにふんぞり返ってたかと思うと、次の瞬間には背中を丸めてへこへこしている。ああいうものが市場価値樽ならば、そんなものいらないとはっきりと思う。端に追いやられながら、簡単な仕事を無難にこなし、後輩よりも少ない給料をヒルのように吸い続ける。それでも良い。今度は自分で決めたから、それでも良い。
この職場も飽きたら辞めるつもり。大喜とはボクの家だけではなく、ボクが大喜の家に出向き会うようになった。繭子のことは繭子の判断に委ねた。すべて、自分で決めたのだ。こうしよう、ああしようと。夢も目標も持たない。たとえ、通りすがりの人に講釈を垂れられても、大喜に言われようと、フランシスコザビエルが魅力的なプレゼンをしても。今日を生きるのだ。
「苗木さんって、SEもう10年くらいしてるんですよね」
4つ下の後輩が言う。オフィスは帰り支度をする社員でごちゃごちゃとしている中、ボクらはまだまだ終わらせねばならない仕事を処理している。
「そうだね。もうそのくらいになるね」
ボクは極力これ以上話を広げないように端的に答えた。この手の話題は不毛だ。最終的に何年やっても奥が深いみたいな話になるだけだった。
「じゃあ、作業も僕なんかより早くできますよね」
「どういうこと?」
「今日、ちょっと用事があって、これだけお願いしていいですか」
「ちょっとそれは・・・・」
後輩は半ば無理やりに書類を残していった。帰り際に形式上申し訳なさそうな表情を見せて。謝って済んだら警察はいらない。でも、本当は謝られたら済ませないといけないこともたくさんある。そうしないと本当に警察のお世話になるかもしれない。ボクはあの謝罪で彼を許すと決めた。
夜遅くに電車に乗る。街にはすでに一杯ひっかけた人が溢れている。皆一様に陽気のようであり、不満だらけのようでもある。要するに不満だらけだから、陽気になりたいのだ。そうなりたいなら、そうなれば良い。ボクは今日は陽気にはならない。
最寄りの駅で降りると、都会の賑やかさはなくなる。薄暗い空に街灯の明りがあるだけだ。そうして昨日と同じ今日を終えるのだ。そして、今日と同じ明日を迎える。その中でボクは小さなことをたくさん自分の意思で決めていく。そうして、同じような一年を毎年過ごすのだ。それの何が悪い。そこのどこに悪がある。夢も目標もない。でも楽しむんだ。この地球を日本を人生を。文句があるなら聞いてやる。いくらでも聞いてやる。そして、そいつに向かって今まで出したことのないような大きな声で文句を言ってやろう。