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器具を持て

 翌日の昼過ぎ、昼休憩で主任とくつろいでいると、携帯が鳴った。公衆電話からかけてきているようだった。

 良行は冴子からの電話だと思った。

 休憩室から出ながら通話ボタンを押すと、その電話は平野絵理からだった。

「今、駅前からかけてるんです。あれから、やっぱりサエと連絡が付かなくて。三島さんには連絡がありましたか」

 良行に冴子からの電話はない。

「いいえ、ないですね。それにしても、どうして喧嘩なんかしたんです?」

 平野絵理は、考え込んでいるらしく少し押し黙った。

「どうしたんです?」

「ちょっと心配になって、サエと一緒に行った駅前の画材店で聞いてみたんです。そしたら、サエはここに来て、画材を注文したことが分かって」

 彼女は、良行の質問には答えなかった。

 冴子の予定は一週間だと言っていたが、その期限を切った理由が未だに良行には分からない。素人の良行にしてみれば、何も言わずに京都へ出かけた冴子の気持ちも分からなかったし、どう考えても、画材を集めるのにそれだけの時間が掛かるとは思えなかった。

「画材って、注文したらどれぐらいかかるんです?」

「特殊なものになると、早くても4、5日はかかるし、どんな色なのか直接見ないと分からない物もありますから」

 平野絵理の口ぶりは、冴子の滞在予定が延びそうな予感をさせる。予定では、明後日には帰ってくることになっている。

 良行としては、冴子が予定通りに帰ってくるとは思うのだが、確証はない。

「サエの居場所が分かったら、連絡します。夜だったら、何時頃に電話をかければいいですか」

 平野絵理は沈黙している良行を急かすように問いかけてくる。

「10時半にはたぶん自宅にいると思います」

 その答えを聞くと同時に平野絵理は電話を切った。

 オレは、何であんな質問をしたんだ?

 良行は、一度しか会ったことのない平野絵理に、冴子の画材について聞いたことを悔やんだ。

 いかにも待ち遠しいみたいに思われたかな。それにしても、サエはどうしとるんじゃろう。平野さんも平野さんで、ワシのところより、サエの家に電話した方がはっきり分かるじゃろうし。喧嘩した手前、それはやりにくいんかの。

 良行は、二人がどうして喧嘩したのかその理由を話してくれない平野絵里に釈然としなかったが、確かめる術はまるでなかった。

 仕事を休んでまでもう一回京都へ行くわけにゃあいかんし、困ったもんじゃ。

良行は、苦笑いしながら休憩室へ戻っていった。

午後からの仕事は、主任と一緒に同行して、下請け会社に発注してある部品の出来具合をチェックするというもので、良行にとっては楽な仕事だった。主任は仕事を早めに済ませると、定時までには良行を退社させてくれた。

 自宅に帰って玄関へ入ろうとすると、千里がふいに現れた。

「大事な話があるの」

 いつになく真剣な目つきで千里は良行を見つめてくる。

「敏明の?」

 千里はコクリと頷いた。そして、良行の肘を掴んでガレージの方へと連れて行く。

「まだ内緒なんじゃけど、私ら結婚の約束したの」

「そりゃあ、昨日……」

 そう言いかけた良行の口を千里がいきなり塞ぐ。真っ赤な顔をして恥ずかしそうな千里の顔が間近にあった。

「おい、苦しいから離せよ」

 やっと手を離してくれた千里は、下を向いている。

「分かったよ。まだ内緒にしときゃえんじゃろ」

 千里は恥ずかしそうに頷くと、いつものように小さく手を振って、ガレージから離れていく。兄弟同然に育った千里のいつもの後ろ姿だった。

 どいつもこいつも、どうなっとるんね。敏明のやつ、やっぱり千里とくっ付きやがった。忠告が遅れてしもうたかのー。それにしても英次のやつ、二人のために秘密基地を提供するとは……。敦のやつも、どうせ知っとるんじゃろう。

 良行は、消防団に入ったことで、仲間はずれにされたような気がした。

 今日は、内海分団との合同訓練か。

「仲間はずれ」という言葉を呑み込んで、良行は訓練に出かける準備を始めた。この日の訓練は、内海分団との合同訓練ということもあり、本番を想定して大会用に準備された真新しい靴と脚絆が用意されている。靴の方は、履き慣れるため2日前から支給され、汚さないようバイクに乗車して履くことは禁じられている。

「ウォーキングでもしろ」

 仲野県指導員は、靴擦れを心配して良行に命令を出していた。そのため、良行は集合時間に間に合うように、自宅から屯所までの道を歩くことにした。

 屯所は、埴生小学校の近くにある。良行は、その道のりを小学生時代を思い出しながら歩いた。遅刻しそうになって走った歩道は、今は改良工事されて体裁良く整っている。犬を連れて散歩している付近の住民が、良行の団服姿を見て不思議そうな顔をして通り過ぎて行った。

 屯所の前には、すでに10名ぐらいの団員が揃っていた。大崎分団長や副分団長の保さんが慌ただしく準備を進めている。橋本班長もそれを手伝いながら緊張した面持ちを見せている。

「今日は歩きか?」

 松崎が珍しく緊張した面持ちで聞いてくる。

「ああ。仲野さんから競技用の靴は、バイクに乗って履いたらいけん言われた。ノンちゃんは?」

「車で直接向こうへ行くらしい」

 植野部長が二人の会話に割り込んできた。

「ワシの嫁なんか、ええ好きの皮、言うて相手にしてくれんわ。松崎もその内、経験するじゃろうけどの」

「ええ好きの皮」というのは、能島に伝わる言い回しの一つで「下らないことにこだわる物好きな人間の無駄な努力」という意味がある。

 松崎はでへでへと笑っている。いつもの楽天的な松崎が戻ってきたようだった。

 良行が周りを見回す。大谷はまだ来ていないようだった。

「大谷は?」

「あいつ、遅れてくるかもしれん。トッちゃんの妊娠中毒症よ……」

「そんなにひどいんか?」

「班長は、心配いらん、言うとったけどのう」

 心配そうにしている松崎の後ろから、大谷が姿を現した。いつも通りの生真面目な顔で良行と松崎を見ている。二人の会話を聞いていたかどうかは分からない。

「今日は、気合い入れていこうで」

 大谷はいきなり二人の肩を強く叩く。大谷なりに、自分のことを気遣ってくれる仲間へ感謝の気持ちを伝えたかったのだろう。

 訓練会場は、内海分団の使っている内海小学校に決められていた。この町は、ハッサクや安政柑の発祥の地で、内海分団の団員たちのほとんどは自家用のミカン畑を持っているらしい。5月になってこの町を通ると、どこへ行ってもミカンの花の香りで満たされている。

合同訓練に参加する埴生分団の人員は、普段よりも多く、19人も参加していた。この人員は予定している指導員講習会の動員人数に匹敵する人員で、大崎分団長以下、分団幹部の意気込みが良行たちにひしひしと伝わってくるものだった。

 全員が車に乗り合わせて訓練会場に到着すると、すでに仲野県指導員は、内海分団の幹部と、本番さながらに訓練用のラインを引いて待っていた。そのとき、4、5人で埴生分団を迎えた内海分団の幹部たちは、出初め式よりも多い埴生分団の人員に驚いているようだった。

 車から降りて資器材を用意する松崎は、ポン操仲間に向かって得意そうな顔をした。

「おい、あいつらビックリしとるみたいじゃ」

「松崎っ、口を慎め。そんなこと言うたら失礼じゃろう」

 橋本班長が松崎に注意する。しかし、その顔には誇らしさが滲んでいる。

「もっと、ビックリさせてやらんとな」

 にこにこ顔で保さんが声をかけてくる。

 二つの分団が集まってみると、明らかに埴生分団の人員の方が多かった。内海分団は大会へ出場する2チームを含めて全員で最終的に16名の団員を揃えている。それでも、訓練開始前のランニングでは、内海分団の方が大きなかけ声をかけていた。消防団独特のかけ声に慣れていない埴生分団は、にわか仕立てを内海分団に暴露した格好になった。

 合同訓練の開式報告が終わると、さっそく一騎打ちが始まった。

 相手は2チーム。装備の点検から油断なく準備を進める。最初は弱小分団と侮っていた内海分団の団員たちも、しだいに真剣さを増していくようだった。時々、緊張感に包まれた指示が飛んでいる。

 訓練開始の合図があり、選手達の緊張感は最高潮に達する。入念に服装点検が行われ、埴生、内海の二つのチームが、それぞれの集合線に付く。

 心なしかうわずった声で内海分団の幹部が、

「操法準備」と号令をかける。

 幾つもの目が二つのチームを突き刺してくる。いつもの緊張感の比ではない。

 同時に二つのチームは、

「待機線に付け」の号令を同時にかけた。橋本班長の気合いたっぷりの声がグランドに響く。全員が揃うと、再び内海分団の幹部が指示を出す。

「操法開始」

 戦いの火ぶたが斬って落とされた。橋本班長は、軽快に指揮者の指揮位置へ走り込んでいく。

「集まれ!」の号令が二つのチーム同時に響き渡る。良行達は練習通りの駆け足で集合線についた。3人とも完璧に揃っている。内海分団から期せずして「ほー!」という感嘆の声が上がった。

「番号!」のかけ声も決まり、橋本班長は回れ右をして報告位置へ走り込む。良行達には、余裕があるとさえ見えた。橋本班長の開始報告も答礼も完璧だった。

 しかし、そこには落とし穴が待っていた。

 再び指揮者の位置へ戻ってきた橋本班長は、緊張の絶頂にいた。

「か、火点は…」

 言葉が出ない。橋本班長は、ぐっと眉を顰めて、もう一度やり直した。どうしても吃ってしまうようだった。

 内海分団の団員から思わず失笑が漏れる。

 橋本班長が情けない顔をして状況説明を終えると、良行たちは逆に気合いが入ってくるのを感じていた。その3人の目が橋本班長を見据える。

 橋本班長はその視線を感じて平常心に戻ったようだった。

「定位につけ!」

 しっかりと動きを確認する余裕まである。

「操作、始め!」

「よし!」

 ここからは、いつもの訓練以上にスムーズな操法を展開した。全員の動きが水の流れるように進められ、記録されたタイムも昨日出したばかりの50秒と並んだ。その早さに、内海分団の団員たちは声を失っている。

 その合同訓練が終了したとき、その挨拶で内海分団の分団長は、

「埴生の仕上がりがここまでとは」と言って絶句した。

 埴生分団が資器材の撤収にかかっていると、出初め式で一緒に赤バイ乗務員をした内海分団の村上部長が親しげに近付いてきた。

「たいしたもんじゃのー。感心したで」

 良行は資器材を撤収する手を休めて村上部長に応える。

「そうですか。でも、まだまだじゃと言われてます」

 良行は、内海分団の幹部と話している仲野県指導員を指さした。

「あいつか……。きつかろうが。男気はあるんじゃが、味方が作れん。でも、今日のあいつを見とったら、よっぽどおまえらに惚れ込んどるみたいじゃったのー。まあ、お互い、頑張ろうで」

 村上部長は、出初め式での出来事を心配していたらしいが、そのことについては一言も喋らなかった。良行から離れて仲間のところへ帰っていくとき、グッドラックのサインを送ってきた。

 帰途に就く埴生分団の一行は、言うまでもなく意気軒昂だった。その中で、橋本班長だけは忸怩たる思いがあったのだろう、少し落ち込んでいるように良行たちには見えた。

 屯所の前で、保さんと大崎分団長以外の後方支援していた全員が解散すると、良行はそのまま、橋本班長、松崎と共に屯所に残って、その開放感から祝杯を挙げた。大谷だけは、妊娠中毒症のトッちゃんの様子が気になるらしく、先に帰った。

「橋本っ、最初の一回目、ワシゃあ、どうなるんかと思ったでー」

 大崎分団長が笑顔で橋本班長をからかう。

「あーっ、やってもうたー、と思った途端、口の中がからからになっとって、それしか覚えとらんですよ」

「すんだことはえんじゃ。あの場面だけ、後は完璧じゃった。消防団に入って、これ以上誇らしい気持ちになったことはなかったで。ワシが言いたいのは、ありがとうじゃ。ほんま、みんな、ありがとう」

 感極まった大崎分団長は嬉し涙を浮かべている。保さんも、嬉しさに感極まったのか、もらい泣きをしている。

「橋本は知っとるけど、三島も松崎も、今までこの分団がどんなところじゃったか知るまい。あんまり人数が揃わんので、一ノ城分団と合同で秋季査閲をしたこともある。出初め式で8人しか揃わんで、団長から注意を受けたこともある」

 大崎分団長は、これまでの苦い経験を思い出しているようだった。

「悔しかったのー、保ちゃん」

「これからですよ、分団長。若いのも揃ってきたし、団員の意識も変わってきたし、思い切って厳しい練習しようと決めたんは、やっぱり正解じゃったんですよ」

 大崎分団長は、ビールをぐいぐい飲みながら満足そうだった。大崎分団長の買ってきたビールは、屯所の冷蔵庫を満杯にしていた。

「若いもんを捕まえる、そして、徹底的にしごく。逃げられる危険もあるが、消防団は絆が大事なんじゃ。その絆を作る機会を与えてやらにゃあとは思うとった…」

 大崎分団長は、岡野団長から仲野県指導員に引き合わされた日を思い出す。ポン操訓練開始の2日前だった。

 埴生の商店街は、日曜日に店を閉める店舗が多かった。日没も近付いた土曜日、大崎分団長は、店仕舞いをしながら岡野団長からの電話を受けていた。

「この間の会議は、押し切ってしもうて悪かった」

 何が押し切ってねぇ。最初っからシナリオは決まっとったんじゃなぁーか。

 大崎分団長は、押し黙ったまま受話器を握っていた。

「前に言うたじゃろう?」

「前って、何です」

「ポン操大会の件で、仲野君に任す言うて」

「ああ、あれですか。今、忙しいんですよ。店仕舞いの途中で」

「まあ、ちょっと待ってくれ。手短に話そう。来週から訓練なんじゃろ。今日、仲野君と引き合わすから時間を作ってくれないか」

 岡野団長、あの石頭とどんな話をせー言うんね。

 大崎分団長は戸惑っていた。

「会うたら分かるけー、7時にゃあ、そっちへ行く」

 岡野分団長の電話はそれで途切れた。

 強引じゃのー。

 そう思っていた大崎分団長は、仕方なく近くの喫茶店で仲野県指導員に会うことになった。今東光の悪名にも登場した女傑、麻生イトの住んでいた和風住居を改造した店で、入り口はコンクリートの打ちっぱなし、内部は一部を白い壁で改装してある。

 店の奥に入ると幼なじみのマスターが話しかけてきた。

「どうしたん?深刻そうな顔して……。大崎がそがーな暗い顔しとったら魚臭いだけじゃろう」

「うるさいわい。今から、消防団の偉いさんが来るんじゃ」

「そう突っかかるな。それで、どんな話ね」

 大崎分団長は渋い顔をしている。それでもマスターは引き下がらない。

「えーじゃないか。話ぐらいせーや。同級生じゃろうが」

 マスターは勿体付けるなとでも言ってるようだった。

 しゃーないのー。こいつに話しても埒が開かんのじゃけど。

 大崎分団長は、消防団の事には無知なマスターに同級生のよしみで渋々とその事情を話して聞かせることにした。

「そりゃー困ったのー。面子が掛かっとるわけか。それも、自分じゃあ絶対不可能って思っとるわけじゃろ。じゃけど、正直に話した方がえかろう。できません、言うて」

 大崎分団長は、長いため息を吐いた。

 それが言えりゃあ苦労はせんじゃろう。

「でもな、大崎。断るんも誠意で。中途半端なことをするんが一番いけん。おまえに付いて来る仲間も困ろうが。でもな、おまえに少しでもその気があるんなら、無責任じゃと思うかもしれんが後悔せんようにせーよ。やってみて走り出したら、しめたもんじゃなぁーか」

 マスターは、大崎分団長の肩を叩いてグッドラックのサインを出した。そのサインには、ワシも応援してやる、という意味と、待ち人来たる、というメッセージが込められているようだった。

 仲野県指導員は、岡野団長の後について店内へ入ってきた。大崎分団長の席を見つけると、岡野団長は片手を上げながら挨拶してくる。

「時間を取らせて、すまないねー」

 二人は並んで大崎分団長の真向かいに席を取り、岡野団長はすぐに要件を切り出してきた。

「顔は知っとろう。仲野君じゃ」

 仲野県指導員は、慇懃に会釈し、大崎分団長の目を見据えてくる。

「仲野です。どうかよろしく」

 大崎分団長には、その目つきが挑発的に思えて仕方なかった。

 何の因果でこの石頭と組まにゃあならんのね。こりゃあ、団員をまとめるのに苦労させられるで。

 岡野団長は、大崎分団長の思いをよそに話を進める。

「当面、十一月いっぱいまでは、彼の都合で週三回は、訓練に付く。それ以降は、原則毎日、訓練指導をしてくれることになっとる。仲野君は、これまでにも去年の東観音を始め、県大会出場チームの指導を受け持ってきたスペシャリストじゃ。確かに、今の埴生じゃ県大会どころか来年の大会での活躍も難しい。でも、彼に任せとったら大丈夫じゃ」

 大崎分団長は、居たたまれない気持ちになっていた。

 何が、彼に任せとったら大丈夫ね。町の連中も協力してくれんし、団員の考え方もバラバラで、今さらどう足掻いたってどうにかなるとは思えん。

 仲野県指導員は、眉間に皺を寄せる大崎分団長の表情をじっと見ていた。

 こりゃあ、東観音より重傷じゃのー。完全にトップが自信を失うとる。人数だけなら、東観音も埴生もそう大して変わらんけど、トップの意識の違いだけは決定的じゃ。

 仲野県指導員は、問いつめた。

「大崎さん、やる気はあるんですね」

 大崎分団長は、挑むような目つきで応える。

「やるもやらんも、もう決まったことでしょう。今さら止めるわけにゃあいかんのでしょ」

「そうですか。分かりました。じゃ、県大会の話はなかったことにしましょう」

 岡野団長は、唖然とした顔をしている。

「おい、仲野君、こんなところで君が勝手に決めることじゃなかろう」

「いいえ、いいんです。最初からやる気のない分団に指導したって成果は上がりませんから。それとも、大崎さんにプライドがあって、少しでも消防団をよくしたいと思っているなら話は別ですが」

 プライドという言葉を聞いた瞬間、大崎分団長は怒りに任せて席から立ち上がった。

「何を呼び出しておいて失礼なこと言うとるんね。ワシにだってプライドはあるわい。消防団をよくしたいとも思うとる。じゃけど、現状じゃあ無理じゃから困っとるんじゃろう」

 悔しさと歯がゆさが綯い交ぜになって、大崎分団長の口元を歪めさせる。

 店内は、大崎分団長の怒鳴り声で水を打ったように静まりかえっていた。岡野団長も、仲野県指導員も、じっと大崎分団長の悔しそうな顔を見つめ続けている。

 ふいに仲野県指導員が話し始めた。

「大崎さん、組織というものは、長の一念が大事なんですよ。誰がやらなくても、たった一人でもやり切る。そう思った長がいれば、組織は生き返るんです。大崎さんは、たぶん自信を失っておられる。まずは、そこからスタートしましょう。それがあれば、若者が付いてくるはずです。若者には、鍛えが必要です。その鍛えは、強い絆を生んでくれるはずです。お手伝いしますよ」

 悔しさを噛みしめていた大崎分団長は、その言葉の持つ意味を考えてみることにした。

 長の一念、か。それだけで、埴生は生まれ変われるんじゃろうか。

 落ち着きを取り戻した大崎分団長は、元の席に着いた。

 確かに、埴生には強い絆がない。誇れるような実績もない。でも、ワシらがやらんかったら、この町はどうなる?

 大崎分団長は、これまでの埴生分団を振り返ってみた。

 ポン操大会の訓練だけを振り返っても、大会前までに1ヶ月も掛ければいいほうで、週に2、3回くらいしか行わない。それも、選手が揃う方が珍しいくらいで、人員も揃わず資器材も降ろせないため、資器材を使わないシャドーと言う操法のまねだけの訓練をしたこともある。極めつけは、大会当日になって選手がドタキャンしたこともあり、数年前には大会を辞退したことさえあった。

 このままじゃあいけん、とは思うとる。次の若者にバトンタッチできる体制も作りたい。

 その夜、大崎分団長は、初めて仲野県指導員に胸襟を開いて相談した。その結果、訓練方法も決まり、ポン操大会へ向けての取り組みがスタートしたのだった。

 良行たちは、消防団に入団して日も浅く、そんな事情を一切知らされていなかった。もし、知っていれば、松崎を筆頭にして、この消防団からはとっくの昔に足を洗っていただろう。

 松崎が感極まったように言った。

「最初は、くそっ、思よったけど、こんなに一つのことで燃えたんは初めてですわ。その気持ちが、仕事にも、家族を想う気持ちにまでなって、感謝したいのはワシらのほうです」

 保さんはその言葉がよほど嬉しかったのか、

「そうか、そう思うてくれるんか」と言ってうんうん頷いている。

その横で、缶ビールを片手に大崎分団長が述懐し始めた。

「知ってのように、島方の暮らしは、不便じゃろ。それで、助けおうて暮らしてきた歴史があるじゃ。けどのー、そのつながりも不況のせいで弱まってきとる。自分の生活で精一杯なんじゃ。でも、それでええんか……。そうじゃなかろー。一人一人が期待できる町にせんといけんじゃろう」

 大崎分団長は、思い出していた。十年以上前に経験した造船不況での思い出だった。

 新聞には、「島が沈む」と大きなタイトルが出ている。一流企業の撤退で、リストラの嵐が吹き荒れていた。大崎分団長の魚屋でも得意先が目立って減ってきている。

 いつものように仕入れをして、いつものように店先に立っていた。しかし、客足は底冷えのした出初め式のグランドのように悴んでいた。

 人通りの少なくなった街角でお客を待ちながらぼんやり通りを眺めていると、週に2度ほど買いに来てくれる馴染みのおばちゃんが店先を通りかかった。

「おばちゃん、メダカガレイのええのが入っとるけど、今日は買うていかんの?」

 馴染み客のおばちゃんは、寂しそうな顔をしていた。

「今日は、刺身の舟盛りにするわ」

「えっ?」

 大崎分団長は、その言葉が信じられなかった。祝いの席があるなどとは、そのおばちゃんから聞いていなかったからだ。

「息子がのー、有明の方に転勤するんじゃ。ここの味を覚えとってもらおう思うてな」

 大崎分団長は、言葉を失っていた。

「あんたにゃあ、世話になったのー」

 寂しそうな後ろ姿を見せていたおばちゃんは、その後、息子について有明へ引っ越していった。何人もの馴染み客が別れを告げていく。そのたびに、大崎分団長は寂しさを噛みしめなければならなかった。

「強い絆が大事なんじゃ。それがあったら、たいがいのことは乗り越えられる」

 その場にいた埴生分団の団員たちは、その言葉の意味を深く噛みしめているようだった。

 その晩、良行はほろ酔い気分で家に帰った。帰りつくと、すぐに寝るつもりだった。欠伸をしながら部屋へ入って眠ろうとする良行を、円佳が引き止めた。

「平野さん、言う人から電話があったよ。何か話したいことがあるって」

 冴子の居場所が分かったら電話する、と言っていた平野絵理の言葉を思い出した。

「何時頃?」

「1時間前じゃった、と思った」

 その頃、良行は屯所で大崎分団長を囲んでの宴会の真っ最中だった。

「かけ直させますって言ったら、携帯の番号を教えますから、帰り次第電話してくれって」

 円佳は電話番号を書いたメモを良行に手渡すと、眠そうな目をこすって自分の部屋へ消えていった。

 部屋へ入った良行は、すぐに平野絵理の携帯を呼び出した。

「能島の三島です」

「あっ、はい。ちょっと待って」

 平野絵理は、どこか別の場所へ移動しているらしく、しばらく音が途切れた。良行が何度か呼びかけて、やっと話し出した平野絵理は、少し慌てた口ぶりをしている。

「消防団へ行ってらっしゃったみたいですね。急ぎの用でもないのにすいません」

「何かあったんですか?」

「ええ、あれからもう一度画材店へ行ってみたら、明日、サエの注文した画材が来るらしいんです。でも、それは見本みたいなもので、ほんとの画材が届くのは明後日以降になるらしんです。私一人で行ってもいいんですけど、なんだか一人では行きにくくて」

 急に言われても、仕事の都合がどうなるか良行には分からない。しかも、新年から暇になっているとはいえ、あの主任が休みを急にくれるとは思えない。

「会社、休めませんよね。それに、わざわざここまで……」

 平野絵理は、すまなさそうに問いかけてくる。

「急には、ちょっと難しいと思うんですが」

「それもそうですよね。もし都合が付くなら、サエは明日の午後3時に画材店へ顔を出すそうです」

 平野絵理からの電話は、それで切れた。

 京都、か。

 バイクを使って福山まで出て新幹線を使えば、能島からなら最短で2時間半もすれば京都に着く。平野絵理は、どうしてそんなことを知らせてきたんじゃろう。

 良行は画材店で画材を買っている冴子を想像してみた。自分の居場所を見つけた冴子は輝いているに違いない。合コンから毎日のように会っていた冴子が、別の人格のように思えてくる。

 冴子のお母さんは、別に心配してなかったみたいじゃけど……。

 良行は、心の中に蟠りが芽生えてくるのを止められず、その晩の眠りは浅かった。

 翌日、良行は出社と同時に主任を引き留めて、要件を切り出した。

「主任、昼から用事があるんで、昼前に上がったらいけんでしょうか」

 原図を束ねたバインダーを持ち、良行は思いきって主任に尋ねてみた。

「どうしても行かにゃならん用事か?」

 良行は言葉に詰まった。

「まあ、今は暇じゃから、別にええけど、来週からは頼むで。明日は休みじゃし、ゆっくりしてこい」

 来週からは、発注していた部品が続々と入荷し、忙しくなる日が続く。良行は、事務所に昼前に上がると連絡して、仕事を急いだ。暇だからと言って手を休めていると、仕事が嵩んでくるからだ。

 主任、最近あれこれ言わんようになったなー。

 良行は、新年早々、主任に同行して「やっと口をきいてもらえるようになったってことよ」と言われたことを思い出す。

 良行は、急ぐ仕事を優先させて正午前に職場を離れた。

 家に着くと、良行は平野絵理に電話をかけた。平野絵理は、前日と同じように、

「あっ、はい。ちょっと待って」と言って、しばらくその場から離れるような素振りを見せた。少しの間、通話が途切れる。

「すいません。手が空かなくて」

 平野絵理の弟から聞いた中学の先生だという職種が気になった。

「昼からの休みが取れたんで、今から行こうかと」

「ほんとですか。それじゃあ、2時半に京都駅の南側の構内で待ってます」

 平野絵理は、手短に打ち合わせをすると、電話を切った。

 新幹線に乗車する。京都へは、あっという間に着いたような気がした。平野絵理に指示されたように、駅構内の南側へ向かうと、すでに彼女は良行を待ち受けていた。

「きっと来てくれるって思ってました」

 平野絵理は、小首を傾げて笑顔を見せた。二人は、駅構内を通り抜け、タクシー乗り場へ向かう。構内の雑踏が、二人を緊張させていくようだった。

 サエは、驚くじゃろうのう。

 タクシーの順番を待つ間、良行は落ち着かなかった。

 二人に順番が回り、タクシーに乗ると、平野絵里は、ぽつりと呟いた。

「サエと喧嘩しちゃった手前、一人で会いに行くのが恐くて」

 良行は、どんな原因で二人が喧嘩したのか、その理由を聞きたいと思ったが、そのことよりも冴子にどんな顔をして会っていいのか戸惑っていた。

 ここまで来たら、シャレじゃあ通用せんなー。

 彼女は、良行が前に来たことのある河原町三条の近くでタクシーを降りた。

「近くなんですか?」

「そんなに遠くじゃないですよ」

「ここ、この前に来たとこですよ。弟さんに二人が行きそうなところだと教えてもらって」

 彼女は、そのことには何も答えようとしなかった。ただ黙って良行を案内していく。しばらく賑やかな通りを歩いていくと、彼女は急に立ち止まった。

「あの角に見えてるのが、サエの使っている画材店です。サエと学生時代に共通の師匠だった水谷一正画伯も使っている店なんですよ。たぶん、まだサエは来ないだろうと思いますから、喫茶店で時間を潰しましょう」

 平野絵理は、再び無口になった。画材店の近くには大きな喫茶店があり、土曜日の午後を楽しもうという人たちで賑わっている。店内へはいると、二人は、画材店の見える窓際に席を取った。

ウェイターにコーヒーを注文して、二人は共通の話題を捜そうとした。しかし、二人は、今さらながらサエを通しての話題しかないことに気付かされる。

 良行は、雑踏を眺めながら質問した。

「サエと、どんな喧嘩したんです?」

 彼女は、そのことに答えようとしない。沈黙が続いた。

「モデルになるって、どんな気分です?」

 唐突に彼女が質問してきた。良行は、興味深そうに自分を見つめている平野絵里に、どぎまぎして答えた。

「どんな気分って、最初、モデルをする気はなかったんです。見せたいものがあるからって、家に行ったら、完成間際の絵があって。それから、いきなり命令口調でモデルをさせられて、それからずっと、どういうわけか続いてるって感じです」

「いきなりモデルにさせられたんですか」

 彼女は可笑しそうに笑った。

「サエらしい」

「弟さんに聞いたんですが、学生時代に弟をモデルにしようと二人で追い回してたらしいですね」

「変人コンビ、なんて言ってなかったですか?」

 彼女は悪戯っぽく笑った。

「まあ、それに近いことは……」

「弟は嫌がってましたからね。でも、それが面白いからって、サエは私と二人で弟をからかってたんですよ」

 彼女は、窓から見える通りを眺めながら、その時のことを思い出しているようだった。

「今日、三島さんを呼んだのは、実は」

 彼女は、そう言いかけて、躊躇っている。

「実は、何です?」

 彼女は思い詰めたような表情をしている。

「サエが会っている画材店の店主、実は私の婚約者なんです」

 良行は、彼女が何を言いたいのか分からなかった。ただ、正体不明の疑問だけが膨らんでくる。

 画材店の店主が平野絵理の婚約者?

「それと、サエのことと」

 彼女は、そう言いかけた良行を遮った。

「二人は昔、付きあってたんです。友だちだと思ってたサエとケンカしちゃったのは、それが原因なんです」

呟いたその言葉には、良行にうむを言わさない響きがあった。

 サエと昔付きあっていた人物。平野絵里が友だちだと思っていたサエとケンカする理由。

 良行には、その意味を考える余裕がなかった。

京都に行ったサエが昔の恋人と会っている?

良行にはその言葉だけが頭の中で蠢いてくる。

 平野絵里は、そのことを知らせるためにオレを京都まで呼んだんか?

 冷静さを失った良行は、彼女の顔をまともに見ることさえできずに、じっとコーヒーカップを見つめていた。冷めてしまうと急速にカップの中の黒い液体が魔力を失っていくように、良行の心は嫉妬にかき乱されながら不信感を募らせていく。

 二人の沈黙が、真夜中の闇のように押し寄せてきた。

「ボクに、どうしろって言うんですか」

 怒りにも似た感情が突き上げてきた。彼女は、じっと押し黙っている。バイクのパンクは、最初は小さな振らつきにしか感じられないが、次第にその振らつきは大きくなってくる。その振らつきが極限に達すると、最早コントロールは不可能だ。

 ふいに、彼女は立ち上がった。

「サエと会ってくれます?サエの心を確かめるために。もうすぐサエが来る頃です」

 良行の内心は、葛藤で揺れている。

 どうしてワシが、昔付きあっていた男と会ってるサエの気持ちを、わざわざ確かめにゃあならんのな。ワシを呼んだ理由がそれなら、ワシはどうすりゃあえんね。

 その時、窓の向こうに冴子の姿が写った。次の瞬間、画材店のドアが開き、平野絵理の婚約者という男が冴子を迎えに出て来るのが見えた。平野絵理の婚約者という男は、冴子の肩に手を回し、親密そうに冴子と店内へ消えていく。

 良行の心の中で、何かが砕け散ったように思えた。

「ボクは、帰ります」

 そう言うのがやっとだった。喫茶店の支払いを済ませ、それから先、自宅へ帰り着くまでの記憶がない。

 打ちのめされた良行は、その夜からポン操の練習に参加する気力を失っていた。

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