番号!
翌日、良行は会社の主任に皮肉を言われながら定時で会社を出た。
2年前から働いている良行には、まだこれと言った特殊技能がない。資格試験にも挑戦中だが、それだけに、荷物の搬入、移動作業といった業務の忙しくなる年末、定時で帰るのは難しかった。
「消防団に入った言うんは聞いとるが、仕事が先ど。仕事は使命感よ。責任がどんなもんか、義務がどんなもんか、よう考えよ」
昼食時、定時で帰りたいと告げた良行に返ってきた主任からの言葉だ。すぐに、別の用事があって帰りたいのだとは言ってはみたが、主任の良行を見る目つきは芳しくなかった。
画家の卵か何か知らんが、変なことを請け負うてしもうたもんじゃ。
午後からの仕事をこなしながら、良行は主任の目を気にするはめになってしまった。
良行は、冴子の言った「見せたいもの」という言葉だけが、昨夜から気になっている。
まさか、裸でも見せてくれる言うんじゃなかろうのー。
冴子が出会ったばかりの良行にそんなことをするとは思わない。しかし、そんなことを想像してみると、大原美術館で嗅いだ冴子の体臭を思い出す。その体臭は、ポン操の練習が終わって時々集まる鶴姫での話題を思い出させた。
下ネタの好きな左官屋が本職の野島班長は、こんな話しをしていた。
「こないだラブホテルの仕事をしたんじゃ。ロビーの壁をやり変える仕事なんじゃけど、今の子、すごいでぇー」
松崎がすぐに食らいついてくる。
「どこら辺のホテルですか?」
「福山に近いところなんじゃが、昼間っから高校生のカップルが堂々と入ってきよる。私服に着替えとるんじゃけど、そんなん、見りゃあすぐ分かるわ。それも、1組とか2組言うんじゃないで。たぶん期末試験か何かが終わって、息抜きに来とるみたいなんじゃ。喫茶店に入るみたいにな」
野島班長は、仕事の休憩中、空き部屋を覗いてみたことも話す。
「松崎、その部屋は、さっきまで高校生の入っとった部屋での。そこに何が落ちとったと思う?」
「どうせティッシュかコンドームでしょ」
「それがの、ピンク色のブルブル動くやつよ。わしゃあ、嫁にも使うたことがないで」
「あ~、それって、バイブレーターいうんですよ。持って帰ったんでしょ」
「バカ言え。人の使うたもんが使えるか!」
「そう言わんと、今度見せてくださいよ」
すがりついて頼む松崎に、野島班長はニヤニヤと笑ってはぐらかしている。その隣で耳をロバのようにしていた良行は、高校生とバイブレーターの取り合わせがどんなものなのか想像してみた。良行の趣味ではないが、アダルト映像よりもよほど刺激的な感じがする。しかし、その感じを通り越すと、今まで一度も女性を抱いたことのなかった良行には、真っ暗な山道を一人で彷徨っているような不安が顔を覗かせてきた。
何かが狂うとる。
定時で仕事を終えた良行は、通勤用のバイクに乗って教えてもらった冴子の家の前に到着した。玄関先にピョコンと顔を出した冴子は、嬉しそうに手を引っ張って自分の部屋へ案内する。家の中にいるらしい家族は別に気にとめる様子もないようだ。静かな家だった。
冴子の部屋は、アトリエに改装された18畳ほどの広い部屋だった。
「そこら辺にヘルメット置いて、これを見てくれる」
冴子は、アトリエの真ん中に立てかけたキャンバスのカバーを外した。
海の絵がある。
下地から滲み出す不思議な青い色、一粒一粒丁寧に描き込まれた小さな砂、水平線と海が重なる部分は海そのものの存在感を引き立てている。
「この絵、どう思う?」
「どうって言われたって、絵の事は分からんのじゃけど。綺麗な色をしとるなーくらいはね」
「私ね、これには帰るべき場所が欠けてる、と思ってるの」
良行にはさっぱり意味が分からない。
「難しい言い方するのう。帰るべき場所って?」
「この絵の居場所って意味ね」
冴子はそれ以上の説明をしてくれない。
ただ、大原美術館で冴子のつぶやいた「美しいものには必ず場所がある」という言葉と関係があるようには思った。
冴子は困惑している良行を無視してさらに話し続ける。
「この絵には原点がないのよ。私の考える海になってないような気がして」
原点?
そう言われてみると、冴子の書いた海の絵には、広い砂浜に空白感だけが強調されているようにも思えてくる。
まだ完成してないってことか。
「この絵の色、ワシはええと思うんじゃけど」
良行は、色だけに的を絞り、思いと裏腹な感想を口にした。冴子は絵を見つめて考え込んでいるようだった。
「で、昨日の話なんじゃけど、見せたいものがあるって、これのことか?」
良行の問いかけに振り向いた冴子は、いきなり棚からスケッチブックを取り出してきた。
「時間がないんでしょ。そこに座ってくれる」
命令口調になった冴子は、良行を引っ張って椅子に座らせると、すぐにデッサンを始めた。
何じゃろ、この子。ワシはまだ納得しとらんのに。
冴子は、淡々とデッサンを続ける。時々、「動かないで」とか、「海の絵の水平線だけ見て」とかの注文をつけ、その命令口調は変化しない。まるで良行が冴子に従って当然といった顔をしている。
成り行き上、良行はしかたなく冴子に従った。
ぼんやりと海の絵を見つめている。
一昨日の火事のことを思い出した。
そういやあ、保さんと呑んどった松崎のやつ、ゲロ吐き男とか言うとったのー。
張り手を食らわして椅子にへたり込んだ松崎は、いつの間にか姿をくらませ、午前4時からの撤収前にもう一度姿を現した。新聞販売店の仕事は午前2時からなので、仕事の一部を済ませて駆け付けてきたらしい。
いやな予感がする。
あの調子ぃ、保さんにも話したんかもしれん。
「ちょっと、眉を顰めないで。さっきまでみたいに普通にして、海の絵の水平線だけ見てて」
冴子が良行の思案を遮る。
何でワシがこんなことせにゃならんのじゃろ。
そわそわする気持ちが冴子から出される命令とせめぎ合って、心の中に投網をかける。からみついた網は、もがいている良行をさらに雁字搦めにしていくようだった。
やっばいのー。
眉をしかめたくても出来ない良行は、ますます不安に駆られていく。
ようやく一枚のデッサンを描き終えた冴子は、あっさり良行を解放してくれた。
冴子は玄関から出ようとした良行に、昨日見せたような甘えた表情をして話しかけてきた。
「何か考え事でもあったの?今日、デッサンしてみて、やっぱりヨッちゃんにモデルをお願いするしかないと思った。都合が付く日は来てくれないかなー」
からかわれとるんじゃないとは分かったし、まあええか、とは思った。
「言っとくけど、暇な時だけで」
松崎のことが気になる良行は、念を押したつもりで冴子に約束した。