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操法開始

 ポン操の訓練が始まって三週間経った。訓練は、日曜日以外は原則毎日で、最初の一週間、ポン操要員は正式なポン操の流れを覚えるだけで精一杯だった。二週間目が過ぎる頃になると、ようやく一通りの流れはつかめるようになってきた。その頃になると、秋期査閲で大会出場を承諾させられるきっかけを作った寺崎さんも責任を感じているのか顔を見せるようになってきた。寺崎さんは差し入れなどして埴生分団の活動をいつも支援してくれる。

 会社帰りに愛車を走らせていた良行は、ヘルメットのシールドに白い埃のようなモノが舞い落ちてくるのを見た。それはだんだん視界の中で増えていくと、シールドを突き上げてくるように変化し、後方へ吹き飛んでいく。

 雪じゃなぁーか。

 瀬戸内海の中心部にある能島市で12月初旬に雪が降るのは珍しい。

 訓練、あるんかの?

 良行は信号待ちの車の脇をすり抜けて停止線の一番前に出る。雪の舞う日没後の能島市の中心部、埴生の町は、不景気のせいもあってよけい薄ら寒く見える。ちらつく雪の中を急ぎ足で行き交う人々を見ていると、何の因果で今日もポン操の訓練をしなければならないのかと良行は思う。

通勤帰りの車は、降り出した雪のせいもあって、混み合ってきているようだった。

 良行が自宅へ帰り着くまでの間にも雪は降り続いた。

 ガレージの屋根から解けたばかりの雪の冷たい水滴が落ちてくる。センサーライトに照らされて愛車をガレージに止めようとすると、屋根からしたたり落ちてきた水滴がヘルメットに当たり、首筋へ伝わってきた。

 愛車を定位置に止めると、良行は胴震いしてヘルメットとグローブを外した。

「あー、何かくそっ、イヤな予感がしてきた」

 良行の独り言が狭いガレージの中で響く。

 良行がガレージから出ようとすると、寒そうに両手をこすり合わせ、足を小刻みに足踏みさせながら三島千里が近付いてきた。

 イヤな予感の正体は、これか。

「何ねー、何か話でもあるんか」

 小さい頃からの付き合いで、こいつがこんな時に姿を現すとろくなことがない。

 三島千里は、降り続ける雪を避けるようにガレージの中へ入ってきた。

「あのね、ヨッチャン、相談なんじゃけど。再来週の日曜、合コンせんかねー。女の子は人数が足りとるし、合コンしようって決まったものの、実は相手がなかなか見つからんのよ。クリスマスも近いし、どうかなーって」

 千里の奴、この頃妙に色気づきやがって。オレはそれどころじゃないんど。ポン操が待っとるんよ、ポン操が。

「そう言やあ、今年の夏、ワシらのキャンプに来たろう。もしかして、あいつらか」

 良行は、同級生四人で、今年の夏、大久野島でキャンプしたときのことを思い出した。大久野島は、第2次世界大戦の時、日本軍が毒ガス製造をしていた島だ。

「地図から消えた島」

 4人は、この島のキャッチフレーズが気に入っていた。良行以外の連れは町で商売をしているため、なるべく見知った人間に出会わない場所を希望していた。そのため、人目に付きにくいキャンプ地を探した結果、このキャッチフレーズが気に入って大久野島でのキャンプが計画された。……はずなのに、なぜか千里のグループに見つかってしまい貴重な一日を台無しにされた経験がある。

「そうそう、よう覚えとったねー」

「そらぁ覚えとるわ。あいつらか……」

 女の子が来たというので、他の奴らは鼻の下を伸ばし、そのせいで良行は夕食の準備から後片づけまで、たった一人でしなければならないはめになったのだ。

 新聞を丸め、固形燃料を使って、慎重に備長炭に火を点ける。他の誰にも注目を浴びないまま、バーベキューの準備は整った。

 何でワシがこげーな所で縁の下の力持ちせをにゃあならんのね。

 パチパチと弾ける備長炭の炎が瀬戸内海の夕日とコラボレーションしている。良行にとっては空しく、磯の香りが潮風に乗って食前酒の香りのようにバーベキューを盛り上げてくる。良行に注目しているとすれば、一日の漁が終わって引き上げていく漁船のシルエットくらいだった。

 しかし、良行は、親友と一緒にその美しい景色を眺める時間を奪われた。

「あの時は悪かったわ。後で聞いたら、ヨッちゃん、一人で食事の準備と片付けしたんじゃろ。でも、他の人は喜んどったじゃない。あの人ら合コンに誘えんじゃろうか」

「そんなら、松崎のアホでも連れて行っちゃろうか」

「あれはダメ、問題外。その代わり、今度は取って置きの女の子を紹介してあげるから」

 こいつの言う「取って置き」は信用できたもんじゃない。大学時代にも前科がある。美人だから付きあえと進められた女の子は、千里にとっては美人に見えても、良行にとってはストライクゾーンを大きく外れていた。

「今、消防団でたいへんなんじゃ。悪いがおまえに付き合うとる暇はないで」

「へー、ヨッちゃん、そんな冷たいこと言うん。これはノンちゃん経由で仕入れた松崎のアホの情報なんじゃけど……」

 松崎!そのキーワードに良行は慌てた。

「何ねー、何を知っとる言うんね」

 まさか、あのまるバカ、あらぬことを喋ったんじゃなかろーのう。

「ヨッちゃんて、昔からすぐ顔に出るんよね。あのことよ、あ・の・こ・と」

「たはーっ、松崎の奴。ええ加減なこと、しゃべりやがって」

 その日、訓練が終わった団員たちは鶴姫で飲んでいた。先週までの1週間なら通しで三回もすれば終わる訓練に、どういうわけか仲野県指導員が来ていたのだ。そのため、通しの訓練は、ぶっ続けで5回も行われ、ポン操要員は足がつるほど疲れ切っていた。橋本班長から聞いた話では、仲野県指導員は週3回訓練に参加してくるらしいのだが、たまたま先週は出張が入っていたことが分かった。

この日、訓練終了後の飲み会で、良行は普段より酔いの回りも早く、さんざん飲んだ勢いも手伝って、ある悪事を実行してしまったのだ。

「ちょっと、ゲロしてくるわ」

 良行は一人、店の外へ出た。

 押して帰るつもりだった愛車が見える。

 今日の厳しい訓練を思い出した。

「か、か、火点は、ぜんぜん前方の標的…」

 橋本班長は、何度やっても隊員に指示を出す場面で吃ってしまう。別に橋本班長が吃りというわけではないのだが、久し振りに仲野県指導員の顔を見て緊張しているようだった。不本意に吃ってしまうたびに、気合いを入れようと平手で自分の頬を叩く。

 どうやらこの行為が仲野県指導員のカンに触ったらしい。

「その場で聞いて欲しい。競技中はたとえ靴底に釘が刺さっても、あっとか、うっとかは勿論、余分な動作をしちゃあいけん。橋本君、それぐらいは知っとろうが。他のみんなも節度を体で覚えんといけん。意識せにゃあ、意識を」

 指摘された橋本班長は、唇を噛みしめて、グッと我慢している。

 分かっとることを、ねちねちと。

 その時の、上から見下ろすような仲野県指導員の顔が、吐き気を催した良行の脳裏に鮮明に蘇ってくる。

気が付くと、良行は山を越えた隣町の鏡庄へ向かっていた。ミカンの収穫で忙しい農家が路傍にコンテナを放り出している夜道を走る。そのコンテナを避けるためか、ハンドルを振らつかせたつもりはないのに、勝手にバイクが蛇行運転する。

 もう我慢の限界じゃ。

 仲野県指導員の顔がシールドに刻み込まれていくようだった。

 温暖な能島でも南北を縦走する奥山の峠を越えると5度は気温が下がる。しかし、寒さは気にならない。鏡庄の道へ出ると、仲野県指導員の自宅はすぐに分かった。良行は人気がないのを確かめると、大胆な行動に出た。

 仲野県指導員の見慣れたカローラがある。ドアは開いていた。虚ろな目にシートが映った。体は、ゆらゆらと、海水浴場の海藻のようにゆれている。シートから漂ってくる強い香水の匂いも手伝って、良行は思いっきり、そこに嘔吐した。

 作戦完了。

 塩水を鼻から飲んだときのように後頭部がじんじん痺れる中、くつくつとした笑いがこみ上げてくる。

 帰り道は早かった。

 鶴姫のドアを開け、何事もなかったように席に着いた良行は、隣の席で酔っぱらっている松崎に絡まれた。

「どこ行っとったんね。見に行ってやったら、おらんかったじゃなぁーか」

「ちょっと、ゲロ吐きに行っとっただけじゃ」

 不機嫌そうに松崎を見た良行は、興奮しているように松崎には映ったのだろう。松崎は良行から見ればアホだったが、妙に感だけは鋭い。小声で良行を問いつめてくる。

「そういやあ、単車がなかったのー」

 ねちねちとした松崎の視線が良行にからみついてきた。

「知らんわ、そんなこと」

 その日は、松崎にそれ以上深く追求されることはなかった。しかし、二日後、訓練が終わって別れ際に良行と二人きりになると、唐突にこんな事を話し出した。

「久し振りに営業へ行ったんじゃ。鏡庄の営業での」

 チラッと睨む松崎の目には、確信めいたものがあったに違いない。

「何軒か回って、仲野県指導員の家へ行ったんじゃ。奥さんはええ人でのー。一年契約でカード切ってくれたわ。その奥さんがの、昨日の朝、車を見たらシートの上にゲロされとるのを見つけたんじゃそうな。まあ、そんだけのことで、何でもないんじゃけどな」

 良行の体は、採り立てのサザエの刺身のようにカチカチに固まっていく。

「ほー、そがーなことがあったんか」

 平静を装った良行は、松崎の目を見た。

「おまえ、やりすぎよ。もしばれたら大変なことになるで」

「何の事ね」

「ほー、とぼけるんか、まあええけど。ワシも、あいつには腹を据えかねとるけー、何も言わんけど、気ぃつけよ。言っとくけど、奥さんはええ人で」

 良行は目眩がしそうになった。

 この口軽のまるバカに、ヒミツを知られてしまった。

 あれから一週間、松崎は沈黙を守り続けている。

「そう言うことよ、ヨッちゃん。合コンのセットもお願いしようかね。とぼけても無駄よ」

 良行の腹の中まで見透かすような千里の微笑みは、すでに拒絶しようのない立場に良行が追い込まれたことを暗示している。

「分かったわい。セットすりゃあえんじゃろ、セットすりゃあ。ほんで、いつがええんね」

「やっぱり動揺しとる。天網恢々、何とかかんとかで、悪事はすぐばれるんじゃけ。再来週の日曜日だって言ったじゃない。リクエストがあるときは、連絡する」

 こいつは悪魔だ。妹のように可愛がってやった恩を忘れて、仇ばかり返してきやがる。

 千里は、幸福そうな顔をしてガレージから出て行った。がっかりとうなだれて良行がガレージを後にすると、庭の植木はすっかり白い帽子を被っていた。

 良行は、頭を振りながらため息を吐いた。この日の訓練は悪天候のため、訓練始まって以来の臨時中止になった。

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