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収納開始

 日曜日の朝、良行に冴子からの電話があった。楽しそうに、京都での画材選びの話をしている。冴子は能島へ帰っているらしかった。しかし、良行には、その弾んだ声が届かない。

「どうしたの?」

「どうって、何でもないよ」

 良行は怒ったように言葉を句切った。

「早く会いたくて電話したのに」

 冴子は良行の心の中に何かの蟠りがあると直感的に見抜いていたに違いない。

「どうして怒ってるの?」

 良行は押し黙ったまま受話器の先の冴子を睨み付けている。憎しみにも似た感情がこみ上げてくる。良行は冴子に答えず一方的に受話器を降ろした。

 脱力感が体中を支配してくる。怒りと無念さと、情けなさが沸々と湧き上がり、良行の心は閉ざされていく。

 その日一日、良行は部屋に閉じこもったまま、子どもの頃のように天井の木目模様を眺めて過ごした。

冴子からの電話は、もう二度とかかってこないだろう。

 そう思うと、締め付けられるように心が痛い。

 心の痛みは、時間と共に増幅してくるようで、良行に耐え難い苦痛を与え続ける。良行は、その苦痛に耐えて、やっとの思いで翌日の仕事には出た。しかし、仲間の待っているはずの消防団へは行く気がしなかった。

 残業を終えて会社からの帰り際、主任が前原さんを呼び、良行を指さして相談しているようだった。その光景を見た良行は、逃げるようにして駐輪場へと急いだ。

 仕事の量は日増しに増えてくる。何もかも忘れたい良行には没頭できる仕事があるだけ幸せなのかもしれない。時々、仕事の合間に橋本班長の顔が思い出される。それは遠い記憶のようでありながら、仲間と交わした約束が良行を厳しく責め立ててくる。

 何もかも中途半端じゃなぁーか。走り回って、足掻いて、いつも何かが足りなくなる。ワシには運がないんかもしれん。

 眠りに就こうとしている良行に、押し寄せてくる満ち潮のような諦観が広がっていく。

 その日、良行は夢を見た。一つ目の大男に追いかけられる夢だった。小屋の中に潜んでいた良行は、怪物に見つけられて、どこまでもどこまでも追いつめられる。行き場を失った良行は背後に底の見えない断崖絶壁を感じた。その時、怪物はニッコリと笑っていた。

 目覚めた良行は、冴子のアトリエでいつか見たことのあるルドンの模写を思い出した。

 良行が練習に参加しなくなって、2日が過ぎた。

 いつものように良行はトライアル車で出社していた。ブレーキレバーの間隔が広がっているように感じられる。たぶん、ブレーキシューの摩耗が原因だろうと良行は思ったが、いつもの走りができないことに苛立ちを覚える。

 就業時間が始まると、良行は原図の束を持って前原さんの後を追いかけていく。前原さんは急に振り向いて、心配そうに良行の顔をのぞき込んできた。

「三島君、ここ2、3日考え込んどるみたいじゃが」

 良行は、無視している。

「娘に会って、この前の話をしたんじゃ」

 前原さんは、良行の反応を無視して話しかける。

「結婚式には出ることにした」

 良行には、一瞬、松崎とノンちゃんの嬉しそうな顔が浮かんできた。しかし、その想像は、次の瞬間、遥か彼方の夢物語のように感じられてくる。

 どうしてもっとサエと話さんかったんじゃろう。京都であの時、サエに話しかけていたら何かが変わったかもしれんのに。ワシは、怒りにまかせてサエから掛かってきた電話を一方的に切った。

 粉々に砕け散ったプライドが心を痛めつける。

 前原さんは、そんな良行の顔を見守っている。

 もう、何も言わんといてください。今のボクには居場所がないんです。

 そう言いたい気持ちを抑えつけて良行は仕事を続けた。

 その日、会社から帰ると、良行はガレージでトライアル車の手入れをしていた。ブレーキハンドルの隙間が広くなっていたのは、やはりブレーキシューの摩耗が原因だった。帰宅途中に、その不快感が否が応でも良行の気分を暗くさせていた。

 暗いガレージの中、センサーライトに照らされて、冴子を乗せたCB400が艶やかに光っている。良行はその輝きを無視するように、トライアル車の手入れだけに没頭していた。

「三島っ」

 声の方を振り向いてみると、そこには橋本班長がいた。

「どうしたんな。おまえがおらんと練習にならんじゃろう」

 良行は、沈黙を守ったままバイクの前輪を外している。

「お~い、み・し・ま・くん」

 橋本班長は親しみを込めて呼びかけてくる。

「話してくれんと、始まるまあが」

 良行には、練習に参加しなくなってからの空白感だけが強調されてくる。その空白感は、底なし沼に落ちるように良行を絶望の縁へと追いやっていく。

 以前勤めていた会社が倒産する前、直属の上司は、

「おまえらだけが頼りなんやからしっかりしてくれよ」と言い続け、良行たち若い社員に苛酷なサービス残業を強いてきた。強引なリストラによって主力社員がいなくなったため、社内のあちこちが機能不全に陥っている。それでも職を失いたくなかった良行は懸命に働いた。そして、会社が倒産した日、不要になったフリーターの首でも切るように突然解雇が言い渡された。

 何もかも、全部じゃ。嘘で固めた世界じゃないか。

 橋本班長は、無視し続ける良行の側で、じっと作業を見守っている。ガレージの柱に手をかけて、けっして動かないもののように、強い意志だけを頼りに良行を見守っている。

 時間だけが、どんどん加速していく。

 とうとう橋本班長は、良行の作業が終わるまで、黙ったまま良行を見つめ続けていた。

「練習に、来んか?」

 そう言った橋本班長は、良行に反応がないことを確認すると、やっとガレージから出て行った。

 もう、えんよ。かまわんといて。

 良行の心を支配する言葉が、ガレージから出て行く橋本班長の背中に当たって跳ね返ってくる。

 もう、えんか?

かまわんで欲しいんか?

 良行の頬を涙が勝手に伝わってくる。

 ワシは、どうすりゃあえんね。

 次の日も、橋本班長は良行の家に足を運んできた。父親の勝俊と親しい橋本班長は、家に上がり込むと、しばらくの間、お茶を飲みながら話していったようだ。

 勝俊は、橋本班長が帰った後、

「何があったんか知らんけど、仲間を失うようなことだけはするな」とだけ言った。言いようのない恥ずかしさだけがこみ上げてくる。

 翌日も良行は、食事の時以外、自分の部屋に閉じこもっていた。

「良行っ、橋本君が来とる。何か話があるそうじゃから、部屋へ通すぞ」

 親父がそう言うと同時に、橋本班長は良行の部屋の中へ入ってきた。そして、いきなり思い詰めたように良行の前で土下座するのだった。

 その声は絞り出すような声だった。

「三島っ、どうしてもおまえが必要なんじゃ。何があったんか知らんが、おまえの力を貸してくれ」

 良行は土下座したままの橋本班長をじっと見つめていた。

「おまえがおらんと、どうにもならん……。ワシら誓うたじゃないか。それは、おまえ自身がよう分かっとろう」

  限界を超えて初めて所用規準時間50秒を叩き出したときの記憶が良行の中で蘇ってくる。仲間の一人一人が歓喜に沸いたあの日、鍛え抜かれた絆の強さを感じていたのは誰だったろう。

「もういっぺん、思い出してくれ。そして、ワシにできることなら何でも言うてくれ。ワシは、おまえのためじゃったら何でもする」

 やっと顔を上げた橋本班長の顔は、口をへの字に結んで、涙を流していた。その涙を見た良行は、自分の弱さをはっきりと悟った。握りしめた拳がふいに自分の頭を殴りつける。その痛みと共に、自分自身に対する歯がゆさが増し、肩を揺すって涙を流している自分がいた。

「班長。ワシ、どうすりゃあえんですか。ワシみたいな中途半端なやつ、必要なんですか?」

 流れ落ちる涙を肘で拭っていると、橋本班長が良行の肩に手を置いた。

「どうしても、必要じゃ。おまえにしかできん、おまえにしか頼りにできんことがあるじゃないか」

 良行はその言葉を待っていたに違いない。

 声にならない声で、もう一度、確認する。

「こんなワシでも、本当にええんですか……」

 ダムが蟻の一穴から崩壊するように、良行は声を上げて泣いた。屈辱、激しい怒り、諦観、そして、自分の弱さが怒濤のように流れ落ちていく。

「そうかあぁ、来てくれるんか……。ほんとに戻って来てくれるんじゃ」

 橋本班長は、目頭を押さえて安堵しているようだった。

「ただし、ええか。休んだ分だけ、練習は厳しゅうなるぞ」

 握手を求めてきた橋本班長の手の温もりが良行の心に再び火を点した。

 その日、久し振りに練習に参加した良行は、自分の敵が誰なのかはっきりと分かったような気がした。

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