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放水中止

 良行の仕事は年末の忙しかった頃に比べると格段に楽になっていた。能島の造船業そのものは新造船を止めて斜陽になっているが、修繕船は今までと同じようにドック入りしてくる。年末に眉をつり上げて仕事をしていた主任も比較的のんびりとしている。

 良行は、部品の発注をするため、島の北側にある鉄工団地へ行く主任に同行していた。中堅クラスの造船所がある内海町を通り過ぎ、巨大なとげ抜きを二つ並べたような生口橋が見えてくる。

 主任は、いつも無口で、仕事の指示をする以外口をきかない人だったが、この日は良行にしきりに話しかけてくる。良行の前に勤めていた会社がどうして倒産したのか興味を持っているようだった。良行はその経緯をかいつまんで説明した。

「そんで、前の会社は倒産したんか。わしらも同じ経験したよ。新造船の事業部が撤退して、一緒に働いとった仲間が一人二人と各地の出向先へ飛ばされるかリストラされる。ワシは古参の方じゃったから、若いもんを残すように動いたんじゃけど、会社は、若手を育てるもんがおらん言うてのー」

 主任は、対岸の生口島を黙って見つめている。

 寂しいもんよ。人が別れる時っちゅうのは。すれ違っても目を合わせようともせんかった。ワシゃあ、それじゃいけんと思った。けじめを付けて別れられたら、違う人生もある。

 主任はその頃の苦い思い出を振り返っていた。

 一緒に汗を流した。しんどい思いもした。朝まで飲み明かしたこともある。そんな仲間が、バラバラになって、離ればなれになっていく。血の通った人間なら、耐えられん思いをしとったはずじゃ。

主任は、ふいに話し始めた。

「事業部がなくなる日、ワシらは最後のお別れ会をしようということになったんじゃ…。店一軒を借り切って盛大にやったわ。でも、別れ際になったら、もう、涙々でのう。あの日のことは一生忘れられん」

 主任は、目頭を押さえて、その日のことを思い出しているようだった。その主任は、いつも合理的な仕事をするようにと良行に指示する。

「手が暇なときは、みんなでくつろいどってもええんよ。杓子定規に、いらん仕事までみつけて仕事する必要はないじゃろ。やる時はやるでええんよ」

 この2年間、ろくに口をきいてくれなかったのに。

 良行は饒舌に話す主任が不思議に思えてくる。

「主任とこんなに話したのは初めてですね」

 主任は、交差点の信号待ちで良行の顔をのぞき込んでくる。

「仕事が分からんやつに、あれこれ言うてもしょうがなかろう。三島は、やっと口をきいてもらえるようになったってことよ」

主任は愉快そうに笑った。


 ポン操の訓練は、松崎の首宣告事件が解決した翌日から厳しさを増してきた。仲野県指導員は、大会が終了するまで、べったりと埴生分団につくという。

 計時タイムが平均して55秒を切るようになってくると、仲野県指導員は節度の重要性をますます重視してきた。資器材ではどうしても他の分団には勝てない部分があるという理由からだ。

「ええか、いくらタイムが早ようても、しょうもないところで減点されたら、せっかくの苦労がふいになろう。隊員一人につき二人の審査員がついて、減点されれば小数点まで計算されるんじゃ」

 整列時の気を付けの姿勢は、手の平をぐっと揃えて開かず、その中指はズボンの縫い目に沿ってしっかり伸ばす。つま先の開き角度は約45度で、体は背筋を伸ばし、やや前傾姿勢を取るようにする。視線は真正面を見て、けっして目を動かさない。自主整頓をするときは、相手の胸を見て整列する。一番員は、列に歪みがあったら、

「2番員、前。……よし」

「3番員、後。後、……よし」

というように、微調整することを忘れない。整列中の2、3番員は、右手の位置に気を付けて、肘から先と手の甲が一直線になるように意識する。集合線までの5歩間は、テンポ良く3人が揃って走れるようにする。腰の所で、しっかりと腕を振り、3人の呼吸が合って走っていることを審査員にアピールする。

 何度も「節度」を重視した同じ訓練が繰り返される。その都度、どこかで失敗すると仲野県指導員の叱責が飛ぶ。

「おまえら、悔しゅうなかったんか。出初め式であげなことを言われて。大会まで、実質1ヶ月とちょっとしかなぁーんど」

 出初め式、というボタンが押されると、ポン操要員の4人だけでなく、訓練支援に来ている大崎分団長以下、全ての団員が唇を噛みしめる。


 弱小分団と蔑まれている埴生分団でも、年に一度の消防出初め式には華やいだ雰囲気がある。能島市中の消防職員、消防団員が一堂に会し、今年一年災害がない年であるようにと祈り、誓う行事だからだ。しかも、終了後の反省会も規模が大きく、いつもの行事の比ではない。町の世話役や市会議員まで集め、公民館を借り切ってのどんちゃん騒ぎが恒例となっている。

 出初め式の当日、大谷は出発前の屯所で浮かない顔をしていた。

「どうしたんね、何か心配事でもあるんか?」

 橋本班長が心配して声をかけている。

「俊美のやつ、妊娠中毒症の兆候がある言われとんです」

「トッちゃん、妊娠中毒症か。そりゃあ大変じゃが」

「今んとこ大丈夫みたいなんじゃけど、今朝になって出初め式の見学に来れん言うから、問いつめてみたらそういうことで」

「むくみが出とる程度か?」

「詳しく聞いてないんで、分からんのですが…」

 橋本班長は、大谷が妊娠中毒症についての知識を持っていないと判断したようだ。

「ええか、トッちゃんは初産じゃろう。だいたい妊娠中毒症言うのは、一般的に1割ぐらいの人は罹るらしいんじゃけど、初産の人の場合、その6倍ぐらいは罹るらしい。軽症なら誰にでもなる可能性があるし、産婦人科の先生の指示に従っとけば、だいたい大丈夫よ」

「はあー、そういうもんですか…」

 大谷は橋本班長が薬剤師をしていると知っていたので、少し安心できたみたいだった。

 二人が話していると団員も一人二人と集まってきた。

「おい、三島っ、全員分のコーヒー買ってこい」

 大崎分団長から財布を渡された良行は、屯所から500メートルほど離れた自動販売機までコーヒーを買いに出かける。そこで良行は、松崎がカブの後ろにノンちゃんを乗せて屯所へ向かっているところを見かけた。ノンちゃんは、松崎の体にしっかり抱きついて笑顔を見せ、二人して良行に手を振ってきた。

 あいつら、ラブラブじゃのー。

 ノンちゃんは、松崎との結婚が正式に決まると惜しまれて鶴姫を辞めた。それ以来、松崎は、ノンちゃんにポン操の訓練見学にまで来させて、他の団員たちの冷やかしを受けるたびに嬉しそうにしている。

 良行は相変わらず冴子のモデルをしていたが、松崎たちほどラブラブな雰囲気ではない。

 サエのやつ、最近、没頭しとるからなー。

 サエのスケッチブックは、良行だけを描いたものだけで、すでに2冊目になっていた。構図に迷っているのか、デッサンしている間に考え込むことがよくあった。

「私の居場所、か」

 冴子はデッサン中に時々、独り言を呟く。

 無論、良行にはその意味が分からない。

 屯所へ帰ってくると、橋本班長が慌ただしく電話をかけている。

 事情を知っている石橋さんが良行に説明してくれた。

「来る言うとったのが、来れん言うてきたらしい。幽霊が多いけ、困ったもんよ」

 幽霊団員はどこの分団にも存在するが、埴生分団には特に多かった。在籍しているにも関わらず、災害現場にも行事にも全く参加しない団員のことだが、人数の少ない埴生分団では、それでなくても執務手当てが少ないので、必要以上に幽霊団員を切れないという事情がある。執務手当てとは、災害現場への出動以外に、訓練などの出動にも出される臨時手当てのようなもので、参加人員の数によって分団に支給される額に差が出る。各分団の運営費のほぼ全てはこの執務手当てに頼っているので、人員が少なくなることは分団の懐具合を苦しくすることにつながってしまう。

「今日、何人参加する言うとるんです?」

「今のところ、分団長を入れて16人じゃ」

「それって、旗手の保さんと分団長が列から外れるけー、入場行進の時、真四角にもなれん言うことですか」

 号をかけて右向け右すると、2列横隊は4列縦隊になる決まりだが、4×4の16人で真四角、埴生分団のように人数が少ないとその真四角にもなれない。

「三好さんは機関員で外れるし、そう言やあ、智史さんも機関員じゃったろう。それにおまえも赤バイに乗るんじゃなかったんか?旗手の保さんも分団長も外れるしで。すると、分列行進するのは、たったの11人……」

「縦の列より横の列の方が短いことになるんですか」

 絶句した良行を見て、石橋さんはため息を吐いた。

 結局、埴生分団の出動人員は16人のままで、会場になっている埴生中学校へ出発することになった。良行だけは赤バイに乗車するため、本隊から外れ、能島消防署へトライアル車で向かった。

「埴生の三島です」

 署に到着すると、1階にある司令室で待機している署員に声をかけた。

「おまえが三島君か、一回だけ乗りに来てたよな」

 署員は皮肉を言う。

 確かに良行は、年始から1回しか赤バイに乗っていない。それも、ポン操の練習に来る途中に年末の分団長の指示を思い出して実行しただけだった。

「ユニフォームとヘルメット、それにグローブはそこの棚に入れてある。勝手に装備して行きゃあええ」

 署員はぞんざいに指示を出す。

 いやな予感がした。

 用意されたユニフォームを着込んで赤バイに乗ると、やはり普通のオフロード車より重い感じがする。オフロード仕様に250㏄のエンジンが付き、赤色灯、サイレンやサイドボックスが装備され、おまけに、後部シートの部分に、電動ジェットシューターを入れるためのボックスまで取り付けられている。良行は前に一度乗って、ライディングしにくいこの赤バイにうんざりしていた。しかし、吹き上がりだけは良く、フロントは意外に軽いようだった。

 会場の入口に到着すると、アトラクションや餅の振る舞いなどが予定されていたためか、見学者が意外に多いことに驚かされた。区長会の人や市議会議員、それに一般の見学者も加わって、ポン操の練習の時にはがらんとしているグランドが狭く感じられた。

 赤バイを署員の指示で所定の場所に停車させると、良行は辺りを観察した。

会場は予想外に賑わっている。餅の振る舞いがある校舎の玄関先に設えられたテントを見ていると、おでんなどのバザーもあり、どうやらそれが人を呼び込んでいるようだった。出初め式の見学には、ノンちゃんと千里、それにどういうわけか敏明までがくっついて来ている。千里は敏明と並んで、ご機嫌そうに良行に手を振ってくる。冴子はどうやら来ていないようだった。

昨日誘うたときは、来る言うとったのに……。

冴子のいない出初め式が急につまらなく思えてくる。しかも、良行の着ているユニフォームの革ジャンは、ごわごわして着心地がよくなかった。

 安うにあげとるんかの。

 経費節減という言葉が脳裏に浮かぶ。

華やかな会場の様子を眺めていた良行は、一緒に赤バイ隊員に選ばれた団員から軽く肩を叩かれて合図を受けた。横柄な態度だった。この団員は、一緒について来いと指示を出したつもりに違いない。

 えらそーに。

 良行より少しだけ年長らしいその団員は、どうやら鏡庄の団員らしかった。鏡庄分団の積載車を取り囲んだ団員と親しく談笑して、その団員は団本部のある本部テントへ向かっていく。その間、良行の存在は無視されたままだった。

 本部テントには仲野県指導員の姿も見えた。良行が儀礼用のスーツに着替えている仲野県指導員の姿を見るのは初めてだった。

「三島君、今日の指示はワシが出すからな。宮地君、内海分団の村上君と組んで走行順なんかを打ち合わせとってくれ。宮地っ、頼むで」

 仲野県指導員は、宮地という鏡庄分団の団員に目配せした。

 赤バイの待機場所では、内海分団で部長をしているという村上という団員が指示を出した。

「三島君は最後列から付いてこい。号令はワシがかけることにする。赤バイを降りたら、一歩前に出て、気を付けの姿勢をして、すでに並んで待っているワシらの方を向いて自主整頓するんじゃ。まあ、見とったら分かるからな。簡単なもんよ」

 内海分団の村上部長は、しきりにリラックスしろと良行に指示する。

 式典が開催されるまでのカウントダウンが始まると、緊張感が一気に高まってきた。

 緊張している良行をちらちら見ていた鏡庄の宮地は、

「転けるなよ!」と良行に囁く。まるで足手まといだと言わんばかりだ。

 なんじゃ、こいつ。なめとんのか!

「あんたこそ転けなよ!」

 良行もやり返した。二人のやり取りは、先頭に立つ村上部長には聞こえていない。

 赤バイのエンジンを始動させ、いよいよ式典開始の合図が出された。

 遠目に埴生分団の11人が分団長と旗手の保さんの後について行進していく。

 バカにしたように宮地が呟いた。

「変則の3列か」

 良行にはやり返しようがない。

 各分団の積載車が入場して所定の位置に着くと、いよいよ良行たちの出番だった。署員が旗を持って、入場の合図を送る。

 先頭の村上部長がゆっくりと赤バイを発進させる。続いて宮地が発進させ、良行の番になった。

 ゆっくりとアクセルを回し、クラッチを合わせていく。埴生中学校の校舎側には大勢の人だかりができている。その中でノンちゃんと千里、それに敏明の3人が良行に手を振ってくる。

 冴子はいなかったが、晴れがましい気分だった。

 事件は、良行が最初のコーナーを回ったときに起こった。

 本部席テントの方向を向いて良行が赤バイをコントロールしていると、宮地がとんでもない行動に出たのだ。しかし、これはバイクを乗りこなした経験のある者でしか分からないことだろう。

 コーナーを立ち上がってきた良行に砂が飛ばされてきた。

 前輪に微妙なブレーキをかけ、車体をコントロールさせながらアクセルをふかす。すると、バイクはゆっくりと進んでいるが、後輪は高回転でスピンするため、タイヤのブロックが砂を噛んで後方へまき散らす。アスファルトなら白い煙でも出るところだが、砂地のグランドでは後ろに向かって砂が巻き上げられることになる。

 装備品にゴーグルはない。良行の目に砂が入った。

 やりゃあがったな。

 痛さを我慢してバイクをコントロールしても、とっさに車体のふらつきまでは制御できなかった。クラッチから手を離して、特に砂が目の奥まで届いているような左目をグローブを着けたままの手で触ってみる。目の中の砂は、どうやら第2コーナーを回って式台に向かう途中、辛うじて取れたようだった。

 じっと先を行く宮地の赤バイを見ていると、また同じような素振りが見える。

 調子に乗りやがって。

 そう思うと同時だった。さっきと同じように砂が飛んできた。

 良行はとっさにアクセルをふかせた。砂が良行めがけて飛んでくるのと同時にフロントが持ち上がる。ちょうど、市長が敬礼している前をウイリーして通過することになった。

「おーっ」という歓声が見学者からあがる。市長も驚いたように良行の乗った赤バイを見つめているようだった。

 3台の赤バイは、何事もなかったかのように、所定の場所に到着した。

「おまえ、わざとやりやがったな」

 式典の最中、小馬鹿にしたような顔の宮地に小声で囁いた。宮地は無視し続けている。

 良行にとっては、長い式典が一瞬で終わったように感じられた。

 式典が終わり、赤バイを所定の場所へ移動させると、二人はすぐに仲野県指導員から呼び出された。

「何やっとるんじゃ、おまえらは!」

 絶句して仲野県指導員は睨みつけている。

「入場行進でウイリーしたやつは、後にも先にもおまえだけじゃ。それに宮地も宮地で、あんなまねをしやがって。他の奴には分からんでも、ワシにはおまえのやったことが全部分かっとる。恥だと思え、恥だと!」

 もし、仲野県指導員に呼び出されていなかったら、たぶん良行は式典後、宮地と殴り合いの喧嘩をしていたに違いない。しかし、この事件の影響は、その後に続くアトラクションにも引き継がれることになった。

 後で聞いた話では、鏡庄の宮地は、埴生の赤バイのやつは新人のくせに生意気な奴だと言いふらしていたらしい。能島弁では、こういう場合「おどくさい」という表現を使う。仲間意識の強い分団では、一人の団員の敵は全員の敵になる。

「おまえ、すごいじゃん」

 事情を知らない松崎は、尊敬の眼差しで良行を見ている。

「違うんじゃ。ありゃあ、わざとじゃないんじゃ。前を走っとった鏡庄の宮地とかいうやつが、わざと後輪にスピンかけて、砂をかけてきやがったから、それでフロントをとっさに浮かせただけじゃ」

「でも、ものすごう派手に決まっとったで」

 連続放火犯を捕まえた石橋さんも話しに加わってきた。

「市長が目をまん丸にしてビックリしとったなー」

「石橋さんは、年末の新聞で、例の放火犯逮捕の記事でもって写真付きで出とるから、もう目立っとるけど、もしかしたら、ヨッちゃんも新聞に出るかもしれんで」

「写真付きか。格好ええのー、三島っ」

 松崎と石橋さんの話はだんだんとエスカレートしていく。

「何を無責任なこと言うとるんね」

 怒った良行は、二人の会話を制した。

「ワシら、あいつらにバカにされとるんど。そいつ、埴生の入場行進見て、変則の3列ってぬかしやがった。小馬鹿にしやがって」

 その話を聞いていた野島班長が口を挟んできた。

「あいつら、ワシらを弱小分団と言うてバカにしよる。そりゃあ5部150人もおったらそう思うじゃろう。赤バイに乗っとるやつなんか、はっきり言って、あいつらの中じゃエリート中のエリートよ。それが、新人が赤バイに乗っとるんじゃけ、ムカついたんじゃろうで」

 野島班長は、良行に冷静になるよう促した。

 出初め式のアトラクションは続き、全分団で争う消防団レースに招集がかかった。これは、消防団の法被、防火服、土嚢、ジェットシューター、丸太切り、コーラの早飲みなどのそれぞれの課題をリレー方式でクリアーしながら順位を競うもので、選手は各分団全員で10人が出場する。良行は足の速さを買われ、第一走者の法被を着てコースを走る役を任されていた。

 良行たちが集合場所に到着すると、すでに他の分団の選手は集合している。その中に鏡庄分団もいて、宮地の姿もあった。宮地の方もレースに参加する埴生分団を意識してか、良行たちの方をちらちらと見ている。

 気分の悪いやつじゃ。

 良行はそう思いながらも、無視して自制することにしていた。野島班長からも念押しされたし、これ以上混乱させたら大崎分団長や仲野県指導員に迷惑が掛かると思ったからだ。

 入場行進の曲がかかり、選手は7分団が7列縦隊のままグランド中央に整列した。選手を引き連れて入場行進した署員が岡野消防団長にレース開始の報告をする。その間、良行は鏡庄分団の動きを見逃さなかった。鏡庄分団の選手は良行を指さして、ひそひそと何事か囁いていたのだ。それがどんな意味を持つのか、良行には分からなかったが、いやな予感だけが頭をもたげてきた。

 あいつら、また何か仕掛けてくるんじゃなかろうのー。

 ちらちらとこっちを伺っている宮地を見ると、そんな予感がした。

 その予感は的中した。

 最初、埴生分団は、第一走者の良行のお陰で他の分団を大差で引き離していた。それが第2走者の大谷、第3走者の植野部長になって縮まってくると、第4走者のジェットシューターを任されていた松崎のところで最初の事件が起こった。鏡庄分団の第4走者はくだんの宮地で、宮地は松崎のジェットシューターを掴んで松崎を追い越したのだった。必死の追走も空しく、松崎はトップの座を明け渡し、次の第5走者、丸太切りをする三好さんにつないでいった。

 暗雲が立ちこめだしたのは、たぶんこの頃だったに違いない。

 まだ2位をキープしていた埴生分団は、トップの鏡庄分団との差も広がっていなかった。しかし、三好さんはここで3位の内海分団にも追いつかれることになってしまった。ただ、課題の丸太切りは、埴生分団も内海分団もほぼ同時に終わり、二つの分団が鏡庄分団を追いかける展開となった。しかし、鏡庄分団の選手は差を広げようと思えばできたはずなのに、二つの分団との距離をわざと保っているように感じられるのだった。それでも、痔持ちの三好さんの走りは遅く、内海分団にも徐々に差を広げられていく。

 第6走者の野島班長の番が回ってきた。

 三好さんから受け取ったバトンを手にすると、野島班長は脱兎の如く走って内海分団を追い越し、トップを行く鏡庄分団に追いついた。僅かに早く鏡庄分団の選手がコーラを飲み始めている。鏡庄、埴生、内海の順で各分団が壮絶なコーラの早飲みが展開された。

 決定的事件はそこで起こった。

 最初にコーラを飲み終えた鏡庄分団の選手は、何を思ったのか、飲み終えたコーラのビンをわざと落としたように見せかけてしゃがみ込み、野島班長が再スタートを切った足元へ正確に転がしたのだ。

 大歓声の中、埴生分団の団員の声はかき消されている。

 コーラを飲み終えて追走に入ろうとした野島班長は、まるでスローモーションのようにコーラのビンに足を取られると、グランドに突っ伏していた。

 良行は、舌を出して喜んでいる宮地の様子を見逃さなかった。良行は、隣にいた内海分団の選手や白滝分団の選手をかき分けて、鏡庄分団に迫ろうとする。後ろからは松崎、そして植野部長、三好さんが続いてくる。

 良行が宮地に殴りかかろうとすると、良行は植野部長に羽交い締めにされた。松崎も三好さんに羽交い締めにされている。一発触発のにらみ合いが続いた。

 審判を兼ねている署員がそこへ飛び込んできたのは、野島班長が次の第7走者の保さんにバトンを渡し終えてからだった。

 野島班長は、泥だらけになって汚れた団服で、ぜえぜえと荒い息を吐きながらやってくると、良行と松崎それぞれに平手を入れた。

「バカか、おまえら。元んところへ帰れ」

 野島班長は、あっけに取られている二人を尻目に、埴生分団の所定の位置へ戻っていく。

 4人が元の場所に戻ろうとすると、宮地は捨て台詞を吐いた。

「所詮、弱小分団のすることよ」

 良行と松崎はいきり立っていた。

「おどりゃあ、おどくさい真似しゃーがって」

 松崎が吠えた。

 植野部長も、三好さんも、良行と松崎の気持ちを察して制止しようとしている。「おどくさい」とは、埴生の方言で生意気なという意味だ。第8走者で走り終わったばかりの保さんが宮地を睨みつけている。所定の位置に戻った良行たちは、保さんから改めて制止された。

「おらえよ。おらえんといけんど」

「おらえる」というのは、能島弁で「堪える」「我慢する」という意味で、保さんも相当悔しかったに違いない。

 後で分かったことだが、出初め式の後、宮地は仲野県指導員に呼び出され、こっぴどく叱られたらしい。その情報と共に、もう一つ新たな情報が伝わってきた。宮地は鏡庄のポン操要員でA・B二つあるチームの内、Aチームの一番員をしていることが判明したのだ。

 あがーなやつらに負けてたまるか。

埴生分団の思いは一つになった。埴生分団のポン操チームが雪辱を誓ったのは言うまでもない。

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