器具を置け
厚さ30ミリの鉄板に、半径80センチの円を描く。その円をガスで切り抜いて、その回りに15個のボルトを締め込めるように直径3センチの穴を開け、さらにそこに曲げの加工が加わる。設計図面上で明快に答えの出ている作業には違いない。
「三島っ、描いてみろ」
主任は良行に指示する。
コンパスを使って円は簡単に描けた。しかし、15個の穴を開ける場所は、曲げの加工が加わるため簡単には決められない。
良行は手間取っていた。
「誤差が出るのに気付いたか?」
主任はニヤッと笑う。
「ワシらの仕事はこういう仕事なんじゃ。ペンで印一つ描くにしても、一つ一つ違う目的がある。鉄に曲線を描くっていうのはそういうことよ。誤差に気付けば一人前じゃ」
会社に入り立ての頃には慣れなかった作業靴のつま先で、主任は良行が円を描こうとしている鉄板を軽く蹴ってみせる。工場内で電気溶接工の閃かせる青白い光りが主任の顔を照らし、主任はその図面を元にして鉄板に線を入れていく。
「後の作業は、前原さんと一緒にせぇ」
主任は良行の肩をポンと叩くと、事務所へ向かう。一緒に仕事をしろと指示された前原さんは、ペンを手に、すでに鉄板の上を歩き回っていた。前原さんは松崎の婚約者、佐々木法子の実の父だった。
「主任に指示されて来たんですが、何をすればいいんです?」
「取りあえずグレンでこいつを移動させてくれ」
前原さんは、図面を描き終わった鉄板の移動を良行に指示する。いつもグレン操作している中村さんは、インフルエンザのため仕事を休んでいた。鉄板を扱う場合、玉かけの要領は結構難しい。ワイヤー一つ掛けるにしても、良行はもたもたとしている。休んでいる中村さんなら、所定の位置でグレンをピタリと止めて、すぐに玉かけできる体制に持っていく。良行にはそれだけの技術はない。
前原さんは、駆け落ちする前にもこの会社に籍を置いていた。主任と同じぐらいのベテランだったが、5年のブランクは二人の地位を逆転させている。職場に復帰できたのは主任が前原さんの以前の仕事ぶりを知っていたからで、普通の会社だったらこういうケースはまずないだろう。
徒弟制度、ギルドの世界がここにある。
「三島君、午前中の仕事じゃ」
前原さんはバインダーに挟んだ図面を良行に渡す。
「ワシは向こうから、三島君はこっから始めてくれ」
電気溶接の振動音と青白い閃き、金属加工独特の匂い、吹きっ晒しの現場の、身体を硬直させていくような寒さの中、巨大なグレンが回転し、工場の敷地内は巨大な生き物がうごめいているような感じがする。この場所にいると、秋本冴子の居場所のことなど良行の頭のなから消えていくようだった。ただ、主任の描いてくれた見本を見ていると、
「美しものには必ず場所がある」と言ったゴーギャンの言葉が思い出される。
無言のまま仕事に没頭する良行には、前原さんの仕事ぶりが分からない。前原さんは、時々、手を休めて、良行の仕事ぶりを観察しているようだった。大方正午近くになって、二人の仕事は一応仕上がった。
「昼までまだ間があるけど、事務所に報告しに行くついでに、コーヒーでも奢ってやろう」
前原さんは、先に立って工場内の広い道路の端を歩いていく。能島市の一般道より、ともすれば工場内の道路の方が広い。
「娘さん、5月に結婚決まりましたね」
以前、松崎とノンちゃんから頼まれていた要件をすませるには絶好の機会だった。しかし、前原さんは良行の方を振り向こうともしない。この情報が前原さんに伝わっていないはずはないのに。
前原さんは、事務所に午前中の仕事の報告をすると、まだ誰も上がってきていない休憩室へ入って行った。そして、良行のために自動販売機でコーヒーを買ってきてくれた。
良行にコーヒーを手渡した前原さんは、俯いた顔に厳しい表情を覗かせている。話しかけるなとでも言っているような表情だった。休憩室の窓からは、薄曇りの仄かな光が拡散し、鉄板にグラインダーを掛けている音や、ハンマーを打ち付ける音が響いてくる。
前原さんは、俯いたまま良行に話し始めた。
「法子には悪いことをしたと、今でも思っとる。あいつの母親とは、知り合いを通じての見合い結婚じゃったが、結婚してからずーっと気が合わんかった」
前原さんは独り言のように話し続ける。
「気が強い女で、一人娘のことしか気が回らんし、最初のうちは、それでもそういうもんだと納得しとった。でも、法子が小学校へ入った頃から、ワシはもう、自分を偽ることに飽きてきた。ワシがこの島から出たのは、その頃に惚れられた女に居場所がなかったからで、気が付いてみればワシにも居場所がのうなっとった。ワシが三島君にこんな話をしても分かってもらえるとは思わんが、法子の結婚式には出んつもりなんじゃ」
前原さんは、良行には何も言わせないという厳しい横顔を見せて話し終わった。
前原さんは、松原とノンちゃんにメッセージを送ったと思っているに違いない。
結婚式には出んつもり。
良行には、その言葉が脳裏にこびり付いてくる。そこには、一人娘の結婚式に出ないと決めた父親の寂しさが滲んでいるようだった。
ふいに、ノンちゃんの顔が浮かんできた。
「これはボクが言うんじゃなのうて、ノンちゃんからのメッセージだと思って聞いてくれますか?」
良行は、松崎から佐々木法子と結婚すると打ち明けられた日、彼女が良行に言った言葉をそのまま前原さんに伝えた。
「お父さんは、気が弱いんよ」
前原さんは、その言葉をぐっと噛みしめているようだった。
午後からも前原さんと組んで同じ仕事が続く。良行の描いた線を見て手直しする以外に、前原さんは一言も話さない。良行が前原さんから手直しを受けているとき、京都の平野絵理から電話が入った。
「ちょっといいですか。京都から友だちが電話してきてるみたいなんです」
断りを言った良行は、それまで一言も話さなかった前原さんから、
「早めにすませろよ」と許可をもらった。良行は、現場から少し離れたところで話そうと思い、通話ボタンを押しながら作業場の外へ出ようとした。
「今、仕事中なんで、ちょっと移動するから」
「ごめんなさいね。別に急用というわけじゃないんだけど、サエと喧嘩しちゃって」
サエと喧嘩?
良行は足を止めた。冴子は平野絵理の家に泊まっているはずだった。京都で平野絵里に会ってから、今更、冴子の所在を確認する必要がないと思っていた良行は、未だに冴子との連絡が取れていなかった。
「それって、どういうことです?」
「つまり、今朝からサエ、いなくなっちゃって」
「連絡は?」
「だから、知らないかなって、思って」
言葉に詰まった良行は、黙っているしかなかった。
「そう、知らないんですね。じゃあ、また連絡します」
平野絵理からの電話はそれで途切れた。
あいつ、どうするつもりなんじゃろ。泊まる場所ぐらい確保するじゃろうけど。連絡してくれんと心配しようがぁ。それに二人が喧嘩したって言うとるけど、何があったんじゃろう。
良行は仕事に戻ってからもそのことが気になってくる。ぼーっとしているつもりはなかったが、手が止まっているところを前原さんに何度か指摘された。
「まあ若いけー、色々あるんだと思うが、悩み事を職場に持ち込むなよ」
その日から二日間、冴子からも平野絵理からも全く連絡が入ってこなかった。