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別れ!

 大会を迎える朝がきた。瀬戸内海気候特有の飛び込んでいけそうなほどの抜けるような青空が広がっている。気を引き締めて作業靴を履き、良行は玄関を飛び出していった。

 その背中に声が掛かる。

「慌てるなよ。頑張ってこい」

 勝俊の声だ。由恵も円佳も良行を見送っている。

 おまえが能島へ帰ってきたときは、これからどうするつもりなんかと思よったけど、知らん間に頼もしゅうなってくれたもんよ。

 勝俊は、息子の背中に未来が見えたような気がしていた。その隣では由恵が嬉し涙を浮かべて息子の背中を見送っている。

 あの子、いつの間にか、うちらの手から離れて……。

 良行には、その気持ちが痛いほど伝わってきた。円佳も、じっと良行を見つめている。

 お兄ちゃん、見違えるようになって。能島へ帰ってきた頃が嘘みたい。

 円佳は、逞しくなった兄の背中に強い意志を感じ取っていた。

 良行は、その背中に家族の絆を感じ取っている。

 ワシは、去年までのワシじゃない。

 良行は、後ろを振り返って手を振った。勝俊は敬礼している。由恵は、大きく手を振って良行に応えていた。円佳は、両手をメガフォンの形にして、

「お兄ちゃん、絶対に勝ってよ。応援しとるけねー」と気合いを入れてくる。

「よし、分かった。期待しとってくれ」

 良行は、思わずガッツポーズを作って、家の前の道路へ出た。そこには、いつもと少しも変わらない風景がある。中天に輝く太陽は、勢いよく快晴の空へ駆け上っていくようだった。そのエネルギーが良行の闘志に火を点ける。

 冴子の好きなゴーギャンの言葉を思い出す。

「美しいものには必ず場所がある」

 良行は、この日を迎えて、この言葉の真の意味を実感していた。

 屯所へ向かう道すがら、良行は、平穏なこの町の景色が新鮮な装いを凝らしているように思えてきた。

たばこ屋の陰から見える神社の佇まい。狭い幹線道路沿いに折り重り山手へ向かって立ち並んでいるこの町の込み入った町並み。海岸通りでは、お年寄りが買い物カートに寄りかかるように立ち話をしている。潮風の匂いを送り込んでくる対岸の島には、芽生え始めた植物の息吹が感じられる。

 確かにそこには、それぞれの居場所がある。この町が新鮮な装いを凝らしているように見えたのは、良行がこの場所に真の居場所を見いだしたからに違いない。

 屯所が見えてくると、その景色は一変した。

 埴生分団のいつもの面々は、生き生きとした表情で準備を進めている。仲間同士の笑顔が目映い。

「おう、ヨッちゃん、来たか。松崎も大谷も、もう来とるでぇ。こっちの方は、装備の準備もバッチリよ。気合い入れて行こうで」

 指導員の野島班長が良行の肩をポンと叩く。

 松崎が近づいてきた。

「今日は、すごいでぇ。何人集まったか知っとるか」

「知らんけど、そんなにすごいんか?」

「それがの、フフフンよ……」

 悪戯っぽく松崎が笑う。

「おまえ、たち悪いぞ。早う教えや」

「そう、せっかちになるなや。……30人じゃ。言っとくけど、幽霊団員は一人もおらんで。奇跡的に全団員が集まったんじゃ」

 良行は、屯所の周囲を思わず見回した。今まで見たことのない団員や、職場ですれ違っても団員だったとは知らなかったメンバーさえ加わっている。

「よう、集めたのー」

「ほらほーよ。どんだけ走りまわったか」

 松崎が自慢していると、その背後に石橋さんが回り込んでいた。

「グッ、グフフッ。止めてくださいよ、石橋さん」

 松崎は、石橋さんに羽交い絞めにされ、脇腹をくすぐられている。

「松崎!ぜーんぶ、お前がやったみたいな言い方しとるじゃなぁーか。言葉には、気を付けよ」

「分かりましたっ。だから、選手の体力を、消耗させるようなことは止めてくださいよ」

 やっと開放された松崎は、それでも満更でなさそうに石橋さんを見ている。

「前日まで、団服も揃わんかった奴もおって、本署へ行くやら、隣の内海分団へ行くやら、一之城分団や窪田分団にまで声をかけて、やっと団服を集めたりして、そりゃあ大変じゃったんでぇ」

 石橋さんは、一つの事を成し遂げた自信に満ち溢れているようだった。

「それだけじゃないで、石橋っ」

 積載車の横から姿を現した植野部長が石橋さんの肩に手を置く。

「昨日の晩、未参加の団員に、埴生小学校のグランドに来てもろうて、即席で基本動作の訓練までしたんじゃ。今まで活動から離れとった奴も、納得ずくで訓練してくれてのー。今日は、ビシッと決められるでぇ」

 植野部長は、保さんに異議を唱えたものの、「やる時は、やる!」と宣言した大崎分団長の意気込みに必死で応えようとしてきた。

 保っちゃんに言われたとき、そがーなことできるわけがない、と思うた。どう考えたって不可能。

 何が、できん理由を考えたってしょうがない、じゃ。

 しかし、まさか大崎分団長が、

「やる時は、やる!」ちゅうて、あんな風に言うとは思わなんだ。

 それでええんか?

 できん理由を並べて、尻尾まいて、あの出初め式のような屈辱を繰り返してもええんか?あの時の三島や松崎の気持ちは痛いほど分かっとった。

 その日、家に帰って嫁に言われた。

「ええ好きの皮。あんた、どうせなら、とことんやったところを、うちらに見せてみない」

 バカにしやがって。

 そう思う自分が悔しかった。

「まぁ、これも、あの橙顔と保っちゃんに引っ張られたお陰よ」

 植野部長は、保さんと打ち合わせをしているらしい橋本班長を指差した。いつもの屯所が狭く感じられる屯所前で、二人は大勢の団員を背景に大きな存在感を見せつけている。その時、二人は、打ち合わせが終わったのか、握り拳をお互いに軽くぶつけ合って、それぞれの持ち場へ戻っていくようだった。

「そろそろ、集合でぇ」

 石橋さんが屯所から出てきた大崎分団長を見て呟く。石橋さんは、心なしか緊張しているようだった。大崎分団長の後に続いて保さんも屯所から顔を出してきた。

 その時、大谷の携帯電話に着信が入った。

 大谷は、耳をそばだてている。

「えっ、陣痛が始まった?」

 大声を出した大谷は、絶句している。「集まれ!」の号令を掛けようとしていた保さんは、思わず大谷の側へ駆け寄った。

「陣痛じゃあ?大谷っ……」

 大谷は、携帯電話をポケットに仕舞い込みながら、天を仰いだ。

「今すぐ生まれるわけじゃないですよ。大会へは、勿論、出ます」

「ほんとに、大丈夫か?」

「出るな言われても、今更、補欠の野島班長に席を譲るわけにゃあいかんでしょう」

 大谷は、ニヤッと笑って打ち合わせに戻ってきていた野島班長を見た。

「ワシゃあ、さっき、息が止まったで」

 野島班長は安堵の表情を浮かべている。その隣で、橋本班長も安堵の表情を浮かべていた。

 いよいよ始まったか。安産を願うしかないけど、ようあれから持ち直してくれたもんよ。

 橋本班長は、尾道の病院で買ったばかりの洗面道具を持って悄然と歩いていた大谷の姿を思い出していた。トッちゃんの容態が、大谷の手がけた仕事の手助けをした日から、次第に持ち直していったことも思い出す。今では尾道の病院を退院し、自宅で療養できるまでに回復していた。

 大谷の前に大崎分団長が立った。

「花が咲くときは、一斉に咲くもんよ。トッちゃんも勝負しとる。おまえも勝負して、花を咲かそうで」

 大崎分団長は、大谷の目をしっかりと見据えている。

 保さんは、その言葉を聞くと、屯所前の広場へ駆けだした。

「集まれ!」

 号令は、屯所前の小学校の校庭を通り越し、小高い丘まで響き渡って木霊したように聞こえた。

「ウォー!」

 津波のような雄叫びが響き渡る。どの顔も、鍛え抜かれて精悍な顔立ちをしている。幽霊団員と呼ばれていた団員たちも、その気迫に圧倒され、流れに身を任せるしかないようだった。

 大崎分団長の訓辞が始まる。

「諸君……」

 感極まって言葉に詰まっているようだった。

「これから、埴生分団の歴史を変えに行く。これまで培った訓練を存分に発揮して、新しい歴史を刻んでくれ。全員を誇りに思う。以上!」

 答礼が済み、指揮者の位置から保さんが列の中央前へ駆け込む。気迫が漲り、全団員の緊張感が高まっていく。

「もう、ワシらに乗り越えられん壁はない。今日は、それを一人一人が証明してやろうでぇ。勝って勝って、勝ち続けて、限界を超しても勝ち続ける。新しい埴生分団は、それができることを証明する歴史を作るんじゃ。手応えはあるど。みんなで、そこへ行こうで。以上!別れ!」

 全団員が決意を込めた敬礼をする。その深い絆は、この島を動かすほどの強さを秘めているようだった。

 良行は、中途半端だった自分の人生を変えてくれたこの仲間たちに感謝した。

 冴子とのすれ違いで練習を休んだとき、橋本班長に涙ながらに、

「こんなワシでも、本当にええんですか…」と返事をした時のことを思い出す。

 ワシは、昔のワシじゃない。

 ポン操大会の会場へ向かう積載車の車内で、良行は拳に力を入れていた。

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