点検報告!
土曜日の朝、良行と冴子は福山の新幹線ホームにいた。
良行は、そわそわしていた。冴子は、決戦に望む戦士のようにいきり立っている。
「お~い。確かに、行かにゃあ、分からんとは言うたけど、そんなにいきり立つなよ」
CB400に乗って能島大橋を渡るときから、冴子は無言を通していた。強い風にちぎれ雲が通り過ぎる冷え冷えとした青空は、冴子の心を映し出していたのかもしれない。良行は、冴子の気持ちが痛いほど分かるだけに、居たたまれない気持ちがしていた。
切腹に望む武士の介添人って心境だな。こいつ、やっぱり、名前に牙って文字があるだけに、凄まじい神経しとるんかもしれん。
搭乗予定の新幹線がホームに到着してきた。
冴子は、押し黙ったまま列車に乗車していく。窓側の座席についても、冴子のその態度は変わらない。
ふいに、冴子が話しかけてきた。
「私と絵理は、大学に入ったときから、ずっとライバルだったの。学内の個展は勿論、色んなコンテストにも応募して、いつも競ってたわ。だから、私には絵理の考えてることが全部分かってるつもりだった。でも、絵理がヨッちゃんにあんなひどい嘘を吐いたのか、どうしてもその理由が分からない」
冴子は、心の中で呟く。
私は、親友の絵理を失いたくない。
発車の合図で車窓の景色が移り変わっていく。その光景を確認すると、冴子は固く目を閉じてしまった。
ヨッちゃんの言うとおり、行って確かめるしかない。
トンネルの多い山陽新幹線の沿線でも、加古川を過ぎる辺りから景色が開けてくる。住宅街の上を風に乗った雲が通っていくと、そこにはくっきりとした影が映し出される。冬の冷たい日差しは、その影によって透明感を際だたせ、冴子の心にまで染み込んでいくようだった。
「ヨッちゃんて、冬の日だまりみたいね」
通路側に座って景色を見ていた良行に、冴子が、ふいに話しかけてきた。
「それって、どういう意味?」
「寒さで凍えそうなのに、日だまりの中にいると居心地がいいの。そんな感じかな」
冴子は、良行の肩に頬を押しつけ、京都駅に到着するまで寄り添ってくる。
冴子は、京都駅に到着したら平野絵理の自宅へ最初から直行することに決めていた。電話をかけるより、その方が自分に正直だと思っていたからだ。
新神戸駅を通り抜け、淀川の鉄橋を渡ると大阪の町が見えてきた。
良行にとっては、懐かしくもあり、苦くもある風景だった。
もし、会社が倒産せんで、あのまま大阪におったら、ワシはどうなっとたじゃろう。消防団との出会いもなく、もちろんサエとも出会わんかった。
良行は、巡り合わせの不思議を実感していた。
新大阪駅を出た新幹線は、生き物のように成長し続ける都会を縫う龍のように疾走する。冴子は、その懐かしい風景の中へ忘れ物を取り戻しに行くような気がしていた。
やがて、京都駅到着のアナウンスがあり、良行の肩に頬を埋めていた冴子は、再び、決戦に望む戦士のような顔つきに戻っていた。
「着いたな」
冴子は、黙ったまま京都駅のプラットフォーム降り立つ。そのまま二人は、京都駅を出てタクシーに乗った。
しばらくすると、良行にも見覚えのある景色が見えてきた。冴子は、良行の腕にしがみついて、外の景色をじっと眺めている。
絵里、どんな気持ちでいるの。私が行ったら、どう思うだろう。
春にはまだ遠い京都の町は、賑やかなお水取りの行事を待ち望んでいる。
二人は、平野絵理の自宅前でタクシーを降りた。
冴子は、平野絵理の家の玄関先に立つ。そして、躊躇いなくベルを押した。
しばらくの沈黙の後、玄関のドアがゆっくりと開けられた。そこには、驚きを隠せない平野絵理の顔があった。
「突然来て、ごめん。どうしても、話したいことがあったから……」
平野絵理は、玄関ノブを握ったまま、じっと冴子の足元だけを見つめていた。
「彼も一緒なの。入っていいかな」
平野絵理は、力なくノブから手を離すと、大きくドアを開けた。冴子には、その手が震えているように思えた。
「どうして、わざわざここまで来たの?」
平野絵理は、冴子に挑みかかるような目を向けた。
「どうしてだと思う?私、絵理を責めに来たわけじゃないの」
平野絵里の瞳から挑戦的な輝きが消えていく。
「絵理があんなひどい嘘を吐いたからって、謝って欲しいからって、来たわけじゃないの。本当の、絵理の気持ちが知りたかったから。それが分からなかったら、私は自分で自分が許せないと思ったから」
冴子は、玄関先に立ち止まったまま、動こうとしない。
平野絵理は、ドアを開けたまま、冴子の目から逃れるように、再び下を向いた。
「バカでしょ、私。サエが思っているほど、賢くないのよ」
平野絵理は、玄関の三和土を見つめたまま、沈黙を守り続けている。
凍てついた風が街路樹に当たってうなり声をあげ、近くの小学校からは、スポーツ少年団が活動しているらしい歓声が聞こえてくる。すぐ側の沿道を何台かの車が走り抜けていった。
「絵理、私に、話をさせて……」
どのくらい時間がたったのだろう。良行には、冴子がその言葉を発するまでの時間がひどく長く思えた。
平野絵理は、やっと口を開いた。
「分かった……。奥へ入って」
玄関の壁には、平野絵理が描いたらしい花の絵が飾られている。古い家らしく、廊下は黒光りして、中庭に面したガラス戸は障子と組み合わせた古い作りになっている。
平野絵理は、その家の奥へと先に立って進む。その間、俯いたり、顔を上げてため息を吐く仕草をしたりして、落ち着かない様子だった。
冴子と良行は、奥にある応接間へ通された。家族の趣味なのか、古いレコードが並ぶアンティークな戸棚があり、大きなスピーカーが部屋の正面に飾られている。
「そこで、少し待ってて、コーヒーを淹れてくるから」
冴子は、ソファーに座り込んで、じっと古いレコードの列を見続けていた。
「このレコード、絵理のお父さんの趣味なの。ここへ来たら、いつもワインを飲みながら音楽鑑賞してたわ。このあいだ来たときも、そうだった」
冴子の呟きは、自分自身に言い聞かせているようだった。良行には、この部屋での思い出に浸っているらしい冴子の横顔に、冴子とケンカしていた間の寂しさを重ね合わせることができた。
平野絵理は、その横顔におびえを滲ませてコーヒーを運んできた。
冴子は、平野絵理に向き直ると、いきなり話しはじめた。
「私が何を絵理に話したいのか、話すね」
冴子は、緊張しているようだった。
「私、田舎へ帰ってからしばらくの間、画家としての自信をなくしてたの。週に2回だけという約束で近くの町の絵画教室で絵を教えて、それ以外は、いつも何にもできなくて、ぼんやり過ごしてた」
福山の絵画教室を思い出す。
生徒が来る前の絵画教室はがらんとしていて、デッサンに使う石膏像が冴子を見つめているだけだった。
創作したい、新しい可能性を見つけたい。
絵を覚え始めた小学生、デッサンに慣れ始めた中学生、美大へ進学したい高校生、趣味を持ちたいと集まってきた大人たち。それぞれの生徒には、見えないものが見えていた。
しかし、私はどうだろう。
どんなに足掻いても、どんなに苦しんでも、その先が見えてこない。
「そんな時、昔の同級生から電話があって、知り合いと合コンするから参加しないかって誘われて。そこで出会ったのが、彼だった」
不器用な人だと思った。でも、優しい人だと感じた。デッサンしてみて、そのことがよく分かった。
「最初は、同級生に言われた通り、気分転換のつもりだった。でも、毎日、彼をデッサンしていると不思議なことがあったの。彼、最初の日より2日目、その日よりも次の日と、少しずつだったけど、変化が見えるの。人って、そんなに急に変われるものじゃないでしょ。でも、彼は、確かに変化してた」
歯を食いしばって限界に挑戦している彼を美しいと思った。ヨッちゃんは、ヨッちゃんにしかできない可能性を見つめている。その課程は、過酷な道程かもしれない。しかし、けっして諦めない強い精神は、未来を必ず切り開いてくれる。
「昨日の夜、やっとそのわけが分かった。彼、ずっと限界に挑戦し続けていたのよ。その時、思った。私は私のままでいいって。私の中に住む私は、私の夢を追いかけ続けているんだからって」
使い込まれた家具は、時の流れを遮っているようだった。冴子は、この部屋で平野絵里と議論を戦わせた学生時代の自分を思い出す。
ありのままの私。直向きな想い。私は、どう変わったのだろう。
でも、変わらないものがある。変えられないものがある。
冴子には、分かっている。冴子の声は、震えていた。
「だから、絵理の嘘が分かったとき、もう二度と、後悔するようなことだけはしたくないと思った。ありのままの自分を見失いたくなかったから。どうしても、そのことだけは伝えたかった」
冴子は、まだ話し足りないと思っていた。
ヨッちゃんたちが訓練しているとき、私は、今までに、こんなきれいな人の動きを見たことがないって思った。その時に、確かな手応えがあった。
一人一人がベストを尽くして限界に挑戦し、自分という存在を越えていこうとしているとき、その回りにある全てのものは必ず大きな変化を遂げていく。
その言葉と共に、ふいに、学生時代の恩師の顔が浮かぶ。
「私ね、原点を見失ってたと思うの。たぶん、絵理も同じじゃないのかな。苦しみや、悩みのない人っていないでしょ。でも、原点に返ることができたら、きっと、その人は本当の自分を思い出せるんだと思うの」
平野絵理の肩は、小刻みに震えていた。両膝を手で鷲掴みして、唇を噛みしめている。
サエは、昔のサエとは違う。私なんか及びもしない本物の強さを手に入れている。
「変わったね、サエ。私は、自分が恥ずかしくて仕方ないよ」
平野絵理は、涙を湛えた瞳で冴子の目を見つめている。
「嫉妬してた。サエの才能だけじゃない。その生き方にも」
平野絵理は、そう前置きすると、自嘲しながら、これまでの経緯を話しはじめた。
「彼氏に嘘を言ったのは、きっかけに過ぎなかったと思う。画材を選んでいるときのサエは、夢を見ているように眩しかったなー。そんなサエは、私の井上くんにも眩しく映ったんだと思う。私の勤務時間が不規則で、いつも週末にしか会えない井上くんは、私よりサエを選んだと思った。そんなとき、彼が現れたのよ」
平野絵里は、最初に良行と出会ったときの防寒服姿を思い出す。
遠く能島からサエに会いたいとだけ思ってバイクを走らせてきた彼を、私は、純情で、一途で、逞しいと思った。その澄んだ眼差しは、サエだけを見続けている。
どうして彼は、サエを選んだんだろう。私には、何もないのに。
そう思ったとき、私の心は壊された。
「最初は、彼氏をからかってみるだけのつもりだった。サエって、携帯電話を持たないでしょ。どこで何をしているのか、私にも分からない。そんなとき、授業で使う画材について相談しようと思って、井上くんの店へ行った。その時、店にはサエがいた。楽しそうに井上くんとの話が弾んでた。でも、私は、その話には入り込めなかった」
平野絵里の頬に伝わる涙は、膝の上に組んだ手の上に滴り落ちている。平野絵里は、嗚咽で声にならない声を振り絞ろうとしていた。
井上くんを愛している。好きで好きで堪らない。その気持ちは変わらない。
静かな時間が過ぎていく。
俯いていた平野絵里が暗い目をしてゆっくりと顔を上げた。
「彼氏に嘘の電話をしたのは、その時が最初だった。その時の様子から、彼氏がサエのことを心から好きなんだって確信した。心の底からサエが羨ましいと思った。私、それで、後戻りできなくなったのよ。サエも、同じ苦しみを味わえばいいって」
平野絵理は、肩を揺すって涙を流していた。
「ごめんね、ごめん……」
後悔の念が後から後から平野絵里を責めてくる。
私は何をしていたんだろう。冴子との友情を裏切ってまで、何を得ようとしていたんだろう。
冴子は、ふいに立ち上がると、平野絵理の座っているソファーに回り込み、彼女の肩を抱き締めていた。
「絵里、もういいよ。もう、自分を責めることない」
冴子も、平野絵里の肩に額を擦りつけて涙を流している。
誰にだって、間違いはあるし、誤解もする。だけど、それで見失ってしまったら、本当に大事なものまで失ってしまう。
良行は、しばらくの間、そんな二人が抱き締め合っている様子をどうしていいか分からず、ただ眺めていた。
やっと二人が落ち着いた頃、良行は思い出したように冷めてしまったコーヒーを口に運んだ。ほろ苦い味と香りが予想以上に強く口中に広がってくる。思わず、コーヒーカップから口を離してコーヒーの滴をこぼしてしまうと、冴子と目が合った。良行のこぼしたコーヒーは、口元から涎のように流れ落ちている。
冴子の目がはにかむように笑いかけてくる。幸せそうな顔だった。良行は二人が分かり合えたのだと確信した。平野絵理とも、良行は目を合わせた。二人は、微笑んでいる。
「サエ、やっぱりサエの選んだ彼氏って素敵ね」
「おっちょこちょいなのよ。それに、分かりやすいし」
良行は、床に置かれたティッシュを手に取ると、慌てて口元をぬぐう。平野絵理は、まだ涙を溜めた目を赤くさせて、テーブルに置かれたコーヒーサーバーを手に取った。
「今、暖かいコーヒー、淹れなおしてくるね」
平野絵理が部屋を出て行くと、そこには、いつもの冴子がいた。好奇心に瞳をキラキラさせている画家の冴子と、良行のいつも見ていた普段の冴子が混在している。
それから二人は、平野絵理の運転する車で京都駅まで送ってもらった。
その別れ際、冴子は平野絵理に声をかけた。
「絵理のお陰で、大事なことを思い出させてもらったわ。ありがとう」
二人は、そこでもきつく抱き締め合っていた。駅前の人通りは、その二人の気持ちがどこにあるのか知らないまま、流れていく。




