小型ポンプ操法を開始します!
その日の訓練は、「集まれ」の号令で集合線に走り込む5歩間の駆け足ばかりを1時間もさせられた。一ヶ月以上も訓練してきて、どうしてこんな些細なところが訓練の対象になったのか、ポン操要員たちには納得できなかった。
仲野県指導員の指導は執念深い。ねちねちと、へばりつくように指導していく。
最初の一回目の訓練で、どうしてもこの5歩間だけが目に付いた仲野県指導員は、気が済むまで訓練を続けさせるつもりのようだった。やがて1時間が過ぎ、やっと開放してくれた時には、休憩時間に入る午後9時をすでに回っていた。
署の寺崎さんが仲野県指導員と話している。
「相変わらず厳しいのう」
「これが役目ですから」
「後、年末夜警がすんで正月を挟むと、実質訓練できるんは2ヶ月ちょっとじゃのう」
仲野県指導員は無言で頷いている。
「ちったあ、ものになってきたか?」
「そうですね。基礎体力もぼちぼち付いてきたし、節度も、何とか形だけは付けられるようにはなってきたんですが、良くなってくると色々小さいことが目について」
「まあ、今までこんな厳しい訓練したことのない連中なんじゃけ、無理して潰さんといてくれよ」
寺崎さんは朗らかに笑った。仲野県指導員は何が可笑しいのかと訴えるような目つきをしている。
今日の訓練には大崎分団長が来ていない。訓練の指揮は副分団長の保さんが執っていた。大崎分団長は、保さんに今日の訓練の指揮を任せると連絡を入れてきたそうだ。何か事件でもあったらしい。
休憩が終わり、通しで2回訓練した頃、大崎分団長はやっと姿を見せた。何事か寺崎さんと話し合っていると、突然二人は弾けるような大声で笑い出した。
訓練はまだ続いている。
二人の笑い声に注目するポン操要員を尻目に、仲野県指導員はもう一度だけ通しで訓練するようにと告げた。すでに午後9時半を回っている。
夜間照明が切れるまで訓練させる気だ。仲野県指導員がいない時だったら、ここまでの訓練はやらない。週に3回も来る仲野県指導員が疎ましい。
やっと仲野県指導員から解放されて午後十時前ギリギリに訓練が終了すると、大崎分団長と寺崎さんが大声で笑っていたわけが明らかになった。
一昨日の火事で、現場へ一番最初に駆け付けた石橋さんが、警察から目を付けられて事情聴取されたというのだ。そのため、団本部から大崎分団長に連絡が入り、石橋さんの疑いを解くためなのか、警察署に呼ばれたらしい。
「警察は、例の連続放火事件と一昨日の火事が関係あるらしいと睨んどったみたいじゃ。空き家から出火しとって、それで、たまたま第一発見者になった石橋が疑われての」
大崎分団長によれば、その日、クリスマス前ということもあって、菓子屋をしている石橋さんはかなりの忙しさだったらしい。それで、火事現場に近い八百屋にまで出向き、少なくなった材料を受け取りに行ったらしい。その帰り道、バイクの気軽さもあって早道になる例の火事現場の前を通り、火事に気が付いたそうだ。その後、石橋さんはすぐ近所の人に火事を知らせ、自分は自宅で団服に着替えると、奥さんの制止も無視して、すぐに火事現場へ向かったそうだ。
その場にいた団員たちは、いつも「消防命」と言ってる石橋さんらしいと思った。
警察からすれば、第一発見者は一番の重要参考人だ。近所の人から第一発見者の顔を教えられ、すぐに石橋さんだと判明した。それで、石橋さんは警察の任意同行に応え、クリスマス商戦真っ盛りの仕事をしぶしぶ放り出して出頭するしかなかったのだという。
これは、後から分かったことだが、どうやらこの火事の原因は、空き家の主が正月に帰ってくる親戚のために掃除したとき、テレビか何かのコンセントを差し込んだままの古い電気コードを束ね、その上にうっかり重いダイニングテーブルを置いてしまったために起きた火事だったそうだ。典型的な電気火災で、コードを束ねて圧力を加えるとコードが加熱して火災の原因になる。
石橋さんには何の罪もないことだった。
大崎分団長は、別室で面会した石橋さんの様子を詳しく話す。
「あいつ、しょんぼりしとってのー。嫁が恐―い。嫁が恐―い、言うとるんよ。普段から消防命じゃ言うて、火を見ると見境がつかんやつじゃけ、自分の立場なんか考えんかったんじゃろうのー。刑事が出てきて、わしも事情聴取を受けたんじゃが、根掘り葉掘りあいつの普段の行動を聞いてくるんよ。そりゃあしつこかったでぇ。それより、身元引受人に現れた奥さんの目が、三角になっとったけのー。ワシゃあ、あれがあいつのトラウマになるんじゃないかと思うてのう」
大崎分団長は太った腹を揺すって笑う。
その時、中学校のグランドを照らしていた照明が急に落ちた。いつものことで、午後十時を回るとタイマーが作動し、電源が落ちる仕組みになっている。それを潮に団員たちはそれぞれ解散していった。
バイクを止めた自転車置き場へ良行が向かっていると、後ろから松崎が近付いてきた。
「ヨッちゃん、今日はクリスマスイブじゃし、ワシにちょっと付き合えよ」
別にあてのなかった良行は、クリスマスイブという日を松崎に言われて初めて意識した。ゲロ吐き事件に不安を感じていた良行は、この特別な日に別段華やかさを感じていなかったのだ。連日の厳しい訓練で気心を知るようになってきた松崎だったが、良行にとってはまだ心を許せる間柄にはなっていない。
良行は、冴子の部屋で感じた不安を思い出していた。
こんなぁ、ワシをゆする気か?
不安そうな目で見つめる良行を察してか、松崎は両手の平を左右に振って、
「バカじゃのう、もうその話しはせん。一緒に呑みたいだけじゃ」と良行の不安を否定した。
「実はの、相談があるんじゃ」
「相談って何じゃ」
良行は、松崎にはあまり関わりたくなかった。
「そう素っ気なくすんなよ。真面目な話なんじゃけ」
松崎は、良行に鶴姫に来るようにと念を押すと、さっさとバイクで走り去った。
鶴姫の店内へ入った良行は、すでにカウンターに座ってノンちゃんと楽しそうに会話している松崎のところへ向かった。
千里がノンちゃんに近付く松崎に気を付けろ言うとったけど、こういうことか。
ノンちゃんが仕事だということを差し引いても、二人は誰の目にも特別な関係にあるように映る。松崎は、良行が隣に座り込むまで、良行が来たことにさえ気付かなかった。
ノンちゃんは松崎との会話を止めると、取って付けたように、
「ヨッちゃん、水割りにする?」と問いかけてきた。
オレはついでか……。
松崎も良行を呼び出しておきながら、どこかよそよそしい素振りをした。
こいつら、真面目な相談がある言うとって、何のつもりねぇ。
「おい、松崎。用がないんなら帰るで」
松崎はその言葉に慌てた。
「待て待て、待ってくれよ。ほんまに大事な話があるんじゃ」
松崎はそう言ってノンちゃんと目を合わせた。
「実はな、ワシら、結婚しようと思うとるんじゃ」
耳を疑った。
「嘘じゃろ!たった3ヶ月ぐらいの付き合いでか!」
「ほんまなんじゃ。じゃけ、聞いてくれ」
松崎は真剣な目つきをして良行を睨んだ。ノンちゃんの目つきも真剣だった。
どうなっとるんじゃ、こいつら。
松崎は、二人が結婚することになった経緯を話し始めた。
松崎はポン操大会の練習が始まって以来、毎日のように鶴姫に出入りしていたらしい。それだけでなく、昼間自由の利く松崎は、ノンちゃんを誘い出して繁華街のある福山へ出かけたりして付き合いを重ねてきたと言う。
松崎は、二人が結婚するまでの経緯を良行に話して聞かせながら、これまでの日々を思い出していた。
あの日からじゃ。
ゲロを吐いてくると行って出て行ったヨッちゃんは戻ってこない。ノンちゃんは、ボックス席に座って訓練の話で盛り上がっている野島班長に水割りを作っている。昼間、左官の仕事で疲れ切っている野島班長の酔いはピークに達していたみたいだった。
「野島っ、ええ加減にせぇ。呑み過ぎでぇ」
隣に座っていた元副分団長の智史さんが見かねて注意している。
「何、言うとんね。高い金払うて呑みに来とるんじゃろうが。はめ外して、どこが悪いんね。なー、ねーちゃん」
何が、なー、ねーちゃんね。気安うそんな呼び方でノンちゃんを呼ばんといて欲しいわ。
松崎は、野島班長の態度に嫌悪感を覚えた。
いたたまれなくなった松崎は、一旦、鶴姫の外へ出ることにした。ゲロを吐いているはずのヨッちゃんを介抱してやろうと思ったからだ。
しかし、そこには、あったはずのヨッちゃんのバイクが見あたらない。しかし、カウンターには、ヨッちゃんがいつも使っているポシェットがある。
あんなー、どこへ行ったんな。
不審に思いつつ、松崎は再び店内へ戻った。そこで松崎は、野島班長が、時折ノンちゃんの体に触れてニヤついているところを見てしまった。
なんぼ何でも、キャバレーと違うんじゃけ、そこまでしたらいけんじゃろう。
カウンターに座っていた松崎は、意を決して野島班長と智史さんの座っているボックス席へ移ることにした。別に正義感がどうこう言うわけではなく、馴染みのノンちゃんが嫌がっている顔を見たくないと思ったからだ。
「ノンちゃん、ワシにも水割り」
松崎はその席に無理矢理割り込むと、ノンちゃんと目を合わせた。
「何ねー、松崎。狭いけー、あっちで座わっとれ」
割り込んできた松崎の態度が野島班長の機嫌を損ねたらしい。
「それとも、こういうのはどうね」
野島班長は、いきなりノンちゃんを抱え上げると、自分の膝の上にノンちゃんを乗せた。嫌がるノンちゃんは、羽交い締めにされながらも、そこから逃げだそうと藻掻いている。
「何をするんじゃ」
松崎は、とっさに野島班長の腕をねじり上げてノンちゃんを引き離した。
「おどりゃあ、ぶちくらわしちゃろうか」
野島班長は、松崎の腕をふりほどくと、胸ぐらを掴んで、凄みをきかせた目をしている。「ぶちくらわしちゃろうか」というのは能島弁の浜言葉で、「ぶち」という強烈なを意味する言葉とあいまって「凄い拳骨をお見舞いしてやろうか」というくらいの意味になる。おどりゃあとは、おまえとか貴様とかいうくらいの意味だ。野島班長は完全に泥酔状態だった。あっけに取られて見とれていた智史さんは、さすがにその場の危険な空気を察して、野島班長を羽交い締めにした。
「松崎っ、カウンターへ行っとけ。ここは、どうにかする」
必死で野島班長を押さえつけていた智史さんは、強引に野島班長を席に座らせることに成功したようだ。ノンちゃんは、呆然とその場に立ちつくしている。
松崎は、そのノンちゃんの手を取った。震える白い手首が松崎の心に、この子を守りたいという気持ちを植え付けさせるには充分だった。
「大丈夫。ノンちゃん、心配いらんで」
二人は、カウンターの隅に移動して野島班長が落ち着くのを待っていた。
しばらくして、智史さんに支えられた野島班長が二人の前にやってきた。
「すまん。酔いすぎじゃった。悪かったのー、松崎。……ノンちゃん、悪かった」
野島班長は、ふらふらしながら二人に向かって頭を垂れた。
「こいつ、泥酔しとるけー、許しちゃってくれよ」
智史さんは、野島班長に肩を貸したまま、鶴姫から出て行った。店内に、素潜りして限界まで獲物を探し続け、息苦しさに耐えられなくなって海面を目指しているときに見える穏やかな海面のような静けさが訪れる。
その時、二人は別のことを考えていた。
いつもの遊び友だちとしての話題が見つからない。
松崎が言うには、それが二人の恋の始まりだったという。
話を聞き終わった良行は、じっと二人を見つめていた。
ほんまにこいつら、結婚するつもりなんか……。
疑いの眼差しを向けていたのは、結婚という重大な決意を固めさせた二人の恋の成り行きそのものが理解できなかったからだ。
とうとう松崎のやつ、やりやがった。千里の警戒警報発令が遅すぎた。千里の同級生だというので一緒に可愛がっとったノンちゃんまで変なことになりやがった。
良行は自問自答した。
おまえ、許せるか?
だが、良行は自分の問いかけに納得がいかなかった。ここ1ヶ月ばかりの厳しい訓練を通してその意識に変化が出始めていたからだ。今まで良行だったら、松崎はいい加減なやつということだけで済ませていかもしれない。
二人の目は、良行を信頼して見つめてくる。
じゃけど、こいつら真剣に結婚を考えとるみたいじゃし、どうしたもんか…。
「おまえら、それで誰かに相談したんか?」
「ああ、一昨日の火事の日、保さんにな」
「それで、あんだけ派手にサイレンが鳴っとるのに、鶴姫で呑んどったんか」
「そういうこと」
松崎が泥酔し、保さんが酔っぱらっていたわけが初めて分かった。
「実は相談言うのは、ノンちゃんのお父さんのことなんじゃ」
「ノンちゃんのお父さん?」
「そう、おまえもノンちゃんのお父さんとお母さんが離婚しとるのは知っとろう。お父さんの方はおまえの会社で働いとって、夫婦の縁は切れとるけど、ノンちゃんとは親子じゃ。でも、お母さんはいまだにお父さんのことを一生許さん言うとる。そこで相談なんじゃけど」
松崎はそこで言葉を句切ると、ノンちゃんの作った水割りを良行に手渡した。
いやな予感がした。
佐々木法子の実父、前原さんと良行は確かに同じ職場で働いている。上司というわけではないが、良行はずいぶんかわいがってもらっている。
「まさか、オレに相談言うのは」
「早とちりするなよ。そんなことまでおまえに頼むつもりはないで。ノンちゃんとしては、お父さんに結婚式へ来て欲しいから、その気持ちを確かめて欲しいだけなんじゃ。もう、結婚したいという話はお父さんにもしとる」
「おまえらの話、そこまで進んどるんか」
良行は絶句してしまった。
たった3ヶ月足らず。開いた口が塞がらん。
「その話をしたとき、前原さんはどう言うとったんねぇ」
「黙って、そうか、言うたきり返事してくれんかった」
その質問に答えたノンちゃんは涙ぐんでいる。
どこかで聞いたことのある噂話が脳裏をよぎった。
ノンちゃんのお母さんは前原さんを一生許さない。
前原さんは、跡取り息子でありながら浮気相手と駆け落ちし、ちょうど良行が島へ帰ってきた頃、絶縁されていたノンちゃんの祖父が死んだため島へ帰ってきていた。その間、5年の歳月が流れている。駆け落ちした相手とは既に別れ、今は別の人を嫁にもらって生活していた。
ノンちゃんがぽつりと呟いた。
「お父さんは、気が弱いんよ」
そんなことワシに言われたって、どうすりゃあえんか分かるまあが。それに、急に言われたって、ワシに何かしてやれるとは思えんし、前原さんに話すタイミングも難しかろう。
3人の沈黙が続いている。
前原さんを結婚式に参加させる……。となると、良行はノンちゃんのお母さんのことが気がかりになってきた。
「お母さんの方には、この事はもう話したんか?」
二人は黙って強く頷いた。前原さんの結婚式への参加は了解済みらしい。
「反対せんかったか?」
「二人で決めたことじゃろう言うて、納得してくれた」
松崎が真剣な目つきで答えた。ノンちゃんも頷いている。
良行はその日、少しだけ時間をくれとだけ言って鶴姫を後にした。いい加減なやつだと思っていた松崎がこれまでの厳しいポン操訓練を通して身近になったような気がしてくる。良行は、松崎に頼られたことで、少しだけ誇らしい気持ちになっていた。