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待機線に着け

 初日の訓練が始まった。

 小型ポンプ操法の訓練は、4名の団員が、指揮者、1番員、2番員、3番員という役割に応じた動きをする。埴生分団のポン操法要員では、指揮者に橋本俊樹班長、一番員に三島良行、二番員に大谷満、三番員は松崎清が務めている。

指揮者は、現場へ真っ先に到着する統率者。一番員は、ホースの延長要員で、最もスピードを要求される走りのスペシャリスト。2番員は、3番員と協調して防火水槽から水を汲み上げる準備をしたり、災害現場の破壊活動をする機動部隊。3番員は、純然たる機関要員で、小型可搬式ポンプの制御を司っている。

しかし、大会出場選手は待機線に辿り着くまでに20分以上も時間がかかっている。

「何回言うたら分かる?気を付けの姿勢から、『操法準備』で指揮者が『待機線に着け』と号令をかけて右足から出るんじゃけど、どうして右手と右足が一緒に出るんじゃ」

 大谷が額に冷や汗を垂らして仲野県指導員を見ている。訓練が停滞している原因は、妥協を許さない仲野県指導員の拘りにあった。

 良行は、妥協を許さない仲野県指導員の指導を疎ましく感じている。

 生理的なもんじゃろうが。そんだけ、ちゅーちゅー言われたら、誰でも萎縮しょうで。

 大崎分団長が大谷と仲野県指導員の間に割って入る。

「まあ、小さいことは後にして、先に進みましょう」

松崎は、気を付けの姿勢のまま採れたてのナマコのように固まっていた。仲野県指導員は、ムッとした顔つきで大崎分団長を見る。

「大崎さん、困りましたね。これは基本動作ですよ。みんなも面白がって見とるけど、大会じゃ、もっと緊張するんですよ」

 一気にまくし立てると、ため息を吐く。

「まあ、いいでしょう。ただし、もう一回だけやらせてみてくれますかね」

 同じ事の繰り返しじゃなーか。大谷、頼むけー、普通に手足を動かしてくれや。

 最初は爆笑で腹をよじっていた植野部長や智史さんも、仲野県指導員から目を背けて冷ややかにこの様子を窺っている。

 埴生分団で指導員をしている野島班長が、指示を出す。

「操法準備」

その指示を聞いて、橋本班長が、

「待機線に、着け」の号令をかける。

 全員の視線が大谷の動作に注目する。強風に揺れるヒマラヤスギの巨木のように不自然な動きをしていた大谷の動きは、その緊張を破って、右手と右足をスムーズな動作で待機線に着け、自主整頓した。

「やったらできるじゃないか。そうそう、気を付けの姿勢も大谷君が一番さまになっとるし、これで全部の動きを身につけたら、ええポン操ができるようになる」

 埴生分団全員の安堵のため息が漏れる中、大谷は唇を薄く左右に伸ばして苦笑いしている。仲野県指導員はよっぽど嬉しかったのか、大谷の肩をポンと叩いて、次の項目へと進ませるよう野島班長に指示した。

 野島班長が、

「操法開始」の指示を出す。

 橋本班長は、良行の1.5メートル横から、第1線を目標に踵を引きつける小さな半ば右向け右をして指揮者の位置へ走り込んでいく。

 嫌な予感がした。

「橋本君、バンビちゃんじゃないんで。どうしてピョンピョン跳ぶように走る?腕は固定されたままで振りもなぁし、どう見たって可笑しかろう。不自然じゃと思わんか?もういっぺんやってみ」

 橋本班長は、仲野県指導員に言われたように、もう一度同じ動作を繰り返す。

「バンビちゃんは直ったけど、腕の振りがないのー。ちょっと見とってくれ」

 仲野県指導員は、良行の隣にゆっくりと近付いて来て、ミカン畑で罠に捕まったイノシシのような睨み付ける目つきで自主整頓をすると、橋本班長に教えようとした動作を自分でやってみせた。踵を引きつけるとき、室内運動靴がコッと小さく音を立て、節度・節度と呟いているように良行には聞こえた。

「のっ、最短距離でホースの端を回り込んで行く感覚でえんじゃけ」

 防火水槽の位置を示すテープの場所から戻ってきた橋本班長は、仲野県指導員以上に血走った目をして良行を睨み付けた。

 そうとう、神経にさくっと来とるらしい。

「今日はまだ初日なんじゃけ、そこで止まっとったら先に進めんでしょう。仲野さん、先々進めてくれませんか」

 大崎分団長が口を挟むのは二度目だ。

 次はないの。マグロ包丁のお出ましかもしれん。

 大崎分団長は埴生町内で魚屋を営んでいる。瀬戸内海の小魚ばかりを扱っているので、手に入れたばかりの立派なマグロ包丁を使う機会がないんじゃ、という愚痴を聞いたことがある。

 松崎も大谷も岸壁に固着したカメノテのように固まっている。

「それは分かっとるんです。でも、ここで節度をしっかり覚えてもらわんと、次には進めんでしょう」

 仲野県指導員は困ったような顔をして大崎分団長を見つめている。ちょっとしつこすぎたかな、と顔に書いてあるようだった。

 大崎分団長は、急に息苦しくなったような室内の空気を察して、尻のポケットからハンカチを取り出すと、汗も出ていないのに顔を拭った。

「まあ、任せますけー。ゆっくりやってつかあさい」

 大崎分団長の許可が出ると、仲野県指導員は整列して指示を待っているポン操要員を手招きして近づけた。

「色々、細かいことを言うたけど、節度さえきっちりしとったら、恥をかくようなことはないんじゃけ。そう思うて、もうちょっとだけ我慢して付き合うてくれ。まあ、みんな若いんじゃけ、じきに覚えられるわ」

 仲野県指導員は、「恥」の部分でアクセントを強めた。

 恥、か。

 橋本班長の顔にも、恥という文字が書き込まれている。

「秋季査閲の時は、OBからこってり皮肉を言われたけーのー」

 橋本班長が良行の顔を見て、ぼそっと呟く。

 オレの親父のことじゃなぁーか。

 良行の父、勝俊は堵生分団OBとして、苦笑いを浮かべながら秋期査閲の講評を締めくくっていた。

「初めてポン操した人ばかりだと聞いてますが、たいへんよかったと思います。今後も訓練を積み、自分たちの町は自分たちの手で守る、という消防団精神で頑張ってください」

 あの時、親父は、「たいへんよかった」の部分を強調し、自嘲していたようにさえ良行には見えた。

OBの勝俊は、秋期査閲のためにお飾りのような2週間ほどの訓練しかしていない埴生分団の実態をよく知っていた。しかも、総員で30名在籍しているはずのこの分団の団員動員数の少なさも気がかりで、秋期査閲に参加した団員15名の内、約半分が当日参加だろうことも見抜いていた。

 かつては200名近い団員もおって偉容を誇っとった埴生分団も落ちるところまで落ちたもんよ。

 勝俊は、朝礼台の階段を降りながら、唇を噛みしめていた。

 埴生に本署が来て喜んどったのに、分団幹部の確執から団員がどんどん減って、仕舞いにゃあ地域の人らも、「本署が埴生にあるんじゃけ、消防団なんか必要なかろう」とまで言うようになってしもうた。

 勝俊が階段を降りきったところで、

「整列、休め!」の号令が掛かる。来賓席へ向かう勝俊は、その号令を聞きながら挫折感を味わっていた。

 ワシらがもう少しシャンとしとったら、こうはならんかった。良行らに頑張ってもらうしかないのー。

 形ばかりのお粗末な秋期査閲は、あっという間に終了した。

 秋期査閲が終了すると、場所を移して懇親会が始まる。本来ならその席は、秋期査閲に参加した団員達を労うためのものなのだが、お粗末な埴生分団の分列行進を見ていた岡野消防団長は、酔いも手伝って、つい皮肉ってしまった。

「どっかの小企業の職場デモじゃったが」

返す言葉のない大崎分団長は、団幹部ばかりが集まった一角に小さくなって、悔しさを噛みしめていたようだ。その後、地元埴生出身の消防署職員、寺崎さんが、初披露のポン操だけを褒めだした。

「今回のポン操、若いもんがするのを見るんは久し振りで、見とって気持ちよかったのー」

 すかさず勝俊が応じる。

「そうかのー、うちの息子なんか、どこで習うたんか気を付けからできとらん」

 親子の間で火花が散る。

 週3回の練習で何ができるんな。

 良行は分団の練習体制に問題があることも知らない。外の分団では、通常、新人の場合、3ヶ月前からポン操の訓練に入り、通常点検などの必須訓練にしても訓練期間として1ヶ月はかけるものなのだ。しかも、良行は、埴生分団が新人を集めてポン操法をしたことが久しくなかった事など知るよしもない。

「じゃけどのー、訓練期間が短かかったんじゃろうけど、あの子らようやったと思うよ。特に3番員の松崎くんなんか、どうやってごまかしたんか知らんけど、ポンプの扱いだけは一品じゃなかったか」

「まあ、うちの息子はさておき、そういう言い方もあるかのー。どっかの子は、節度のせの字も知らんかったみたいじゃけど」

 しかし、寺崎さんは、親子の確執を無視して、さらにポン操要員を褒め続ける。

「いやいや、そんなことないで、良行くんも足の速さなら他の分団のポン操要員にひけを取るまぁが。それに指揮者の橋本くん、2番員の大谷くんにもそれぞれええところがあったでー」

 その時、何とかポン操要員を褒めようとする寺崎さんから目を離した勝俊は、良行を一瞥して自嘲混じりに皮肉った。

「あれがポン操じゃったら埴生は笑いもんになるで」

 良行は飲みかけていたビールが喉に詰まるような思いがした。

 この春先に入団した良行は、新入団訓練という行事にも参加し、夏には、生まれて初めて林野火災の現場にも出動した。しかし、秋口になって突然、大崎分団長の命令でポンプ操法の訓練をするようにと言い渡された。最初は、いやだと拒絶していた良行も、新人だからという理由の前では逆らえなかった経緯がある。

 じゃけ、いやじゃ言うたんよ。新人はポン操からやってもらわないけん、言うけーやっただけじゃのに。親父のやつ、どういうつもりでそこまで恥をかかせるんね。

 気まずい空気が懇親会に漂う。その空気を破るように、寺崎さんは努めて明るく声を出した。

「そりゃあ、勝俊さんが現役ならそうじゃろうが、それにしても松崎くんのポンプの扱い方はうまかったのー。のー、松崎くん」

 声をかけられた松崎は、いつものでへでへ笑いをしながら、寺崎さんの側へビールを注ぐため、にじり寄っていく。能島弁では、お調子者のことを「調子ぃ」と蔑んだ言い方をする。無責任で軽率な松崎は同級生仲間から調子ぃと蔑まされていた。良行は、松崎の振る舞いを見ていると腹立たしくなってくる。

 松崎の調子ぃが、どうせ寺崎さんに新聞でも取ってもらおうとか思うとるんじゃろうが。

 良行の思いをよそに、寺崎さんは、その松崎の肩を叩きながら暗くなった懇親会の場を盛り上げようとしている。

「君はすばらしい。埴生の宝じゃ」

寺崎さんは、半ばやけくそのように松崎を褒めちぎっている。

煽てられた調子ぃの松崎は、それを真に受け、その場で一人だけどんどん盛り上がっていく。しかし、それまでの懇親会の場が暗かっただけに、松崎の盛り上がり様は埴生分団の幹部達にとっては救いになっていたようだ。

そしてついには、褒めあげられた松崎が煽てられた豚よろしく、

「埴生分団の誇りにかけて、今度のポン操大会では優勝して見せます」と豪語し、酒の勢いもあって、今の四人がポン操大会出場を承諾させられたのだった。

 全部、あのまるバカのせいじゃ。

 でも、恥はかきとうない。

 松崎も大谷も唇を噛みしめている。

 訓練が再開された。

 何度も指導のため、仲野県指導員に中断させられるが、もう誰も口出しする者はいない。仲野県指導員の「節度」がポン操要員の体に染みこんでくるような気がした。

 順調に訓練が進んでいくと、途中休憩が入った。それまでの訓練では、指揮者が号令する「集まれ」のところまでしか進んでいない。

「ありゃあ、保さんの車でー」

 大崎分団長の命令で、近くの自動販売機まで缶ジュースを買いに行こうとしていた松崎が保さんの車を発見した。

 大崎分団長がニヤッと笑う。

 保さんは車から降りると、あたふたと体育館に近付いてくる。我が身に起こるまさかの出来事を予期してはいないようだった。

 保さんは申し訳なさそうに、

「遅れました。ちょっと、用事がありまして」と大崎分団長に断りを入れる。

 大崎分団長は落ち着きはらってその言い訳を聞き終わると、自信たっぷりに腕組みをしてみせた。

「保っちゃん、鴨がネギを背負ってきたらどうする?」

 ニヤッと笑う大崎分団長と目を合わせた保さんは、太い眉毛の上をボリボリと掻いて松崎を目で追った。

「かーっ、ネタはあがってるんですか」

「そういうこと」

 松崎は、その場から逃げるように、いつも配達で使っているボロバイクを走らせた。

「まったく、逃げ足の速い奴じゃ」

 保さんは呆れたように松崎の後ろ姿を見つめている。

 松崎のやつ、あんだけ念を押しといたのに……。

 昼の休憩時間、工具メーカーの営業から聞いた情報は確かだった。「2列目の4番台は連チャンできる」

 仕事を終えた向井保は、今日からポン操訓練が始まると言って仕事を定時に終え、台に取りついていた。営業の言っていた情報は確かで、みるみるうちに玉が貯まっていく。

 上等、上等。これで少しは訓練後の飲み代の足しにはなるじゃろう。それにしても、昨日、分団長から突然、県大会へ行くと宣言されたときには驚いたわい。

 たった一言、

「腹をくくってくれ」じゃけのー。 

 玉を入れた箱が4杯目になったとき、突然、肩を叩かれた。

「保さん、凄いじゃん」

 聞き覚えのある声は、調子ぃの松崎だった。

 タイミングの悪いときに、まあ……。

「分かっとるじゃろうのー。他言無用じゃけの。悪いけど、これがすんだら行くけー分団長にゃあ黙っとってくれよ」

「了解しました。副分団長殿!」

 客の間を縫ってパチンコ屋の外へ出る松崎は、ニヤッと笑って手を振っていた。

「おまえが松崎のアホを信用するけーよ」

 植野部長が保さんに近寄ってくる。

「口止めしとっても無駄よ。あいつほどの調子ぃはおらんけの」

 同情するように、智史さんも保さんに声をかける。

「執務手当てが少ないけの、頼むでー、副分団長どの」

 三好さんまでが保さんをからかっている。

「せっかく、みんなを驚かせちゃろう思よったのに、ちょっと無念じゃ。そのつもりにはしとったんじゃけどな」

 保さんは、眉をピクピクさせて下を向いた。

 その様子を見ていた仲野県指導員は首を横に向け、疎ましそうな顔をしたように良行には見えた。大崎分団長は、その様子に気付いたのか仲野県指導員の側へ近付いていく。

 小休止の間は、保さんのレンチャンの話題で持ちきりだった。

「ほらほーよ。会社の仕入れ先の奴から情報聞いて行っとるんじゃけ、腕さえありゃあちょろいもんよ。まさか松崎の奴に見つかるとは思わなんだけどな」

 保さんは、買い出しから帰ってきた松崎をチラッと睨む。

「ついですよ、つい。ヨッちゃんが問いつめるけー、口が滑ったんですよ」

「ヨッちゃんは関係なかろーが。おまえの、つい、には聞き飽きたわ。もう奢っちゃらんど」

 松崎は、保さんの団服の袖を引っ張って哀願する。

「保さん、勘弁したってえや。新聞代一ヶ月サービスしますけー」

「ほー、おまえに拝まれて新聞取っとるけど、そういう話を聞いたんは初めてじゃのー」

「まあ、そこは何とか、穏便に……」

 松崎は保さんに責められてますます泥沼に嵌っていくようだった。その場にいた団員は、誰もが松崎と保さんのやりとりを見てニヤニヤ笑っている。

 さっきまで仲野県指導員と話し込んでいた大崎分団長が重い腰を上げた。

「おまえら、話はそれぐらいにして、練習始めんかー」

 練習が再開された。

 仲野県指導員は、徹底的に節度を叩き込むつもりだ。気を付け、整列休め、敬礼、回れ右、基本動作だけを中心に指導していく。

そして練習が終わったのは、片付けも含めて午後10時を過ぎていた。その後、練習に参加した全員は鶴姫になだれ込み、トッちゃん懐妊のニュースで大いに盛り上がったことは言うまでもない。

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