定位に、着け!
年末夜警に入った。能島では、3日間の年末夜警が予定されていて、この日は夜警の2日目だった。ポン操の訓練はひとまず正月明けの4日までお休みとなる。
良行は冴子に頼まれて、会社帰りにモデルを続けていた。明日から会社は正月休みになっている。この日、会社では片付けに追われて定時で終わり、仕事らしい仕事はしていない。
相変わらずモデルに注文を付ける冴子は命令口調だった。フローリングの床からは、いくら暖房を効かせても、寒気がはい上がってくる。絵の中の水平線を見つめていると、徐々に首筋が痛くなってくるし、それでも同じ姿勢を続けていないと、冴子から「動かないで!」と指示が出る。
「昨日から年末夜警なんでしょ」
冴子はデッサンしながら、無表情に質問してくる。
「どんなことするの?」
良行は、姿勢を崩さないように注意して、質問に答える。
「7時半に集まって、零時まで町中を巡回するだけよ」
「面白い?」
「別に面白くはないけど、仲間が集まってくるからな」
冴子に「仲間」と言ってから、松崎の顔がふいに浮かんだ。
親父にゲロ吐き事件がバレたこと、それをネタに松崎が親父を強請って営業しようとしたことは、仲間の誰にも言っていない。仲野県指導員へ謝罪するタイミングも良行には掴めていなかった。
絵に描かれた水平線を見ていると、どこまでが自分の気持ちだけで世の中が回るのか、どこからが自分の宿命といったものなのか分からなくなってくる。松崎を軽蔑していた気持ちも、良行の心の中では厳しい訓練を通して確実に変わり始めている。
「いいよ。ちょっと休憩」
やっと、休憩を取らせてくれた。
冴子は、スケッチブックを自分の座っていた椅子に置くと、部屋から出て行った。
良行は、冴子が部屋から出て行ったのを確認すると、冴子のスケッチブックに目を通してみた。
ナンバリングして、テーマ毎にスケッチブックを使い分けているらしく、そのスケッチブックには良行のデッサンしか描かれていない。自分の姿がデッサンされてみると、不思議な気持ちがした。写真に撮られた自分ならそのままの自分の表情が見えてくるが、人の手で描かれてみると、別の自分が存在感を示しているような不思議な感じがしてくる。まるで、テープレコーダーの自分の声が他人の声に聞こえてくるようなものだ。
冴子のことは千里から情報を仕入れていた。
高校時代から変わった子で、授業中でも平気でデッサンし、それでも教師から注意されなかったのは抜群の成績を収めていたからだったそうだ。当然、冴子の志望校は美術大学に絞られ、高校を卒業すると同時に京都の美大へ進学していった。冴子の家は資産家で、父親はすでに亡く、長男は跡を継いで別居している。冴子はこの家に母親と二人きりで住んでいるということだった。仕事らしいものと言えば、1週間に2回ほど福山の絵画教室で授業するくらいで、大学時代に取得した教員免許があるものの自分では教職に就くつもりはないと言っているらしい。
良行は、まだ冴子の母親の顔を見たことがなかった。
冴子の部屋は、いつもきれいに整頓されていた。使わないキャンバスは、アトリエの隣に設えられた画材道具などを置く部屋の棚に収納され、フローリングの床にはゴミ一つ落ちていない。
「コーヒー、入れてきた」
暫くすると、冴子がお盆に二人分のコーヒーカップとサーバーに入れたコーヒーを乗せて現れた。冴子はそれを部屋の隅の丸テーブルに置いて良行を誘った。
「チーちゃんから聞いたんじゃけど」
冴子は、悪戯っぽい微笑みを見せながらコーヒーを注いでいく。
「ヨッちゃんて、バイクじゃ二人乗りしないんだって?」
「そういうことにしとる」
「どうして?」
「タンデム」
「…」
「つまり二人乗りすると、疲れるから」
「そんなに疲れるの?」
「バイクって、生き物と同じで人を見るんじゃ。馬みたいにな。人を乗せて、そいつがバイクの気に入らんかったら振り落とされることもあるし、そいつを乗せたためにワシがバイクに嫌われることもある。誰かを乗せたら、バイクと折り合いを付けるのに疲れるいうわけよ」
大学時代に二輪免許を取った良行は、妹の円佳や千里が乗せてくれと言っても乗せたことがなかった。大学在学中、友人と二人でツーリングしていて、友人のバイクがパンクし、その友人を乗せて修理工場を探し回っていた時に振り落としてしまった経験があるからだ。幸い友人は鎖骨を骨折して2ヶ月ほど入院しただけですんだ。
「私が乗せてくれって言ったら?」
冴子は真面目に聞いてきた。
「ケガするかもしれんよ。それに冬は寒いし」
「でも、乗ってみたい。ヨッちゃんのバイクに」
良行は大原美術館で感じた冴子の温もりを思い出した。
この子を乗せたら、どうなるんじゃろう。
飲みかけたコーヒーが口の中で香りを増幅させ、トライアル車で障害物を乗り越える瞬間のエンジン音のように動悸が速くなってくる。
良行は思わず譫言のように、
「乗せて、やるよ」と言ってしまった。
身体が熱くなってくる。
拒み続けたタンデムを冴子にだけ許す理由は、それだけで十分だった。
「ほんと?約束よ」
良行は黙って頷いた。冴子はそれを確認すると、
「じゃ、明日は?」と問いかけてくる。
「そりゃあいいけど、きちんとバイクに乗れる格好してくれよ。まさか、皮のつなぎなんか持ってないじゃろうし、せめてオーバーパンツとダウンジャケットくらい着てくれんと、寒くて耐えられんぞ」
「スキーウエアーがあるから、それでいいでしょ。それで、どこへ連れてってくれるの?」
「しまなみ海道を走って四国方面へ行けば景色がきれいなんじゃけど、あそこって二人乗りじゃ走り切れんし、もし内緒で小型バイク専用道を通っとって見つかったらやっばいからな。冒険じゃけど、能島大橋だけタイミングを見て通り抜けて、また大原美術館へでも行ってみるか」
冴子は目を輝かせてうんうんと頷いている。そして、大胆な行動に出た。
「ヨッちゃん、大好き!」
突然、冴子は良行の首に抱きついてきた。
冴子の胸が良行の身体に触れ、動悸を早めさせる。甘い香りが鼻腔を刺激した。
冴子は休憩だと言ったが、倉敷へバイクで行く話題からその日のデッサンはそのまま終わってしまった。冴子との待ち合わせ時間は、午前9時ということにした。
その晩の年末夜警では、ビッグニュースが飛び込んできた。
連続放火事件の犯人を石橋さんが捕まえたというのだ。
「ワシゃー、変な奴じゃと思よったんよ。そいつ、いつだったか、携帯持ってハアハア言うとるところを見たんよ。その時の顔を覚えとって」
十時を回って屯所に姿を現した石橋さんは、興奮している。石橋さんは、放火犯に間違えられたときと同じように事情聴取されていたのだが、今度は現行犯逮捕に協力した市民としての扱いを受けたと喜んでいた。
身振り手振りで説明を続けながら、石橋さんは、その時の光景を思い出しているようだった。
何でワシが連続放火事件の犯人に間違えられんといけんのね。
クリスマス商戦まっただ中の稼ぎ時に、嫁からは軽蔑され、子どもからも疎まれた。
こうなったら、絶対、ワシが掴まえちゃる。
それまでの石橋さんは、消火活動以外の消防行事にはあまり参加しなかった。しかし、心に決めた名誉挽回を実行するためには、家族に対して確たる名目が必要だった。その名目が欲しいためにポン操訓練に参加していたようなものだ。
「かーちゃん、年末夜警が近いけー、消防団へよってくるわ。それに、若いもんがポン操訓練もしとるし」
嫁さんの目は、冷ややかだった。
「また警察に捕まるんじゃが」
その目は氷柱のように冷笑している。
冗談じゃなぁー。このまま引き下がれるか。
団服に着替えて自宅を出ると、ちょうどポン操訓練の様子を見に行こうとしていた本署の寺崎さんに出会った。家は近所で、町内会の行事を一緒にこなしたこともある仲だった。
「石橋さん、一緒に行きますか?」
愛車に乗り込もうとしていた寺崎さんは、石橋さんを手招きした。助手席に乗り込んできた石橋さんに、寺崎さんは話しかける。
「面白い話があるんで、聞いてみます?」
「何です?」
ニヤッと笑う寺崎さんは、怪訝そうな石橋さんの反応を無視して話し始めた。
「実は、この間の火事から日が経って、通信の連中が変な噂話をしとるんです」
通信とは、緊急通報を受けて指令を出す通信専門の職員のことだ。常備消防では役割分担を3つに分けている。残りの2つは、消火、防災活動をする消防、救急業務を行う救急、といった役割を担っている。
その話は、石橋さんには、興味がないようだった。それでも、寺崎さんは話し続ける。
「と言うのは、埴生の公園で四の地固めを掛けられて身動きができんから助けてくれ、言うてくる不審者がいるっちゅう話なんです」
「で、そりゃあ解決したんですか」
「現場へ行ってみたら、通報者はおりゃあせんのです。通信の連中は、そんな電話を何度か受けてたそうですがね」
その話にどう反応していいのか分からない石橋さんは、寺崎さんの愛車の窓を通して、ちらちら瞬く対岸の島の明かりを見つめていた。目を凝らすと、月の光に照らし出された島の輪郭が朧気に見えてきた。平穏で静かなこの島の風景は、この島に住む人々の気風に投影されているのだと実感させられる。
「変なやつでしょ」
景色に見とれていた石橋さんは、寺崎さんの話に興味を持てなかった。
「そいつの特徴言うたら、電話口でハアハア、息を荒げとるぐらいじゃったそうです」
練習会場に到着した石橋さんは、すっかりその話を忘れていた。日に日に上達していくポン操要員に目を見張っていたことも、寺崎さんの話を忘れさせるには充分の理由だった。
その日の訓練を終えた石橋さんは、寺崎さんに話してもらった人物にそれほど関心をもっていたわけではない。寺崎さんはすでに先に帰っていたし、もとより見回りをするつもりだった石橋さんは、道路から死角になった場所や狭い路地に目を凝らせながら徒歩で自宅へ向かっていた。
熟し始めた晩生のネーブルがその香しい匂いを放散させているような柑橘畑を通って、山道を一人で歩く。
名誉挽回じゃ。……言うても、なかなか厳しいのー。
山の傾斜を削って建てられた住宅街の脇を抜けて、埴生小学校のグランドが見える場所に出た。水銀灯に照らされた小学校のグランドは、不気味に静まりかえっている。グランドを周回する道から校門へ出る途中には、埴生分団の屯所がある。すでに、訓練用具は片づけられ、屯所のシャッターも降りて誰もいない。
グランドと一般道を隔てるフェンスに沿って歩き、校門の前に出た。
偶然、石橋さんは、埴生小学校の体育館の入り口を見た。携帯電話で話しているらしい男がその入り口の前で座っているようだった。
こんな夜中に、なんじゃろう。
急に、練習前、寺崎さんから聞いた話が蘇ってくる。そっと、その男に気づかれないように足音を忍ばせて近付いて行った。
「ハア、ハア…」
通話ボタンを切った男は、興奮して息を荒げている。
こいつじゃ、寺崎さんの言うとったやつ。
石橋さんは、水銀灯に照らされた男の顔をはっきりと見た。直感で、連続放火事件の犯人だと確信した。
ターゲットは、こいつじゃ。
翌日からの石橋さんは、この男を見つけることに専念した。
その日は、年末夜警の初日だった。
嫁さんの冷たい視線にも慣れてきた。それよりも、前日、ポン操要員の叩きだした最高タイムが我が事のように嬉しく、年末夜警を楽しみにしている自分がいることにも驚いていた。出発前には、しっかりと携帯電話を持ち、いつものように訓練開始前のパトロールから始めることにした。
どうせ見回るんじゃ、一之城との境まで行ってみるか。
バイクに乗って、峠道を走る。変電所のフェンスが見えてきた。道路沿いに自動販売機も見える。
そこに黒い陰を見たのは、目の錯覚ではなかった。バイクのスピードを落とさずにすり抜けていく。ヘルメットの位置を固定したまま、横目で一瞬、その陰を見た。
あいつだった。
動悸が激しくなってくる。
バイクを近くで降り、物陰に隠れながら近付いていく。
何をしょうるんじゃろう。
動きはない。
まさか、警戒しょうるわけじゃなかろうのー。
そう思った刹那だった。その男は、ジャンパーのポケットから、何かの固まりのような物を取り出すと、2台並んだ自動販売機の隙間に、その固まりを詰めているようだった。そして、反対側のポケットから取り出した物は、自動販売機の明かりでもはっきりと確認できるオイルライターだった。
男は、ライターの蓋を開けて、火を点けた。その火を、自動販売機の隙間に入れた固まりに近づけていく。
赤い炎が立ち上った。
「何しょんなー!」
石橋さんは、思わず大声で怒鳴っていた。そして、全速力でその男に近付いていく。
男は、石橋さんの怒鳴り声にひるんだのか、その場に立ちすくんでいる。その男に近付くにつれ、火の点いた固まりの正体は丸めた新聞紙だと分かった。しかし、火は、一瞬大きくなったにもかかわらず徐々に弱まっていくようだった。
「こら、おまえ。じっとしとれよ」
たぶん血走った目をして、その男を威嚇していたに違いない。何度もイメージトレーニングしたように携帯電話を取り出し、冷静にその男と現場を画像に収める。そして、油断なくその男を見張りながら、すぐに警察署へ通報した。
通報している間、その男は、観念したようにじっとしていたが、いきなり石橋さんに近付いてきた。
もの凄い酒の匂いが辺りに漂ってくる。
「おどりゃあ、どこのもんね。ワシゃあ、デストロイヤーの弟子ど。四の字固めを掛けちゃろうか」
その男の目は、焦点を失って、中空を彷徨っているようだった。垢じみたトレーナーがジャンパーの襟首から覗いている。
「こっちへ来いや」
その男は、石橋さんの着ていた団服の袖を引っ張る。強引に振りほどいてみると、その男は、ふらふらとその場にへたり込んでしまった。男が火を点けた新聞紙は、幸い途中で消えてしまったようで、自動販売機の側面を焦がしただけのようだった。
遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。到着するまでの間、石橋さんは、時間が止まったように感じていた。
パトカーが到着すると、警察官は、すぐにその男のいる場所へ駆け寄った。
「うわー、すっごい酒臭い」
「あんた、呑んでますね」
苦虫をかみつぶしたような顔をして、警察官がその男に職務質問している。その行為が男のかんに障ったのか、男は、急に暴れ出した。その場に転がると、まるで駄々をこねる子どものように手足をばたつかせて抵抗しだした。
「何じゃい。ワシがどうした言うんね。捕まえられるんなら、捕まえてみー。ドロップキックくらわしちゃるど」
警察官は、あきれ果てて、その男が落ち着くまで見守っているしかないようだった。その間、警察官の一人が石橋さんに近付いてきた。
「あなたが、通報してくれた人ですね」
「あれ、見ちゃってください。携帯には画像も入ってます」
石橋さんは、自動販売機を指さした。
警察官は、無線機を取り出すと、連絡を取り始めた。
「こちら通報で駆けつけとりますが、放火犯、確保しとります。現行犯でよろしいですか」
慌ただしく連絡を取り合っていた警察官は、その男が落ち着いたところを見計らって手錠を掛けた。その男は、ふらふらとして、警察官が肩を貸さなければ立てないほど泥酔しているようだった。一方、肩を貸した警察官は、その男の酒臭さに閉口しているようで、犬の糞を踏ん付けたときのような顔をしていた。
後部座席にその男を乗せると、さっき話しかけてきた警察官が駆け寄ってくる。
「本署から応援が来ますから、現場で待っとってください。見たところ、消防団の方みたいですね。すいませんが、それまで現場が荒らされんように見張っとってください」
パトカーは、すぐに現場から離れていった。それと入れ替わりに、何台ものパトカーが現場に到着してきた。その間、付近の住民が集まりだして騒然とし、石橋さんと警察官を遠巻きにして、何事かを囁きあっている。石橋さんは、後から駆けつけてきた警察に同行して現場の状況を説明した。その上で石橋さんは事情聴取を受けることになり、乗ってきたバイクで本署に出頭することになった。
本署に到着すると、あの放火犯に間違われた時の対応が嘘のように翻り、石橋さんの気分を心地よくさせる。証拠となる画像が収められた携帯は、警察に預けることになったが、後日、丁重なおみやげと一緒に帰ってきた。
「そいつ、どこのやつよ」
仕事が忙しくなったのか、ここ2日ほど訓練に参加していなかった智史さんが口を挟む。
「鏡庄に住んどるらしいんじゃけど、詳しいことは分からん」
警察はそういう情報を一切教えないらしい。
積載車に乗って町を巡回していた他の団員も屯所へ集まってきた。夜警で全員が楽しみにしていたうどんも、今は石橋さんの話でお預け状態となっている。
「そいつ、ゲロ吐かんかったですか?」
調子に乗ってビールを飲んでいた松崎が良行の顔をチラッと見て口を挟む。
良行は無視した。
昨晩の不安が急に顔を覗かせる。松崎は良行の不安に気付いていないようだ。
年末夜景の夜は長い。
橋本班長は参加した団員のためにうどんを作っている。具は、牛肉を醤油と砂糖、酒などで煮たものと、かまぼこ、てんかす、おぼろ昆布、ネギなどだった。だし汁は、いつも大崎分団長の奥さんが商売物のいりこで作る。この年末夜警の夜食は、各分団毎に工夫され、メニューはそれぞれの分団に任されている。
「うどんのいる奴は?」
屯所のテレビを見ていた団員たちは橋本班長の声に振り向いて、うどんの欲しいものは手を挙げる。
「4人か。そばは?」
三好さんと智史さんが手を挙げた。
「2人か。松崎、どんぶりと箸、用意しとけよ」
顔を真っ赤にさせた松崎は、屯所の狭い厨房へ入り込んで、橋本班長の後ろへ回り込むように食器を取り出す。その作業の最中に、松崎はでへでへと笑いながら橋本班長の尻を撫でる。
「橋本さんて、頭だけじゃなくてお尻も固いのね」
「アホ、気持ち悪るかろうが」
橋本班長から怒られた松崎はすでに酔っているらしかった。しかし、良行のゲロ吐き事件については一言も話さない。
うどんを食べ終わった良行は、この日、2回目の巡回に出ることになった。1回目の巡回には積載車で出動し、植野部長の運転で島の反対側にある窪田分団まで出かけ、焼き肉をごちそうになっていた。これから出かけるコースは、徒歩で山手から海岸線を回って屯所へ帰るコースで、40分もあれば終わる。
良行は懐中電気を持ち、智史さんが拍子木を持つ。ほろ酔い加減の松崎と三好さんは何も持たずに後ろから付いてくる。
「昔は、夜警じゃあ大声出しょったんじゃけど、うるさい言うのがおって、拍子木だけになってしもうたけのー」
三好さんは、痔の手術の後遺症なのか、あまり長いコースには参加しない。並んで歩いている松崎に話しかけている。
「火の用心じゃけ、みんなを起こさにゃいけんことになっとったんじゃ」
「あの最中に起こされたら、嫁さんから逆に喜ばれるんじゃないですか」
「アホか」
山手のカラタチで生け垣を作っているミカン畑の中、4人の笑い声だけが響く。その小道を抜けると、松崎は明日の仕事に差し支えるからと言って一人だけ帰っていった。
「あのアホ、ポン操に出るようになってから真面目になったが」
智史さんは、松崎の行動の変化を意外に思っているようだった。
「他の目的があるに決まっとるじゃなぁーか」
後ろから三好さんが口を挟む。
「三好さん、何か知っとるんですか?」
「鶴姫の女の子よ。前に野島と松崎がもめたことがあったろう。智史はよう知っとろうが」
「あ~、そのこと。そう言えば、野島とひと悶着あって、止めに入ったことがあったのー」
「それよ、それ。三島はもっと詳しく知っとるはずで。おまえら、同級じゃろう」
「三島、どうなんじゃ」
智史さんは興味津々で良行に問いかけてくる。良行は返答に困った。
まさか二人が、結婚の約束をしているとまでは言いにくい。別に松崎から口止めされたわけではなかったが、興味本位で二人の婚約を話題にしたくないと良行は思った。
「ボクも、よう知らんのです」
思わず嘘を吐いてしまった。
「でも、同級のおまえらが知らんことはないじゃろう」
智史さんは、それでもしつこく問いつめてくる。
良行は、嘘を吐いた手前、同級生と松崎との関わりについて話すしかなかった。
「あいつは同級から無視されとんです。新聞屋の前は、車のディーラー。その前は洗剤メーカーのセールスマン。その前にも色々あって、そのたんびにワシらは迷惑かけられとるんです」
造り酒屋の敏明や料理屋の敦は松崎から無理矢理車を買い換えさせられ、良行も叔父を紹介させられてひどい目にあった。他にも、漁師の英次が騙されて洗剤を大量に買わされたこともある。3人ともそれ以来、調子ぃの松崎の口車には用心している。
「あいつなら、やりかねんのー」
「そういうことです」
そう言い切った良行だったが、二人はまだ納得していないようだった。しかし、本当に納得していないのは良行本人だったのかもしれない。
屯所へ帰った3人は、残っていた大崎分団長と橋本班長、それに別のコースから帰ってきた保さん、野島班長、大谷とで、出初め式の打ち合わせをすることになった。明日は年末夜警の最終日なので、この日に打ち合わせることになったのだ。
総員で30名いるはずの団員への連絡の確認、出初め式終了後の反省会会場の手配、当日の役割分担、終了後の懇親会の準備と会場設営。大崎分団長は、決まった内容について、確認表にチェックを入れていく。
良行は、一斉放水と分団対抗レースへの出場。それと、二輪に乗っているところを買われ、赤バイの乗務員に選ばれた。赤バイは、島嶼部ながら山林地帯の多い能島市の地形に対応するため、そういった場所で機動力を発揮できるオフロードタイプのバイクを改造したものだ。トランシーバーの電波が届きにくい場所での司令部からの連絡報告、軽い資器材の搬送などにも使われる。能島市には、このタイプのバイクが三台配置されている。
「正月明けに一回でも乗らしてもらっとけ」
大崎分団長は、良行が赤バイ乗務員として参加する旨を寺崎さんに伝えてくれると良行に告げた。