実体験[3]
さらに魂は、人間が感覚的に意識できる肉体という限られた範囲のものだけをつかさどるだけじゃなく、肉体の範疇を大きく超えた日頃は感じる事のできない無意識の領域、膨大な無意識の領域までもカバーするものと。
人間は忘れる事が出来るから辛くても生きていけるなんていいますが、これは忘れよう、これは覚えていようという取捨選択は何がやってるのでしょう、日常の瞬間瞬間に、それもほぼ無意識のうちに…。
意識しようが無意識だろうが心のありようがそうしているんじゃないでしょうか? ──心を持った生命エネルギー、つまり魂が…。
こんな事を考えていると物理的に存在する脳の中で心が形成されるって違うんじゃないだろうか? ──と思えてきませんか。
脳と心、脳と意識は別なものではないかと思えてくる。
だとすると幽体離脱もオカルトじゃなくなる、ちょっとだけ心が、魂が身体から離れている状態と考えられるからですな…。
加えて心とともに「霊的な記憶領域」=「アカシックレコード」があって、そこに入っているデータを脳を通じて現世で記憶として再現していると考えると、最もしっくりくるんです…はい…現世では。
だって、1日24時間どこで使うかもしれない五感のデータを全て覚えているとしたら、1日で何ギガになるんでしょう?
それも生きている年月分積み重なっているのですぞ、こりゃ凄い。
確かに今はフラッシュメモリーなんていうものがあって記憶媒体もかなりコンパクトになってるし、圧縮技術もよくなっているからそういう意味ではさほどスペースも必要ないイメージですが、館主は元々映像作家をやっていたのでパソコン編集をやっていた。
だから映像がすごいデータ量なのは実体験で身に染みているから、えらい膨大なデータ量だと実感できる。加えてその時思い出したのは、暑さ、部屋の匂い、本の触覚、気持ちの変化まで!
どうなってんだ? という事ですわ。
というのもその時は、暑い夏の盛りで、北海道だったので昼間でもベランダを開けると(エアコンなんてなかった)乾いた風が入ってきて涼しいはずなのに、その日は無風でやたらと暑くて、腕に汗が滲んでいた事。
S短大の文字を見て変な大学名だと思った事。
文藝春秋って厚い本だなと思った事。
今まで読んだ事も無かった父の本だったけど、大学特集と書かれていて始めて真面目に中を読んだ事。
裏表紙にあったトヨタチェイサーの茶色いカラーリングの車の新発売の広告を見て、運転してみたいなと思った事。
映像して記憶している以外にそれら全部を思い出したという事は、どこかで記憶いや記録していたという事。
脳というこんな小さいスペースに、人生全ての日常データが収まるのでしょうか?