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操作、始め!

 翌朝、良行は冴子との約束を守るため、早めに起きた。CB400の手入れをしたり、タンデムするためには、もう一つ持っていたヘルメットを手入れする必要もある。その他には、念のために予備のグローブを用意し、道路地図のコピーも取っておく必要がある。

 澄み切った青空が広がっていた。少し風が強いので、その分ツーリング中は寒くなるだろう。

 良行は、ガソリンの給油を兼ねて地図のコピーをするために出かけようと、ガレージからCB400を出していた。ワックス掛けしたタンクが艶やかに輝いている。その輝きに見とれていると、慌ただしく円佳が玄関から出てきた。

「お兄ちゃん、珍しいね。いつものバイクに乗らないの?」

「おまえ、仕事か?」

「そうなんよ。仕事の打ち合わせ」

 円佳は一ノ城の保育所に勤めている。

「乗せてってやろうか?」

 円佳は不思議そうな顔をしている。

「でも、お兄ちゃん、二人乗りはしない主義なんでしょ」

「ちょっと事情があってな」

 良行は、ガレージの奥で埃を被ったままのひも付きビニール袋に入れたフルフェイスを取り出してきた。

「これ、被れ」

 良行はそのヘルメットを円佳に渡した。円佳は、疑わしそうな目つきでヘルメットを見ている。

「中、きれい?」

「カバーかけて保管しとるんじゃけ、汚れちゃないよ」

 円佳は、ヘルメットの中をのぞき込んでいる。

「大丈夫よ。なんならワシのをおまえに貸そうか?」

「いやよ。お兄ちゃんの匂いの染みこんだヘルメットなんて」

 ヘルメットを持ったままの円佳は、良行がCB400をガレージから出すまで待っていた。その間も、円佳は怪訝そうな顔つきをしている。

 セルを回すとエンジンは軽快にスタートした。吹き上がりも上々で、ポン操の訓練が始まってから一度もエンジンをかけていないにしては上出来だった。

「乗れよ」

 円佳は、恐る恐る手渡されたヘルメットを被り、生まれて初めて兄のバイクに乗せてもらう戸惑いを隠せないようだった。

「大丈夫?」

「大丈夫に決まっとるじゃろう。それより、急ぐんじゃろ」

 良行は、後ろのステップを出してやると、円佳を促した。円佳は、ぎこちない仕草でバイクに跨ると、最初はバイクのフレームに手をかけていた。

「それじゃ振り落とされるよ。ワシの服をしっかり掴め」

 良行はバイクを慎重にスタートさせた。円佳が軽いせいか違和感はない。一ノ城までは、アップダウンのある4キロほどの道程で、タンデムのテストにはちょうどいい距離だった。リアが流れることもなく、もともと大人しいCB400は快調に円佳を職場へ到着させた。

「どうじゃった?」

 良行は円佳の感想に期待した。

「ちょっと寒かったけど、悪くなかったよ。それにしても、珍しいこともあるもんじゃね」

 円佳は、まだ怪訝そうな顔をしている。

 その円佳からヘルメットを受け取ると、久し振りのタンデムに自信がついた。円佳に見送られて一ノ城を後にすると、コンビニへ向かい、地図のコピーを取り、給油してから家に帰り着いた。

 倉敷までは約70キロ。一人でなら2時間以内に到着する。ルートは国道2号線を使い、途中休憩の必要はなさそうだった。ただし、いくら完全防寒していても身体が冷え切ってくるだろうから、もしかしたら冴子のために途中休憩を取った方がいいかもしれない。

 大きめのポシェットに地図や筆記具、財布を詰め込むと準備は完了した。大きめのポシェットを用意したのは、もし天気が急変して雨模様になったとき、どこかのコンビニかホームセンターで合羽を買って収納しておく必要があるからだ。

 冴子の家に向かう前に、良行はもう一度服装チェックをした。

 着ぶくれとるなー。

 皮のつなぎだけでは不安だったので、良行はその上からダウンジャケットを着込み、しかもオーバーパンツまで穿いている。しかし、これぐらいでちょうどいいと良行は思った。

 冴子の家に到着すると、冴子はすでにスキーウェアーを着込んで待っていた。

「すごい格好ね」

「これぐらい着込んでないと寒かろう。それより、サエの足元、寒くないか?」

 冴子は普通のスニーカーを履いている。

「これじゃダメ?」

「せめて、あるんならスノトレぐらい履いてくれよ」

「じゃ、ブーツに履き替えてくる」

 そう言い残すと、冴子は家の中へ消えていった。

 良行は、待っている間、バイクのシートに跨って古い作りの冴子の家を眺めていた。

その時、誰かに家の中から見られているような気がした。冴子のアトリエになっている部屋からだった。ヘルメットのシールドを上げて目を凝らすと、そこには冴子の母親らしき人影があった。その人影は、良行に深々とお辞儀をしてくる。しばらくすると、華やいだ服を着た冴子の母親が廊下の仕切を開けて濡れ縁から姿を現した。

「いつも娘がお世話になっております。三島さんですね」

 良行は、初めて目にする冴子の母親に、どう答えていいのか戸惑っていた。ぺこりとお辞儀だけすると、ヘルメットを被ったままだったことに気が付いた。

 慌ててヘルメットを脱ぐと、良行は緊張している自分を感じていた。

「また冴子が無理なお願いでもしたんでしょう。あの子はわがままに育ててますから、私の云う事なんて聞かないんですよ」

「いえ、そんなことはないです」

「冴子から聞いてますが、倉敷まで行くそうですね」

「ええ、そうです」

「昨日からスキーウェアーを探すというので、あの子ったら部屋中を探し回って、今私が片付けに追われているところなんですよ」

 上品に笑う冴子の母親に、良行は何を話していいのか分からなかった。冴子の部屋がいつもきれいに片付いているのは、この母親のお陰だと言うことだけが朧気に分かる。

「母さん、黒のブーツ、どこへやったか知らない?」

 家の奥から冴子が母親を呼んでいる。冴子の母親は会釈すると、再び家の奥へ消えていった。

 冴子が玄関から出てきたときには、冴子の母親も一緒に玄関へ姿を現し、良行に声をかけてきた。

「三島さん、気を付けて行ってくださいね。冴子はわがままですから、無理は聞かなくてもいいんですよ」

「母さんは余計なこと言わなくていいの。大丈夫だから任せといて」

「任せといてって、あなたが運転するんじゃないでしょう」

「だから、私は大丈夫ってことよ。もう気を利かさなくてもいいから」

 冴子は母親を玄関口へ追い返すと、良行が会釈する間もなく玄関のドアを閉め切った。

「ええんか?」

「いいのいいの。それより私のヘルメットは?」

 良行は自分のヘルメットをバイクのミラーにかけると、後部座席の下に取り付けていたヘルメットを外して冴子に渡した。

「何か、いい匂いがする」

 円佳のシャンプーの匂いだったに違いない。

「今朝、円佳が職場へ行く言うんで、これに乗せてやったからよ」

「もしかしたら、円ちゃんでテストした?」

「そういう言い方もある」

 冴子は可笑しそうに笑って、手にしたヘルメットを大事そうに被った。そして、良行がバイクのエンジンをかけると、冴子は戸惑うことなく、すぐに後ろへ乗り込んできた。

 冴子は円佳と違い、良行の背中に身体を密着させ、その腕を良行の身体に回して手を組んできた。

「そんなに力を入れるなよ」

良行は、照れながら注意しなければならなかった。それほど、冴子はピッタリとくっついてくる。

「言っとくけど、能島大橋の入口へ来たら、ちょっと降りてもらうよ。たぶん大丈夫じゃと思うけど、あそこで時々、職員が見張っとる時があるんじゃ。もし見張っとったら、上のバス停から向いの島まで渡ってもらわにゃならん」

 冴子は、密着した身体の首だけを動かして頷いている。二人ともこれから始まるタンデムでの遠乗りに緊張しているようだった。

 バイクを発進させた。澄み切った光りがヘルメットのシールドの中へ溢れてくると、埴生の町から倉敷までの小旅行に期待感が高まってくる。密着させた身体が一つになって、風に同化していくようだった。

「ねえ、どうして能島大橋で一度降りるの?」

 片手でシールドを上げ、大声を出して冴子が問いかけてくる。

「高速は二人乗り禁止なんよ。それで自転車道を通るんじゃけど、ここもバイクの二人乗りはできんことになっとるんじゃ。しかもこのバイク、400じゃろう。見つかったら最後、罰金取られて追い返される。たぶん、見張りはいないと思うけど、念のために偵察してこようと思って」

 強い風が、会話するために押しあげたシールドの縁を切り裂くように鋭い風音を鳴らしていた。良行には、冴子が自分の声を聞き取れたのか自信はなかったが、冴子は、もう一度聞き返しては来なかった。

 海岸線をCB400は順調に走る。大潮になれば海岸から100メートル離れていても歩いて渡れる八重子島の向こうには、銀砂をばらまいたような空を背景にして能島大橋の全景が見えてくる。この巨大な吊り橋は、航空機に橋の存在を知らせるためのストロボを白亜の高い鉄塔の2カ所で瞬かせ、鉄塔から弓なりに伸びるケーブルに吊り下げられた無数のハンガーロープによって、4車線道路とその下部に歩道と一緒になった小型二輪兼自転車道を吊り下げている。この構造物は、穏やかな景色の中で科学の粋を尽くして建造されたことを目一杯に主張しているようだ。

本道と小型二輪兼自転車道は別の入口になっているので、二人のコースは本道から離れた別の道を進んでいる。窪田の町を通り過ぎると、小型二輪兼自転車道の入口に着いた。ちなみに窪田の町には小さいながら3部50人からなる窪田分団があり、窪田の分団長と埴生分団の大崎分団長は親しく付きあっている。そのお陰で、昨夜の巡回では焼き肉を御馳走になれたのだった。

 バイクをそのまま小型二輪兼自転車道に進ませると、料金所の手前で冴子を降ろした。

「ここで待っといてくれ。向こう側へ行って様子を見てくる」

 見つかったらやばい。

 トライアル車なら、125だと言っても怪しまれないが、400㏄のCB400だと言い逃れようがない。

 能島大橋の外れまでバイクを走らせると、良行は見張りのいないことを確認した。小型二輪兼自転車道は本道の下部にあり、幅4メートルほどの車道はフェンスで仕切られている。そのフェンスの向こうには、灰色に塗られた鋼材が走り、その遙か下には布刈瀬戸の海面が見える。向島から能島へ折り返すときには、向島寄りに浮かぶ笹島という小島が見えた。目を留めると、潮の流れは速く、まるでその島が舟のように波を蹴立てて航行しているように見える。

 冴子の待っている場所まで帰ってくると、冴子は腕組みをして不安そうな顔をしていた。

「どうだった?」

 冴子は、バイクを停めた良行に試験の結果を気にする受験生のような目をして問いかけてくる。

「大丈夫。早く突っ切って行こう」

 能島大橋を渡りきるまで、冴子は出発前に良行から注意された時と同じように、体中に力を入れて良行にしがみついてくる。自転車道の出口を出るまで、冴子は緊張していたようだった。

「ここが最大の難所じゃったからなー」

 独り言のように良行は呟く。

「えーっ、何て言ったの?」

 聞き返してくる冴子に、良行は首を横に向けて大声で答えた。

「ここが最大の難所じゃったって、言っただけ!」

 国道2号線へ出てからは、風も少し収まってきた。冴子も途中休憩する必要がないのか、良行に話しかけてこない。県境の表示が見え、笠岡の山間部を通り、鴨方、金光町と通り過ぎていくと、倉敷までの道のりは案外近かったと思えるようになった。

 冴子は安心したように良行の身体にもたれかかり、背中の温もりが冴子の存在を良行に大きく感じさせてくる。時々、トラックの横をすり抜けていくと、トラックの運転手が羨ましそうに手を振ってくる。

 倉敷の美観地区へは、思ったよりも早く2時間ほどで到着してしまった。良行は白壁通りの先にある倉敷川に架かる前神橋から美観地区へ入り、その近くにバイクを停めた。年末なのに大勢の観光客が倉敷川の畔で散策している。二つのヘルメットをバイクに固定すると、二人は美観地区の中へ入っていった。

「どうだった?」

「ツーリングのこと?もっと疲れるのかなと思ったら、そうでもなかったし、バイクから見る景色が新鮮だったから楽しかったよ」

 冴子は並んで歩きながら満足そうに笑顔を見せる。

「やっぱり大原美術館が先か?」

 冴子はニコッと笑いながら、

「どこか他に行くところでもあるの?」と聞き返してくる。

「心配しないで、どうせ大原美術館なら、一度入場券を買ってしまえば何度でも出入り自由だから」

 冴子は良行を安心させたかったのか、大原美術館の説明をし始める。

「ここの美術館って昭和2年にできたの。民間で、しかもその当時を思えば東京から遠く離れた田舎町でしょう。大原孫三郎って人が画家の児島虎次郎という人に依頼して、その人に3回もヨーロッパへ渡らせて名画を収集させてできたのがここの美術館なんよ」

 良行は冴子の説明を聞きながら、冴子がこの美術館へ入り浸っていたことを理解していく。

「入場券を買ったら、倉敷の町をご案内しましょうか?」

 まるで初めての観光客を相手にするような口ぶりで、冴子は良行に問いかけてきた。

 やっぱり、こいつ、ただ者じゃない。

「サエに任せるよ」

「じゃあ、私に付いてきて」

 冴子は良行の腕を取ると、横にピッタリとくっついて澱んで冷たい水面に波紋を広げる倉敷川の畔を歩き出した。

「この辺りは、昔、米蔵が立ち並んでいて、大阪まで兵糧を積み出す基地になってたの。城の内という地名があって、ここは天領だったのよ。アイビースクエアーにはその天領だった名残があるわ」

 観光案内所を回ると、100メールほど向こうに、この前に見た大原美術館の本館が見えてきた。冴子は、まだ説明を続ける。

「倉敷の人はね。今でも大原美術館があったから太平洋戦争の時に空襲に遭わなかったって言ってるの。連合国側のアメリカ軍は、攻め込む前に、倉敷には大切な美術品があると知っていたわけ。戦前に調査団を派遣してたらしいわ。アメリカ軍も芸術には勝てないと知ってたんでしょうね」

 大原美術館の前に架かる前橋の上では、観光客が記念写真を撮っている。敷地を区切る古びた石垣がこの美術館の歴史を物語っているようだった。

 良行は入口から入ると不思議な感じがした。最初に訪れたときには、物珍しさも手伝って、そんな感じはしなかった。冴子から敷地内に自由に出入りすることができるとは聞いていたが、ここが日本美術の殿堂で、しかも世界的な美術品を収蔵した場所だという威圧感を感じさせられなかったからだ。

 正午まではまだ時間があるので、冴子は自分の見たい絵、ゴーギャンの「かぐわしき大地」だけを見ていきたいと良行にせがんだ。

 良行には、どうして冴子が「かぐわしき大地」にだけこだわるのか分からなかった。

「美しいものには必ず場所があるって言ったの、ゴーギャンなの」

 冴子は、本館入り口で入場券にスタンプを押す紳士に入場券を渡しながら、恥ずかしそうに小声で打ち明けた。本館の中へ入ると、冴子はすぐに2階の展示室へ向かう。二人は展示室のソファーに腰掛け、児島虎次郎が集めたという名画を眺めた。

 良行は、ウージェーヌ・カリエールの「想い」。冴子は「かぐわしき大地」だけを見つめている。

「ヨッちゃん、この中でどの絵が好き?」

 声を潜めて冴子が問いかけてくる。

「あそこにある『想い』とか言う絵かなー」

「霧のカリエールね。いい絵ね、私も好きよ」

「霧のカリエール?どういう意味?」

「単色で朧げな筆致が特徴なんで、霧のカリエールって呼ばれているのよ」

「あの絵を見ていると、なんだか遠い記憶が透けて見えてくるような気がして」

「ヨッちゃんて、詩人なんじゃね。あの人、ロダンと一緒にビィクトル・ユゴーの足跡を辿るためにガンジー島へ行ったことなんかもあるし、ヴェルレーヌやドーデなんかの肖像画も描いてるわ。世紀末の批評家から絶賛された人よ」

「詳しいね」

「私、凝り性なの。しつこいって言うのか、粘着質なの。いつまでもいつまでも、どこかに引っかかりがあると、それが分かるまで諦められないの」

「それで、ゴーギャンの言葉の意味を?」

 冴子は小さく頷いただけで、再び「かぐわしき大地」を見つめ続けている。

 ようやく冴子がソファーから立ち上がったのは、大方正午に近付いた頃だった。

「ヨッちゃん、せっかくだから西洋絵画の勉強をさせてあげる」

「絵画の勉強?」

「いい場所があるの」

 大原美術館を出ると、良行は急に空腹を覚えた。しかし、冴子はぐんぐん良行を引っ張っていく。

 こいつ、どこへ連れて行く気かな。

 倉敷川の畔ではアベックが腕を組んで幾組も通り過ぎていく。

 ワシみたいに女の子に引きずられとる奴はおらんな。

 川沿いの料理屋の窓に映った幸せそうな家族が食事している様子を見ていると、良行は羨ましさを通り越して嫉妬さえ覚えてくる。

子どもの口に料理を運んでいた母親と目があった。優しそうな眼差しが良行の心の中に染みこんでくる。

「どこ行くん?どっかで食事でも取らんか?」

「お腹減ったの?」

「そりゃあ、昼前から緊張の連続じゃったし」

 冴子は可笑しそうに笑う。

「また、エダヤのおばちゃんの顔でも思い出したの?」

「そういう事にしとく」

「じゃあ、アイビー・スクエアーに入ってから食事しましょ。どうせ、そこへ行くつもりだったから」

 やっと行き先が分かった。しかし、良行にはその場所がどんなところか知らなかった。

 倉敷川を後に狭い小路を曲がっていくと、土産物屋が建ち並んでいる場所に出た。試食販売している店からは香ばしい匂いが漂ってくる。

「もうちょっとだから、辛抱してね」

 冴子が土産物の試食品を眺めている良行に釘を刺す。

 アイビー・スクエアーは、その小路を抜けるとすぐ目の前にあった。鉄製の黒く塗装された大きなアーチ型の門をくぐると、少し距離を置いて正面にツタの絡まった赤煉瓦の建物が見えてくる。

「ここは倉敷紡績のあったところで、この建物は純英国風の赤煉瓦で建てられてるの。IVYというのは、つたの総称よ」

「建物の壁一面、つたが絡んどるが」

「西日を防ぐために植えたらしいよ」

 冴子は簡単な説明をすると、アイビー・スクエアーの奥へどんどん進んでいく。中庭が見え、通路を突き当たると建物内部に入るドアがある。冴子はその建物内のレストランへと良行を導いた。

「ここでランチを食べようと思って。私もお腹ぺこぺこ」

 高い天井には明かり取りがあり、その天井を支える柱には花の模様を象った真四角の装飾がいくつも施され、この建物の重層で文化的な香りを醸し出している。

 ウェイターに二つランチを注文すると、良行は冴子を真正面から初めて見たような気がした。冴子もニコニコしながら良行の顔をのぞき込んでくる。

「こうして、絵を描いている時以外のヨッちゃんを見るのは初めてね」

「オレも、今そう思った」

「ヨッちゃんて、口べたなの?」

「そんなにべらべら話すことはないな。大阪で営業してた頃、いらんことまで喋ってたから」

「へー、そうなんだ。私も関西にいたの。でも大学時代だけよ」

 二人はお互いのことを教え合った。良行は前の会社が倒産して能島へ帰ってきたこと、冴子は教職免許を取ったものの教師になる気がなくて実家に居座っていること。

 ランチを食べながら二人はお互いの距離を縮めていった。

「で、消防団へ入ろうと思ったのはなぜ?」

 良行が埴生へ帰ってからの生活について話していると、冴子は唐突に質問してきた。良行は消防団へ入った理由をかいつまんで説明してみせた。

「親父がOBだったからかな。仕事の関係で分団長にはならんかったけど、それでも火事になると目の色変えて出かけとったなー。消防命って感じじゃった。オレは生え抜きの消防団員じゃないけど、親父は青年団から関わっとる。何となくプレッシャー感じて、いつの間にか入らされとった」

「火事になったらヨッちゃんも、額に、消防命って書いて出動するんだ」

「まさか額には書かんけど、自覚はしとるよ」

「チーちゃんがこの間の火事の時、バイクでウイリーして飛び出して行ったのを見たって」

「あれは、たまたま千里が、火事じゃのに合コンのプレッシャーかけてくるから、思わずフロントが浮いただけよ」

 千里のやつ、また変な情報を流しやがって。

 良行は苦笑いを浮かべて言い訳をした。

 いっつも荒っぽい運転しとるわけじゃないで。

 そう言いかけると、冴子は可笑しがっている。

「チーちゃんから、ヨッちゃんは分かりやすいって聞いてたけど、ほんとじゃねー。いつもそんな荒っぽい運転してないって、顔に書いてある」

 こいつ、人の心を読めるんか。

 良行は言いかけた言葉を呑み込んだ。

 レストランを出ると、良行は敷地内にある学習館へと連れて行かれ、冴子から西洋絵画の勉強をさせられた。古代エジプトから現代絵画、彫刻、ポップアートにいたるまで、冴子は豊富な知識を驚くほど分かりやすく良行に講義していく。

 しかし、絵画に縁のない良行は、その説明を聞いているだけで疲れてくる。冴子はそれでも熱っぽく講義を続けた。

 サエの生徒になったら機関銃みたいな講釈の餌食じゃが。

 やっと学習館の出口に辿り着くと、良行はすっかり冴子の教え子になってしまったような気がしていた。

 千里のやつ、デートで美術館へ行くって言ったらどう思うって言うとったけど、こういうことか。

 良行は、千里からだけでなく、冴子からもしてやられたと感じた。

「サエ、ちょっと休憩させてくれよ」

 アイビー・スクエアーを出た良行は、とうとう音を上げてしまった。

「疲れたの?それもそうよね」

 冴子は倉敷川の畔に出ると、再び大原美術館へ向かった。

 またあそこか…。

 良行は、思わず不快な顔をする。口数の少なくなった冴子は、大原美術館へ着くと、再び本館の二階へ向かった。

「休憩させてあげる」

 二階展示室へ着くと、午前中居座り続けたソファーへ二人は腰を下ろした。

 こいつ、よっぽど執念深いな。

 呆れたように良行は冴子の横顔と、「かぐわしき大地」を見比べていた。

 アイビー・スクエアーの学習館で、サエはゴーギャンがタヒチへ渡ったという話をしとったなー。

 タヒチ、か。

 原始のイブ。

 空想の花。

 耳切り事件。

 ゴッホとの友情、か。

 断片的に冴子の講義が思い出される。

 冴子は物思いに耽っている。

 いつの間にか、良行は、午後3時を回っていることに気付いた。

「サエ、そろそろ帰らんと日が暮れるで」

 冴子は良行を無視している。

「分かったよ。ここにいるよ」

 冴子は良行の心を見透かすように、

「変なやつって思ってるでしょう」と言った。

「休憩時間は終わりね。帰りましょうか」

 そう言われてみると、サエは休憩させてあげるって言ったよな。

「長い休憩時間じゃった」

「私にとっては、一瞬よ」

良行には、冴子の言った意味が分からない。

 大原美術館を出た。前神橋の前には、観光バスに乗るためなのか団体客が列を作って歩いている。冴子にヘルメットを渡す良行は、冴子が不機嫌になっているとはっきり悟った。

 冴子はヘルメットを受け取らない。

 沈黙が続く。

「先に帰っていいよ」

 冴子はヘルメットを良行に突き返すと大原美術館の方へ歩いていく。傾いた日差しが冴子の後ろ姿を倉敷川を背景にして赤く染めていくようだった。

 どうせぃ、言うんね。

 一旦被ったヘルメットを冴子のヘルメットと一緒にバイクへもう一度固定すると、良行は冴子を追おうと思った。しかし、冴子の姿は倉敷川の風景から消えている。

 駆けだして辺りを見回してみたが、冴子を見失ってしまった。

 不安がよぎる。

 必死で歩き回った。

 美観地区を時には走り、後ろ姿の似ている女の子を捜し続けた。

 逃げるものは、見つかりたくない。

 そう思った良行は、それらしい人を見かけると気付かれないように先回りして町角に隠れながら近付いた。人違いだったときの落胆は、良行の心をさらに締め付け不安を深めさせていく。しかし、日の暮れた6時を回っても冴子の姿は見つけられなかった。

 探し疲れた良行は、もう一度アイビー・スクエアーの広場に戻っていた。

 広場を眺められるベンチに座って、冴子の言葉を噛みしめる。

「私にとっては、一瞬よ」

 上空には、青白い雲をすり抜けるようにして冴え冴えとした半月が浮かんでいる。その神秘的な光は、後悔の念に締め付けられている良行の心を見抜いているようだった。

 どうしてワシは、こんな鈍感なんじゃろう……。

 頭を抱えて蹲り、そしてもう一度静かに頭を上げると、良行は、幻想なのか、と疑った。

 レストランの手前の廊下に、冴子の姿が窓越しに写っていたからだ。暗闇の中で見失った光を取り戻せた喜びが、弾ける。

 力の限りに走った。

 冴子は、通路の椅子に腰掛けて、疲れたように良行を見つめている。

 時が止まっていた。

 力の限り良行は冴子を抱きしめた。涙が後から後からこぼれ落ちてくる。

「もう会えんのかと思った……」

 見失っていた光は、心の奥底をも照らし出すほどの近くにある。

冴子は良行の胸の中で目をつぶっていた。

私のことなんか、誰も理解してくれない、と思っていた。大原美術館の展示ロビーでヨッちゃんが見せた表情は、私の価値観そのものを否定しているようだった。

だから、退屈そうなその横顔が私には許せなかった。

でも、バイクを離れて一人きりになったとき、私は自分の価値観を彼に押しつけていたことに気づいて、すぐに後悔した。

初めて出会ったときから純情な人だなと感じていた私は、すでに心のどこかで彼に惹かれていたのかもしれない。暮れなずむ倉敷の町を彷徨っていた私は、本当の私を彼に探して欲しいと望んでいたのだと思う。

その彼が、私を抱きしめてくれている。

 冴子の頬を涙が伝わっていく。 

 その日、二人は良行が年末夜景に間に合わなくなったためもあり、幸い空き室のあったアイビー・スクエアーで宿泊することになった。予約のない二人は、昼食を取ったレストランでディナーを注文した。

「どうしたんヨッちゃん?」

 急に笑い出した良行を冴子は不思議に思った。

「ワシ、アンパンマンに怒られるかもしれん」

「それって何のこと?」

「消防団の仲野県指導員って、顔がアニメのアンパンマンに似とるんよ」

 冴子は怪訝そうな顔をしながらも笑っている。

「夜警、サボったろ。もし、あいつに知られたら」

「ただじゃすまないってこと?」

「そう。いっつも、あの人、節度、節度って言うからなー。年末夜警をサボるじゃことのけしからんとか、言われかねんし」

「サボったの初めて?」

「まあ、そういうこと」

「節度って、なに?」

「そりゃあ、消防団の約束事よ。学校の体育の時間に気を付けさせられた事あったじゃろう。その時、ズボンの縫い目に沿って、指を伸ばすように教えられんかった?」

「えー?そんなん聞いたことないよ」

「そうか。女子にはズボンの縫い目がないもんな」

「そんなことないよ。学生時代のジャージにはあった」

 良行は、突然立ち上がって気を付けの姿勢を取った。ダウンジャケットとオーバーパンツは宿泊する部屋で脱いできたから、ツーリング用の皮のつなぎとライディングブーツで気を付けすると、いつもの団服と違って派手な音が鳴る。

「こんな風に、指を揃えて手の平をズボンにくっつけて、つま先を45度くらいに開いて前傾姿勢で突っ立ってろって、教えられたろ?ちなみに、これが正規の気を付けの姿勢じゃ」

注文したワインを持ってきたウェイトレスが怪訝そうな顔をしている。その表情を見ていた冴子は、良行が元の席に戻るまで可笑しそうに笑っていた。

「ヨッちゃんて、ときどき行動が変になるね」

「お互いさま、かな」

 二人の笑顔は、心を溶け合わさせていく。

 ディナーを終えて案内された部屋に着くと、二人は急に無口になった。二人とも、歩き続けた疲労感とディナーの時に呑んだワインのせいで、顔が赤く上気している。さらに良行は、部屋に設えられたベッドを見て緊張していたが、一つだけ気になっていることがあった。冴子の母親に外泊の許可をもらっていないことだった。

 突然、冴子が話しかけてきた。

「ここで泊まることになっちゃったね。ごめん……」

「そんなことないよ。サエを怒らせたし、こっちこそ悪かったよ」

 冴子はソファーに腰を下ろして呟いた。

「ケンカすると、疲れるね」

「確かに、そうとう疲れる。でも、たった一日で一年以上付きあってたみたいにサエのことが分かった。それにしても、お母さんに連絡しなくてええんか?」

 良行は、話している最中、急にそのことが気になった。

「ヨッちゃんて、紳士なんだ」

「まあ、ね」

 冴子は良行の目をじっと見つめてくる。

「私も、ヨッちゃんと同じ気持ち。ずーっと昔から付きあってたような気がした」

 しばらく二人で見つめ合っていると、冴子が唐突に話しかけてきた。

「私の名前、冴子の冴って、牙という字を連想させられて昔は嫌いだったの。でも、お父さんが死ぬ間際にね、こんなことを言うの。女性は賢くなくちゃいけん。冴って字を付けたのは、月の光が澄み切っている様子で、聡明な女性の幸せを象徴するんだって」

 良行は神秘的だった今日の半月の光を思い出した。

「ワシの名前なんか単純よ。良行って、良い方向に行けって意味で、それ以上でもそれ以下の意味でもないし、親父に言わせりゃあ、男の名前は実力で勝ち取れってことらしい」

 良行は、冴子の座ったソファーの正面にあるベッドの縁に腰掛けた。

「実力で勝ち取ってる?」

 冴子は可笑しそうに聞く。

「まだね。それだけの実力はないよ」

 良行は自分を恥じた。

「ヨッちゃんて、正直なんじゃね。そういうとこ、好きよ。分かりやすいし」

「なんよ、その分かりやすいって」

「すぐに顔に出るもん。答えが」

 冴子は声に出して笑った。そして急に立ち上がり、恥ずかしそうに室内に用意された洗面具を取った。

「私、お風呂に行ってくる。だって、歩き回っていっぱい汗をかいちゃったもん」

「ワシも行く。高台にある神社へ行ったとき、帰り際に足がつりそうになったもん」

「阿智神社?そんなところまで行ったの?」

「へえ、あそこ阿智神社って言うんか。外人が散歩しとって、3段飛ばしで階段を駆け上がっとると、変な顔をされた」

 冴子は、その光景が目に浮かんだのか、可笑しそうに笑った。

 二人は、部屋を出ると大浴場へ向かった。

 大浴場の前で別れ、一人、大浴場に浸かっていた良行は、今頃、最後の夜警で疲れ切っているだろうポン操仲間たちを思い出していた。

 あいつら、今、こんなところにワシがおるって想像つかんじゃろうのー。

 大浴場の高い天井を見上げていると、仲間たちに対してやましい気持ちが心の中に忍び込んでくる。急に、ワインの酔いが回ってくるようだった。

 部屋に戻ってきた二人は、ぎこちなくベッドに寝た。

 良行は、ケットをかけ直そうと思って、偶然目を閉じたままの冴子の手に触れた。その手は、すべすべとして柔らかく、神秘的なときめきを閃かせてくる。そっと握ると、息が詰まるほど鼓動が高まり、冴子の暖かさが心の奥底から実感できるような気がした。

冴子も良行の手を握り返してきた。

極自然に良行は、冴子に軽いキスをした。カリエールの「想い」にも似た微笑みがそこにある。二人が溶け合っていくと、時間が止まったように思えた。

「会えてよかった」

 アイビー・スクエアーの一室で、冴子は良行が眠りに就く前にそう言った。


 良行の年末年始は冴子のモデルになる以外、平凡に過ぎた。

 年末夜警の最後の夜を冴子と過ごして以来、良行は冴子のことが頭の中に絡みついて離れない。

 アイビー・スクエアーのつたじゃなぁーか。

 良行は大晦日にも冴子のモデルになって一晩を過ごした。相変わらずストーブを点けても冴子の部屋は暖まらない。

 その日のデッサンは、冴子のたっての希望で良行のヌードを描きたいという要望があった。制作中の絵を完成させるためには、どうしても協力して欲しいと言うのだ。

 ワシにヌードになれ、言うんか?

 気恥ずかしさがこみ上げてくる。

「どうしても、か?」

「うん……」

 その目は、一歩も退かないと言っている。

「じゃあ、私もヌードになる。それだったらいいでしょ」

 スケッチブックをいつもの丸テーブルに置いた冴子は、着ている服をさっさと脱ぎ始めた。戸惑っている様子もなく、さばさばした感じで目映いばかりの裸体を良行の前にさらけ出した。

 その目は、挑むような目をしていた。

「早く脱いで。そこに座って」

 いつもの命令口調は変わらない。むしろ、冴子の裸体に目を奪われていた良行にとっては、冴子の真剣さだけが強調されてくるようだった。その威圧感は、良行の気恥ずかしさを圧倒していく。

 服を脱ぎ終わると、いつものように描きかけの絵の水平線に向かって目を向けた。潮風が吹いて、波音が聞こえてくるような気がする。少年時代、夏休みの海水浴場で砂浜に寝そべっていたときの感覚が蘇ってくるようだった。

 冴子は、取り憑かれたように良行のヌードをデッサンしている。

 時々、戸外から年越しの行事に出かける人々の話し声が聞こえてくる以外は、冴子の手にした木炭がかさかさとスケッチブックをかすめる音しか聞こえてこない。

 いつもより長いモデルの時間は、退屈さよりも次第に気恥ずかしさを増してくるようだった。

「こんなことしとって、お母さん、何も言わんじゃろうか」

「気にしてるの?」

「そりゃあ、気になるよ」

 冴子は、デッサンに没頭していて気にもとめない様子だった。良行は、裸でいる自分がますます恥ずかしくなってくると、冴子をからかってみたい気分になった。

「恥じらいに、慣れるぬる除夜の、怖さかな」

 冴子はきょとんとした顔をして、ニヤッと笑う良行を見た。冴子も裸でいる自分が恥ずかしくなってきたに違いない。良行に手元にあった毛布を掛けると、自分も毛布にくるまりながら朗らかに笑った。

「ヨッちゃんて、いつから俳人になったの?」

 元旦になって、二人は埴生の神社に初詣した。大勢の老若男女が参拝する中、手を繋いだ二人は、特別な存在として自分たちを意識していた。良行は冴子と本殿にお参りをして帰る途中、松崎の勤めている新聞販売店の店主、今橋さんと親父の勝俊が何か深刻そうな立ち話をしているところを見かけた。しかし、何を話し合っているのかまでは気にならなかった。

 良行の正月休みは、あっという間に過ぎていった。

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