草野球と青春
土曜日、真夏の日差しがコンクリートを照らし、両方に挟まれた人々の皮膚から水分が抜ける。
僕も同じように汗を垂らし飲んだはずのスポーツ飲料が全身から抜けていくような錯覚に陥り、頭の思考はどこかへ飛んでいく。
勝手に思い浮んだのは上司の顔と怒鳴り声。
「外回りができなくて何ができるんだ、お前は!」
そういえば入社当時から上司は何度も僕に怒っていた。
「相変わらずお前はコミュニケーションが下手だなぁ」
それが最近になっては呆れられてしまい、怒ることもなくなった上司。
クビにされないことが同僚からも奇跡だと言われている始末で、最近は用務員と同じような仕事が多くなった。
仕事だけじゃない、友達がいなければ当然彼女もいない僕は熱中できる物がなく、唯一続けている物といえばゲームだけど中途半端に終わってしまう。
アウトドアに興味はなく、体力もなく、少し走っただけで息切れをする。
そんな僕は炎天下から逃れる為に電気代の節約も兼ねて家電量販店のお店に入った。
涼しいだけの店ならどこでも良かったけれど、テレビに最近気になる新人アイドル「ハル」ちゃんが映っているときがある。
昼間の番組なら結構出ているはずで、出演している番組はできるだけ観るようにしている。
扇風機の風を浴び、冷房の風を浴び、ゆっくりとテレビコーナーがある店内の奥に進む。
行ってみると可愛らしい声はどこにもなく、聴こえてきたのは熱のこもった実況と落ち着いた解説が幾つも重なって反響してさらに歓声が湧き上がる音。
小型から大型の液晶テレビが横一列に並んだコーナーには暇を持て余す老人と中年サラリーマンが数人、大型の液晶テレビに集まっていた。
反射的に僕は顔を伏せて人気がない小型の液晶テレビに体を向けてしまう。
ああ、そういえばこの時期は甲子園だった。
映像には予選を勝ち抜いてきた各県の強豪校が汗を垂らして真剣な眼差しで試合に臨む姿がある。
マウンド上に立つ投手は恐れずに大きく振り翳して球を正確に投げた。
金属バットを構えて狙いを定めたが力強く振るも空を切り、絵になるフルスイングを見せて歯を食いしばる打者。
それと同時に球がミットに向かって突き刺さる快音で僕の瞳孔は大きくなる。
キレのある動きとアウトと叫ぶ審判の声が微かに響き、息を漏らした投手は嬉しそうに顔を綻ばせて全力で走っていく。
大型の液晶テレビに向かって拍手を送る人達。
素晴らしいピッチングで僕も拍手を送りたいのに罪悪感で胸がざわつき体を硬直させる。
あれが、青春なのだろうか。
「お客様」
「はぃ!?」
突然店員に声を掛けられて、現実に引き戻される。
「テレビをお探しですか?」
相手を見れば笑顔が眩しい女性店員。
「い、いえ、な!」
うまく断ることもできないまま僕は急ぎ足で家電量販店から逃げ出てしまった。
ああ、どうしてこうなってしまうのか、どうすれば人とまともな会話ができるのか。
悩みが尽きない僕は熱いアスファルトと眩しい太陽に挟まれて汗だくになり、帰り道の堤防を歩いていた。
俯きながら歩いていると、堤防の下から男達の掛け声が耳へと届いたので何事かと顔を上げ、僕は下を見渡す。
堤防の下には少し狭い野球場があり、芯に当たらなくても強く打てばホームランは余裕で入るだろうという広さ。
どうやら草野球チームが練習試合をしている様子で、僕は先程の映像を思い出しながら止めた足を動かした。
現在マウンドに立っている男性は、白を基調としたユニフォームを着ていて野球帽の柄は黒い。
『楽』という漢字が野球帽に刺繍されている。
グラブを腹部に添えて右に向きそこから片足を上げてその足を前に踏み込んだ。
同時に腕も動き、高く翳してアルファベットのCを描くように振り下ろされた。
軟式とは思えない球速で打者は慌ててバットを振るも空を切っている。
既に捕手のミットに気持ち良い音と共に吸い込まれていて、審判が交代を告げた。
しかし、見た事のある投球フォームだ。
爽やかな笑顔を浮かべている彼に僕は思わず目を丸くしてしまう。
確かめようと堤防の階段を下りて、ベンチに戻ってくる彼の姿に目を凝らす。
すると、向こうも気付いた様子で野球帽を脱ぐと駆け寄ってきた。
「鈴木、だよね?」
先に彼から名前を確認される。
坊主頭だったのに社会に出てから髪が伸びて茶色に染めたのか少し遊んでいる様子、しかし、なにより変わらないのは男前だということ。
間違いない、同じ野球部だったエースの龍田ケンシンくんだ。
「龍田くん」
僕も彼の名字を呟く。
「久しぶりじゃん、調子はどう?」
龍田くんは爽やかな笑顔で接してきてくれた。
それだけのことなのに僕の胸はざわついて気持ちが悪い。
「うん……普通」
目を逸らして答えると、龍田くんはベンチに座って僕に背を向ける。
「鈴木がこんなところに来るなんて珍しいよな」
決して毛嫌いしているようには聞こえない口調だった。
堤防を歩いていたら偶然見かけた、そう言えばいいのに僕は無言で立ち尽す。
「また野球をやりたくなったとか?」
「あ、いや」
「まぁそんなわけないか。俺さ、今スポーツ関係の会社で働いているんだ」
締め付けるような窮屈感が僕の唇をキュッと閉ざした。
「鈴木はなにしてんだ?」
戸惑う僕は何を言えばいいのか分からず、うまく喋ることができない。
そんな僕を龍田くんは振り返って数秒ほど見つめて、
「相変わらず会話が下手じゃん、もうお互い学生じゃないんだしもっと頑張れよ」
優しい口調で注意され、僕は苦笑いを浮かべてしまう。
「鈴木、もう一回野球しない?」
予想もしていなかった言葉が耳に入る。
「え、いや、僕はもう」
戸惑った僕は視線をあちこちに動かして誰とも目を合わせれない。
「じょーだん。仕事、頑張れよ」
交代を告げる審判の声に龍田くんは笑ってグラブを手にはめてマウンドへ走っていく。
残像のように高校時代のユニフォームでマウンドに走る姿が映り、今の龍田くんと重なる。
何もできないあの頃と何一つ変わらない僕がまた同じように龍田くんを見送っていた。
ただ一つ、感じなかった悔しさが今となって雨のように降り注いで体に打ち付けられる。
服は濡れていないはずなのにずっしりと重く、この球場から逃げることさえできない。
もう一度野球をしたい、打ったことないヒットを打ちたい。
叶うならホームランだって打ちたい、守備を任されたい、打席に立ってバットを構えて投手と対決したい。
点を入れて、チームの皆と一緒に喜びたい。
心に渦巻く言葉が吐き出されずにいて、喉から出そうなのに言える相手は遠く、言葉を間違えずに話せるか不安で仕方がなく、僕は呼吸を荒くさせて河川敷の球場から無理にでも去ろうとした。
「鈴木!」
マウンドから僕を呼ぶ龍田くんの声に急いで振り返る。
「相手が一人足りないから打席に立ってほしいってさ!」
「え、僕が?」
スーツ姿のまま相手チームの所へ引っ張られ、木製バットを渡され野球帽が頭にポンと軽く置かれた。
流れ作業のように準備が整い、気付けば打席にいる。
「え、いや、あの、え」
「大丈夫、手加減する!」
龍田くんは笑顔で既に投球フォームに構えていた。
「そ、そういう問題じゃないんだけど、どうやって振るんだっけ?」
僕の独り言など誰の耳にも届かず、諦め半分でバットを構える。
学生時代、一度も試合なんて出させてもらえなかったな、巡る記憶に青春など出てこない。
先ほどの投球とは違って龍田くんは緩く手を斜めから翳して投げてきた。
スローボールと言ってもいい、それでもまっすぐに飛んでくる。
空気が抜けるような音が耳に届き、捕手のミットに軟球が入ったのだと理解したが僕はバットを振らずに龍田くんの姿を視界に映す。
マウンドにいる龍田くんは怪訝な表情を浮かべて、首を傾げている。
そして、もう一球。
少し速いストレートが内角に入り、審判は二つ目のストライクを告げた。
何故振らないのだろう、龍田くんもきっとそう思っている。
口角を下げた龍田くんの眉は皺を寄せて僕を睨み、右に向いて腹にグラブを添えた。
「鈴木!」
僕は目を丸くして龍田くんの声に耳を澄ます。
「どうせこれからも野球はしないんだろ? だったらこの一打席は一生の一度だからな!」
草野球の練習試合で、真剣な眼差しで僕に訴えた。
本当に甲子園を目指していたのはいつの間にか彼だけになっていて、最後の試合は予選で一回戦敗退。
叫びたかったはずの龍田くんは口を貝のように強く閉ざし、バスの一番後ろに俯いて座る姿を見た僕は何も思わなかった。
社会人なってから野球が遠くなるにつれて、ふとテレビで観る度に思い出す当時の態度と感情が胸を締め付けてくる。
本当に今更だった。
この一打席は、一生の一度。
「手加減するの撤回、本気で行くから!」
言葉通りの一球ならばと僕の左足は広がり肩を閉めてバットを構えた。
片足を浮かせた龍田くんは腕を高く振り上げている。
重力を味方に龍田くんの手から軟球が離れようとした時、僕は体を一度閉じて左足を少し浮かし、軟球を目で追う。
自然と腕が振り動き、バットに迫る気迫の剛速球を捉えたと確信した。
「ストライーック! バッターアウト! チェーンジ!!」
バットは虚しく空を切り、審判は冷静に強い口調で結果を下し、振った反動で僕の体は反対に向いている。
振っただけなのに両腕が震えて力が出ない。
「鈴木」
打席から出た僕の横に並んだ龍田くんは笑顔だった。
「龍田くん……ごめん」
残る罪悪感に僕は呟き、俯いてしまう。
「なんで謝ってるんだ? それよりあんな真剣にバットを振ってる鈴木を初めて見た。なんでだろう、凄い嬉しいのと悔しいのが入り混じってるんだ」
龍田くんの手が俯く僕の背中を叩く。
「ま、お互い仕事頑張ろうな」
僕より先を走ってチームメイトがいるベンチへと戻っていく龍田くん。
そこに高校球児だった龍田くんは映っていない、野球を趣味として楽しむ社会人がいる。
罪悪感と後悔は消えないけれど、その隙間に悔しさが入り込む。
じわじわと頭や胸に広がり先程の打席を思い出させる。
あと少しで龍田くんの全力速球を打てたはず、どうしても龍田くんの全力速球が打ちたい。
できるなら試合で、それが頭によぎった僕は木製バットと野球帽を持って相手チームのベンチへ。
ベンチで座っていた監督は優しそうな顔をした中年の男だった。
「おぉ君、突然打席を任せてごめんねぇ、一人が急に腹痛で動けなくなってさ、もう治ったみたいだからありがとね」
「あ、いえあのその、これ」
野球帽と木製バットを差し出すと、監督は笑顔で受け取ってくれて、僕は安心する。
「しかし龍田君だったかあんなに実力があるのに勿体無いと思わないかぁ? 会社に社会人野球のチームがあるのにそれを蹴って草野球をしているんだよぉ。ほんとうにもったいないなぁ」
「え、えあ、はい、そう……ですね」
社会人野球のほうがプロに入れる可能性はあるのに何故龍田くんは草野球をしているのだろう。
プロになるのが目的ではないのだろうか。
向こうのベンチで仲間と笑っている龍田くんは楽しそうだ。
「あの……僕、その」
監督は僕の呟きに目を丸くしている。
最後まで言えないけれど、なんとか伝えたい、僕は言葉を探す。
それでも監督は優しい笑顔で、
「君、名前は? 住所、野球経験の有無、土日の練習試合に必ず参加できるか、それに答えてくれぇ」
突然の質問だった。
僕は焦りつつ、ひとつひとつを言葉を躓かせながら……答えていく。
完