火点は、前方の標的
「もう少しじゃろう。一分切れるで」
ポン操大会のタイムは、指揮者が「操作始め」と号令して、三番員が「よし」と答えた時の「し」と言い切ったところからスタートし、指揮者が放水して火点を倒し終わるまでが記録される。これをホース延長の所用規準時間と言い、能島市では全国大会に合わせて45秒という所用時間を設定している。ただし、旧式の可搬式ポンプが主力の能島市消防団でこのタイムを出すのは不可能とされている。ポンプの能力が低いため、吸水するために必要なポンプ内の真空状態を作り出すのに時間が掛かりすぎるのだ。
口から内蔵が飛び出しそうなほど走りきった良行は、仲野県指導員の残念そうな表情など見ていない。ただ膝に手をついて、ただハアハアと荒い息をするだけだった。
「明日からは年末夜警が始まる。訓練の方は新年の4日から始めるが、今日の訓練で君らに目処が付くかどうかがはっきりする。暗い正月を迎えるのか、明るい正月になるのかどうか埴生分団の意地を見せて欲しいと思う」
訓練開始前の挨拶から仲野県指導員の気合いは入っていた。
こんなぁ、一分切るまで訓練止めん気じゃ。
もうすでに4回も一通りの訓練を終えている。
最初の1回目で70秒。
「おまえら、やる気あるんか!」
大崎分団長に気合いを入れられる。
2回目、65秒。
良行の第1線がきれいに延びなかったためタイムが縮まらない。
3回目、65秒。2回目と同タイム。
必死で走る必要のない谷口まで息切れしている。良行は、訓練開始前にかじかんでいた指先が熱く火照ってくるのを感じていた。
そして4回目、62秒。どうしても60秒の壁が破れない。橋本班長も悔しさを噛みしめているようだった。
何が「暗い正月」じゃ。必死でやっとろうが、必死で。
膝がガクガクと独りでに笑う。休んでいる最中だけ寒風が心地よく頬を撫でてくる。
「おい、ヨッちゃん、大丈夫か?」
橋本班長が不安そうに良行の顔をのぞき込む。
「まだ大丈夫ですって!」
良行は焼糞になって訓練続行をアピールする。額の汗が俯いた良行の目に滴り落ちて、痛みを覚えさせていた。良行は、首に巻いたタオルで目に染みる汗をぬぐって顔を上げ、訓練コースから外れた広いグランドで2重巻きホースを締め込んでいる野島班長を見た。
良行は、野島班長の巻いているホースの巻き具合を確かめようと、そこへ近付いてみることにした。
「どうね。こんだけ締め込んどったら真っ直ぐ伸びるじゃろう。鏡庄のやつらでもここまで巻けるやつはおらんはずよ。これでもワシは埴生の指導員じゃからのー」
締め込まれたホースは、中心の巻き目に隙間が見えないくらいしっかり巻き込まれている。この頃、どういうわけか野島班長の出席率が高い。どうやら立て込んだ仕事が入っていないようだ。
しかも、出席率が高くなった理由はそれだけではないようだった。野島班長は、指導員としてポン操訓練の指導が出来ない自分を、ふがいなく思っているようなのだ。各分団にはそれぞれ訓練を統括する指導員がいる。指導員の役割は、主に台風などの水災害を想定した防災訓練や、山火事を想定した林野火災訓練などの準備を手伝ったり、小型ポンプ操法大会などの通常訓練をサポートしたりする役割がある。野島班長は、その役割を果たせない自分の苛立ちを2重巻きホースの締め込みに拘って紛らわしていたのだろう。
「これであいつに、埴生の底力を見せてやってくれぇや」
歯を食いしばってホースを巻いている野島班長は、仲野指導員を指さしてニヤッと良行に笑いかけた。
「ポンプ操法要員、集合!」
橋本班長が手を挙げ、スタート地点にポン操要員を集合させる。
「ええか、60秒じゃ。鏡庄では恥ずかしいくらいのタイムじゃ。去年の優勝チームは、50秒を切っとった。おまえらに出来んことはないはずじゃけ、自信を持ってやれ」
仲野県指導員は相変わらず尊大に檄を飛ばす。
何が恥ずかしいくらいじゃ。
張りつめた神経がぷつりと音を立てて切れたような気がする。
仲野県指導員の横から、副分団長の保さんが指揮者からの報告を受ける位置につくため、ゆっくりと歩いて背中を見せた。その後ろ姿には「気合いを入れろ」という文字が書き込まれているようだった。
「操法、準備」
植野保部長が指示を出す。
冷静になれ、冷静に。
自主整頓した時、大谷の目が良行を刺した。
「待機線に着け!」
慎重に足を伸ばして、待機線のラインギリギリに踵を置く。
「操法、開始」
指示を出す植野部長も、うわずった声をして、緊張しているようだった。
橋本班長が小さな引きつける半ば右向け右をして、ホースをかすめるように指揮者の位置へ走り込んでいく。
「集まれ!」
2日前、1時間も練習させられたところだ。全員の呼吸は合っている。
自主整頓まで完璧にこなせた。
「番号!」
「一」
「二」
「三」
つい三週間前までは、「一」を「ちぃ!」と言えという指示にさえ納得していなかった良行が、いつの間にかこの言い方でしか番号を言えなくなっている。
橋本班長がゆっくりとした動作で回れ右をして、指示を受ける位置へと走り込む。
「埴生分団、ただ今から、小型ポンプ操法を開始します」
「よし!」
保さんに答礼してこちらに向き直った橋本班長の顔は、緊張に歪んでいる。
再び指揮者の位置に戻った橋本班長は、命令口調で指示を伝達する。
「火点は前方の標的。水利はポンプ右側後方防火水槽。手延ろめによる二重巻きホース、一線延長!定位に、着け!」
一番員、定位までの三歩間、良行は手を意識して振って走った。手延ろめとは、消火ホースを扱う団員が他の器具に接続する雄金具、雌金具を手元に残すように締め込まれた二重巻きホースを地面に置き、送水部分になっているホースだけを前方へ投げ出し、送水のラインを延長、確保する事を意味する。
「操作、始め!」
「よし!」
1番ホースを取り、つま先での深い回れ右。ホースの端にある接続金具に触れず、つま先をホースの幅から踏み出すこともなく、1番ホースの雌金具側を踏む。牡金具を掴んで、班長が筒先を肩にかけ2番ホースを担いで走り出す姿を追いかけるように、二つあったホースの間を狙って二重巻きホースを延長する。絵に描いたように真っ直ぐなラインが出来た。
連結金具を確実にポンプに接続し、2番ホースを確実に節度を付けて肩に担ぐと、1番ホースの連結金具を掴んで走り出す。身体に刻み込んだ一番ホースまでの歩数が勝手に良行を所定の位置でストップさせる。もしホースを引きずりでもしたら減点の対象となる。1番ホースの連結金具を節度に気を配って丁寧に地面に置くと、2番ホースを延長していく。
鞭がしなるようにホースが延びていく。
1番ホースと2番ホースを確実に連結させると、橋本班長の後ろ姿がぐんぐん近付いてくる。グランドの土が目一杯後方へ蹴り出されていく感覚だ。
指揮者の延長した3番ホースの接続金具が目の前にある。
意識して指先を伸ばし、節度を付けて2番ホースの連結金具を地面に置き、すばやく3番ホースの連結金具を取る。確実に接続すると、音の出る気を付けをして指揮者の指示を仰ぐ。
「放水、始め!」
良行は声を振り絞って復唱する。
「放水、始め!」
踵を引きつける必要のない回れ右をして、力の限りポンプへ向かって走る。
ダッシュの足音がグランドを揺るがしている。前方からは3番員の松崎が小型可搬式ポンプのエンジンをスタートさせ、ポンプ内部を真空状態にする最中のギュギュギューッという音が聞こえてくる。消防団では、これを「真空抜き」と呼んでいる。
松崎の引きつった顔が目の前に見える。
右手を高く突き上げて、三番員に「放水、始め」の指示を伝達する。
松崎も指先をピン伸ばして手の平を頭上に突き上げ、
「放水、始め!」と復唱する。
回れ右をすると、ホースに沿って一直線に指揮者の元へ走っていく。ラインは完璧だった。良行の後方からホースの中を水が追いかけてくる。
橋本班長の背中に向けて、
「伝達、終わり!」と報告する。
筒先からは勢いよく放水が始まる。火点は放水の出だしですぐに倒れた。火点は、2メートルの脚立にステンレス製の円形の枠が取り付けられ、その中に赤地に白で「火」と書き抜かれた円盤を取り付けたものだ。たいていマグネットなどで固定され、放水が命中するとすぐに倒れる仕組みになっている。競技の計時は、火点が倒れたときに終了する。埴生分団では旧式のポンプを使っているため、ポンプの真空、吸水から実放水までにどうしてもタイムロスが出る。
「筒先員、交替!」
慎重に指揮者の背後から回り込んで、丁寧に筒先を受け渡される。橋本班長が気持ちを込めて良行の背中を押す。
その間、大谷が良行の横へ走り込んできた。
「放水、停止」
火点で指示を与える野島班長が指示を出すと、橋本班長が気合いの入った号令を出す。
「放水、止め!」
大谷が回れ右して松崎の待つポンプの所へ走り込んでいく。その間、良行は、そろりそろりと筒先を抱え上げ、ゆっくりと持ち手を交わして筒先を脇で抱え込むと、筒先のダイヤルを丁寧に締め込んでいく。勢いよく放物線を描いていた放水が徐々に手元に引きつけられていく。
頭の中が真っ白になるのを我慢して、じっと筒先を構えて待つ。
筒先の構え方は、これまでねちねちと仲野県指導員から指導を受けてきた。身体のラインを意識して、つま先まで油断なく火点を狙っている。
大谷が帰ってきた。
「伝達、終わり」
大谷が定位置に着く。
野島班長は、大谷の完全な静止を確認すると指示を出す。
「排水、開始」
完全にシャットされた筒先を、もう一度そろりそろりと抱え上げ、ダイヤルを一握りだけ戻して、残圧をなくす。完全に放水しなくなったことを確認すると、さらにもう一握りダイヤルを戻して、筒先を地面に向けて排水していく。排出された水が凍てついたグランドに黒々としたシミを広げていく。
「排水、中止」
野島班長から指示が出る。
筒先を抱え上げ、ダイヤルを元のように完全にシャットし、筒先の連結部分をつま先に接するように、慎重に足元に付ける。
「よし!」
良行は顎を引き締めて前を向く。
「器具を置け!」
野島班長のほっとした声が響く。
普段は訓練に姿を見せない石橋さんが大きな三角定規のようなもので、指揮者をしている橋本班長の位置を測定すると、いつも尊大な態度を取る仲野県指導員が手を叩いた。
「おまえら、今のタイム何秒じゃったと思う?」
嬉しそうにストップウォッチの表示を差し出し、
「59秒!」と叫んだ。
「これで明るい正月が迎えられるの」
仲野県指導員は満足げに一人一人にストップウォッチの表示板を見せていく。2ヶ月間訓練し続けて、未だに出したことのないタイムだった。仲野指導員は、さらなる気合を入れた。
「さっ、最後の締めじゃ。見事に撤収してみせろ」
野島班長が指示を出す。
「収納、開始」
橋本班長が気合いの入った号令をかける。
「収め!」
四人が点検報告を済ませるまでの間、大崎分団長と仲野県指導員は目を細めて良行たちのチームを見守っていた。
「別れ!」
答礼が済む。
「撤収!」
練習に参加していた植野部長、野島班長の割れんばかりの拍手が心地よかった。
その日、良行は最高の気分で自宅へ帰った。
気分の高揚したまま真っ先に風呂へ入ろうとすると、リビングでくつろいでいた親父の勝俊が良行を静止する。その目は、良行にイヤな予感をさせた。
「良行、子供じみたまねをしてからに。ちゃんと詫びを入れとけよ」
それまでの最高の気分が一気に冷めていった。
親父はニヤニヤ笑っている。ゲロ吐き事件がバレたに違いない。
「ワシにもそういう時代があったけど、おまえの連れはいただけんのー」
温厚な親父が何かを怒っている。恥ずかしさと共に、ぞわぞわと足元から別の不安が頭をもたげてくる。初めて60秒の壁を破って喜びを爆発させていた松崎の顔が脳裏に浮かぶ。それは、紛れもなく同じ思いを共有する仲間の顔だった。
「今日、ワシの会社へ営業に来て、同僚に新聞を取ってくれるように頼み込むんじゃ。知らん仲でもないんで紹介してやろうかと思うたら、おまえのことをネタにしよる」
最初、ニヤニヤ笑っていた親父の顔は、そう言い終わると同時に引きつっていた。松崎が何か失敗をやらかしたに違いない。
良行に軽い拳骨を入れた親父は、他にも何か言いたそうだったが、それ以上は何も言わなかった。
良行はその夜、不安なまま一晩を過ごした。




