集まれ!
千里に約束させられた日曜日がやって来た。その日はクリスマスイブの前日だった。良行は、午後になって、晴れ渡った華やいだ埴生の町を父親から借りたワゴンで集合場所へ急いでいた。
良行は、爪の中の汚れがなかなか取れないことを気にしていた。しかし、麗らかな日差しに包まれた能島は、良行の心を期待に弾ませていく。海岸通りで見かけた老漁師たちは、豊漁だったのか、その深い皺に笑顔が刻まれていた。その和やかな風景は、ポン操訓練とは違う別世界を予感させるに充分だった。
爪の汚れた理由を思い出す。
この日の零時過ぎ、借りてきたアダルトを見ようとしていた良行に、電話が掛かってきた。
橋本班長の声だ。
「公園下の住宅で火事じゃ。すぐ来いよ」
今日も、ポン操でこってりしぼられとるのに、火事かよ。
本署のサイレンも微かに聞こえてくる。起き出してきた母の由恵が良行の団服を用意してくれている。妹の円佳も良行の作業靴を玄関先に揃えてくれていた。
「慌てんで、気ぃつけて行ってこいよ」
OBの父、勝俊が慌てて作業靴を履く良行に声をかける。
一瞬、レーザーデッキに入ったままになっているアダルトが気になったが、もう腹を決めて開き直るしかない。
「行ってくるわ」
玄関先に家族が勢揃いしている。玄関を出ると、二台目、三台目の緊急自動車がけたたましいサイレンを響かせて近くの幹線道路を通り過ぎて行った。良行はガレージに直行すると、愛車のキックを勢いよく蹴った。
バイクをガレージの中で後退させていると、道端に飛び出してきた千里が目に映った。
「ねぇ、どこどこ」
野次馬は引っ込んどれ。
無視して、バイクのアクセルをふかす。冷え切ったバイクは、なかなかエンジンが暖まらずにボコボコと不平を言う。チョークレバーを引いて急発進しようと思ったが、エンストしてしまった。
すかさず千里がにじり寄ってくる。
「ねぇ、今日の合コン、忘れてないじゃろうね」
何じゃこいつ、合コンのこと気にしょったんか。
「火事は公園下。合コンは忘れとらん」
良行は言い切ると、再始動させたバイクを急発進させた。フロントが浮き上がって、数メートルもウイリーしてしまった。
幹線道路に出ると、公園下方面から赤黒い光りが見える。風はないようだったが、幹線道路には火事を確認しようとする大勢の住民が寝間着姿で出てきている。
カーブに差しかかると、膝を擦りつけるようにして突っ込んでいく。現場が近付いてくると、パトカーが周囲の警戒に当たっているようなので、良行は少しだけスロットルを弛めた。現場が見えてくると、火事の炎は住宅街をシルエットにして勢いを増しているようだった。
到着した現場では、消火栓からホースが伸び、常備消防のポンプ車からは幾つものホースが延長され、慌ただしく本署の職員がレシーバーで連絡を取り合っている。現場近くで警戒に当たっていた警察官は、団服を着ていた良行を見ると敬礼して通してくれた。
良行は埴生分団の積載車を探した。
現場には、能島市全域から消防団がぞくぞくと集まって来ているようだった。
久し振りの大火に町は震えている。
火事は集合住宅で発生し、かなり規模が大きいようだった。現場周辺には大勢の野次馬が詰めかけて騒然とした雰囲気に包まれている。
ゆっくり徐行して所属の積載車を探していると、あまり訓練に参加して来ない古株の石橋さんがホースを延長している場面に出会した。
「うちのはどこです?」
「一ノ城分団の横よ。分団長は今、団本部に呼びつけられとる」
延長されたホースは所々で水漏れしている。石橋さんは、その水を浴びながら良行に答えた。延長されたホースにはかなりの水圧がかかっているようだった。
石橋さんは火事になると姿を現す不思議な人だ。当人はいつも「消防命」と言っているのだが、消防団活動は火事現場に限るとでも思っているのだろうか。
埴生分団の積載車を見つけると、すでに現場近くに住む大谷と植野部長が到着していた。
「ヨッちゃん、消火栓が壊れとるんじゃ。こっから海は遠いんじゃけど、海から水を揚げるしかなさそうじゃ。ホースが足りんけー、屯所まで戻って準備しとってくれんか」
良行は、植野部長の指示で、来た道を屯所へ引き返しながら現場の様子を眺めた。
ヘルメット越しに合板が燃える刺激臭が鼻につく。現場から、ボンッ、ボンッ、と何かが破裂するような音が響いてくる。被災しているらしい住民が寝間着姿のまま呆然として立ちつくし、その横を次々と到着した各地の消防団が通り過ぎていく。
良行は屯所に到着すると、ありったけのホースを屯所の前に出した。
ホースを出し終わって積載車の到着を待っていると、そこに松崎と保さんが現れた。どうやらどこかで飲んで来たような雰囲気だが、団服だけはしっかり着込んでいる。訓練終了後、鶴姫へ行ったに違いない。
「副分団長殿、積載車が見当たりません」
「他に報告は!」
「ゲロ吐き男がいます。こっちを睨んでます」
「よーし。こっちへ連れて来い!」
酒臭い息をして松崎が近付いて来た。
「副分団長殿がお呼びだ。ゲロ吐き男、こっちへ来い!」
何を遊んどんね。
襟首を掴もうとした松崎に、良行は一発張り手をお見舞いしてやった。
「おいおい、冗談よ。本気にすなや」
張り手で怯んだ松崎は、弱々しく良行を見つめた。その様子を見ていた保さんが近付いてくる。
「ヨッちゃん、そう興奮すな。今から現場へ行くから、てごうしてくれ」
保さんは、正気に返った目つきで良行に話しかけてくる。「てごう」というのは、能島の方言で「手伝い」という意味だ。どうやら、保さんだけは戦力になりそうだった。しかし、張り手を食らった松崎は、へなへなと屯所のガレージに置かれたパイプ椅子に腰掛け、首をグリッと回して目を閉じてしまった。
「大丈夫ですか、保さん」
「しゃあない、大丈夫じゃ。それにしても、これも例の連続放火事件と関係あるんかのー」
保さんは屯所の中から団のヘルメットを探し出すと、良行に現場へ向かうよう指示した。連続放火事件とは、秋期査閲に入る前から能島市の各地で不審火が増えたことを指す。
「ダメですよ。今、現場の指示で、ホースを出すように言われて用意したばかりなんです。もうすぐ、うちの積載車が来ますよ」
「分かった分かった。ここで待ちゃあえんじゃろ」
保さんは、ばつが悪そうにその場で突っ立っている。
屯所に積載車が到着し、元の持ち場へ戻って現場から近い海岸にホースを延長させ、海水を放水してしばらくすると、やっと火勢が弱まったように感じられた。不幸中の幸いで、集合住宅の火事は一棟3軒を焼いただけで済みそうだった。しかも、行方不明者はいない。もし行方不明者がいたとしたら、火事が完全に鎮火してから現場内で捜索を開始することになる。たいてい鉄の棒などを持ち、まだくすぶっている現場の残土の上からその棒を突き刺して不明者を捜すという作業が入る。行方不明者がいないことは、それだけ作業が短時間で終わることを意味する。
火勢はどんどん落ちて、午前一時半を回った時点で火災は完全に鎮火した。それまで夜空を焦がしていた紅蓮の炎は、嘘のようになりを潜めている。火事現場特有の焦げ臭く饐えたような匂いだけが静寂を取り戻した現場に漂っていた。公園いっぱいに詰めかけていた野次馬も、三々五々と後ろ姿を見せていく。残火処理が始まると、現場周辺には、被災者の家族だけが肩をすくめて作業の様子を見守っていた。その後方では、資器材を回収して引き上げていく他分団の団員たちが疲れ切った表情を見せている。
再出火を警戒するため、埴生分団が現場に副分団長の保さんと植野部長、橋本班長、それに大谷の四人を残して撤収を開始したのは、午前四時を回っていた。疲れ切っていた良行は、自宅に帰り着くと、シャワーを浴びてすぐに床についた。
アダルトCDのことはすっかり忘れていた。
昼近くになって起き出した良行は、親父からワゴンのキーを受け取った。
「おい、デッキに入れっぱなしじゃったぞ。ワシが気付いたからよかったけど、お母ちゃんや円佳に見つかっとったらどうするんね。慌てるな、言うたろうが」
舌打ちをした良行の頭に軽く拳骨を入れた親父は、なぜかご機嫌そうだった。
信号待ちで、ハンドルを握っている手を見た。撤収作業で爪に入り込んだ汚れが、親父の拳骨を思い出させる。
もしかしたら、今日はついとるかもしれん。
なぜかそんな予感がした。こんな予感は、良行が以前、関西で務めていた会社が倒産して以来だった。少子高齢化で過疎化が続く能島市の実家に良行が帰ってきたのは二年前のことだった。千里の父、叔父の薦めで今の会社に入ってからというもの、良行の賽の目は逆目続きだった。何となく千里に頭が上がらなくなった理由もその辺りにある。
合コンの集合場所に到着すると、すでに千里とその友人3人、それに小学生以来のポン友3人が揃っていた。ポン友というのは、日本酒の「本」を取ったもので酒飲み友だちのことを指す。
漁師の倅、英次。造り酒屋の跡取り息子、敏明。料理屋の跡継ぎ、敦。それぞれ名前だけで呼ぶのは、これも能島に同じ姓が多いためで、英次は村上、敏明は岡野、敦は宮地という姓だったからだ。
車は、良行の乗ってきたワゴンだけでは足りないから、料理屋の敦がもう一台の普通車を用意している。
「おまえ、昨日、大変じゃったろうが」
造り酒屋の跡取り息子、敏明が、心配そうに声をかけてきた。すかさず千里が説明する。
「ヨッちゃん、消防団に入っとるんよ。昨日は公園下で火事があって出動しとるんよねー。でも、ちゃんと約束だけは守ってくれたんだ」
「はいはい、約束はきちんと守りますよ」
木で鼻を括ったように応対した良行だったが、千里は、合コン仲間の女の子3人に昨日の良行の活躍を話して聞かせ花を持たせてくれていたようだ。
アメとムチの使い方がだんだん上手になっていくような気がする。こんなやつを嫁にもらったら、それこそ一生の不覚だろう。
合コンのスタートは福山市内から、ということになっていた。そこでボーリングして、軽く食事をして、少し足を伸ばし、千里が後からリクエストしてきた倉敷まで行く予定になっている。どうしてリクエストが倉敷なのかは分からないが、このコースを考えたのは良行だった。自営業のポン友たちは忙しすぎて遊びの企画まで考える暇がない。しかし、この三人が揃うと最強だった。酒のあてを漁師の息子、英次が新鮮な魚を用意し、料理屋の息子、敦があての材料を捌き、酒屋の息子、敏明が自慢の樽から酒を盗んでくる。英次の秘密基地、漁師小屋は、四人の格好の隠れ蓑になっていた。ただし、この事は松崎には教えていない。四人とも調子ぃの松崎には愛想を尽かせていたからだ。
合コンは順調に進み、最後の目的地、倉敷の美観地区に到着した。
良行が千里から紹介された女の子は、高校時代の元クラスメートだとかいう秋本冴子だった。
いつもストライクゾーンを外す千里にしては、目一杯コース中央に直球を投げてきたような感じに思える。秋本冴子は、一見大人しそうだったが、結構社交的で、倉敷までのドライブ中、良行が打ち解けて話せるような雰囲気を作ってくれた。
待ち合わせ時間を決め、美観地区で別れようとしたとき、敏明にくっついてデートを楽しむつもりの千里が良行に近付いてきた。
「ヨッちゃん、頑張らんと」
また、余計なことを。
キャンプで千里と気のあっていた敏明も満更でなさそうな雰囲気をしている。
おまえ、本気かよ。
従姉妹の結婚相手としての敏明を想像してみると、ちょっと可哀想な気もしてくる。気の良い奴だけに、すぐに尻に敷かれてしまいそうだ。
こりゃあ、いつか忠告しとってやらんといけんの。
良行は、腕を組んで美観地区へと消えていく二人を潮流の早い大潮の時期にゴムボートで釣りに出かける無謀な釣り人を見るような目で見送った。しかし、その気持ちも次の瞬間には戸惑いに変わった。美観地区の入り口付近に取り残された良行は、秋本冴子と二人だけになったことに気付いたからだ。
どうすりゃあえんじゃろう。
良行には、きっかけの言葉すら浮かばない。
ところが秋本冴子は、二人きりになるといきなり良行の腕に自分の腕を絡めてきた。冴子の甘い体臭が良行の鼻腔を刺激する。
「ヨッちゃん、でいいんでしょ。私のこと、サエでいいよ。私らも早く行きましょ」
良行は、どぎまぎして冴子を見ている。晩生の良行は女性に不慣れだった。
「じゃあ、そうしようか」
やっと喉に支えた言葉を絞り出すと、良行は冴子をエスコートして美観地区へ入って行った。
「何か見たいものでもある?」
倉敷の町にあまり興味のない良行は冴子に問いかけた。
「私が見たいのは町並みじゃなくて、美術館。ゴーギャンの絵は神秘的で好きよ」
「そうなん、ボクは絵のことはよく知らんけど、結構詳しんじゃね」
「そうでもないよ。絵が好きなだけ」
絵が好きなだけ、か……。
二人は、美観地区の入口付近にある大原美術館へ向かうと、入場券を買ってすぐに本館2階に展示してあるゴーギャンの絵の前へ急いだ。絵の前で立ち止まった冴子は、良行に絡めた腕を離して、一人でじっとその絵だけを見つめている。極彩色のトカゲのような鳥が黒髪の裸婦の側で飛び回っている、良行にとっては奇妙な絵だった。題名は「かぐわしき大地」とある。
「美しいものには必ず場所がある」
冴子はその絵を見つめてつぶやく。
もしかして、神秘的ってやつはこういうことか?
良行にはちょっと理解できない世界だった。良行は飽かずに眺めている冴子が満足するまで待つしかない。良行の目に止まったのは、ウージェーヌ・カリエールの「想い」だった。その絵を見た以外、良行は所在なげに辺りの絵を見回しているだけだった。
冴子がようやく「かぐわしき大地」から目を離し、再び歩き出したときには、他に見たい絵はなさそうだった。
なんで、あの絵に拘っとるんじゃろうか。
そんな思いが不思議にまとわりついてくる。
ふいに冴子が話しかけてきた。
「ヨッちゃんて、あんまし喋らんのじゃね」
「そんなことないよ。こういう所へ来たことがないんで、ちょっと緊張しとるんかもしれん」
少し間をおくと、冴子は急に立ち止まった。そして、良行の顔を不思議そうにまじまじと見つめてくる。
「緊張?」
冴子は、可笑しそうに笑い出した。別にバカにしているわけではなさそうだったが、楽しくもない。
「何で笑うんよ」
わけが分からん。
冴子はようやく落ち着いても、まだ可笑しがっている。
「だって、うけたもん」
「うけた?」
こいつ、千里と組んでオレをからかこうとるつもりか?
「そうね。大好きな料理の前でガチガチに緊張している自分を、ちょっと想像してみて」
冴子は、想像力を働かせて欲しいと目で訴えているようだった。
何を想像すりゃあええんね。
目を閉じ、冴子に言われるまま、好きな食べ物を思い出そうと試みた。
良行は埴生のお好み焼き屋で、今まさに、豚玉を食べようとしている自分を想像してみた。
なぜか、貴賓に会った時のようにガチガチに緊張してお好み焼きを食べようとしている自分がそこにいて、その目の前には、いつもバカばっかり言って笑わせる陽気なエダヤのおばちゃんの、くしゃくしゃの顔が脳裏に飛び込んできた。その奇妙な光景に、良行は思わず目を開けた。
「変なこと、想像させるなよ」
「変?それで、どんなこと想像したの?」
「もう笑らわんか?」
「約束する!」
「埴生の町のエダヤってお好み焼き屋、知っとる?」
「知ってる、知ってる」
「豚玉を食べようとしているボクの前で、そこのおばちゃんの顔が、ドアップで頭の中に飛び込んできたんじゃ」
笑わないと約束したはずの冴子は、弾けるように再び笑い出した。しかも今度は、目に涙を溜めながらお腹を抱えて笑っている。
「ヨッちゃんて、最高!」
何が最高なんじゃ。笑わん言うて約束したのに。
「こういう人、好きよ」
良行は戸惑っている。しかし、自分でも意味が分からないまま可笑しくなってくる不思議な感覚に、思わず口元がゆるんできた。それは異性の冴子から、ふいに「好きよ!」と言われたからだけではなかった。
こいつ、変なやつじゃ。
それは、自分に対して思ったのか、冴子に対して思ったのか分からなくなってきた。
「ねっ、ヨッちゃん。今度、ヨッちゃんをモデルに絵を描かせてくれない?」
「絵?」
「そう、ヨッちゃんの絵。こういう人、探してたんよ」
「ボクの絵って、急に言われてもな。でも、ボクなんか描いてどうするん?」
「面白いじゃない。ヨッちゃんて最高よ」
やっぱり、こいつ、千里と組んでオレをからこうとるんか?それに、絵ってなんじゃろ。
「ねっ、モデルになってよ。お願いだから」
冴子は引き下がらない。
良行は自分が絵のモデルになることなど想像もできなかった。しかし、冴子は手を合わせて真面目に頼み込んでくる。その目は真剣だった。
こいつ、何者なんじゃ。千里のやつ、選りに選って、変わった子をまた紹介してくれたもんじゃ。
「ねえ、ねっ。頼むからお願い!」
「急にそう言われてもなー」
「じゃあ、明日、私の家に来て。見せたいものがあるから」
「明日って、それに見せたいって、何を?」
「それは、来たら分かるよ。ヨッちゃんの都合のつく時間に合わせる」
強引なやつじゃなー。
良行は、しぶしぶ定時で帰って、その足で冴子の家へ行くことを約束させられた。会社の方は年末まで工程が詰まっているので、もし残業だったら諦めてくれと冴子には念押しておいた。
千里の企画した合コンは、何事もなかったかのように、福山で食事をすませると終了した。車に乗せて全員を家に送り届けると、最後に残った千里がガレージの前で良行に話しかけてきた。
「サエって、面白いでしょう。あの子、画家の卵なんよ。知ってた?」
道理で絵に詳しいはずだ。ゴーギャンの他に見たい絵がなかったのは、きっと他の絵を見慣れていたからに違いない。それにモデルにしたいと言ってたからには、ただ絵が好きなだけじゃないとは何となく思っていた。
「面白いと言うより、変わっとる。おまえ、どうしてそのこと話さんかったんね」
「リクエストしたでしょ。普通、合コンで美術館なんかへ行くって言ったら、どう思う?」
「じゃあ、リクエストしたんはサエちゃんか?」
「決まっとるじゃない」
良行は、まんまと千里に利用されていたことに気が付いた。
「それより、ノンちゃん、この頃おかしんよ。松崎のアホに注意しとって……。話したかったのはそれだけ」
千里はそれだけ言い残すと、向いにある自分の家の中へと消えていった。千里を見送ってガレージの隅を見ると、当分忙しくて乗れなかったホンダのCB400が埃を被っている。ロードタイプのバイクが一台欲しかった良行は、ツーリング向きに作られたこの4サイクルのバイクが欲しくなり、今の会社に入って一年を過ぎた頃に購入した。このバイクは通勤用にナンバープレートを取得して走らせているトライアル車と違って、仕事の忙しくなった良行には乗る機会があまりない。良行は、ふいに、大原美術館で見た「想い」という絵がCB400と重なって、愛おしく思えてきた。
良行は、CB400の埃だけをウエスで丁寧に落とすと、自宅の風呂へ直行した。
見せたいもの、か。
湯船に浸かった良行は、冴子の言った意味をぼんやりと考えていた。