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筒先員、交替!

 橋本班長の車は松崎の家の前に停まっていた。

「いいですか。マテ貝を採るときみたいに、一気にですよ」

 橋本班長は、松崎の部屋へ侵入するタイミングをマテ貝掘りに例えた。

 マテ貝は物音に敏感で、数メートル先に汐を吹き上げても、近付いてみると穴深く潜り込んで出てこなくなってしまう。タイミングを計って、そっと近寄り、一気に貝掘り用の鍬を入れて採るしかない。失敗すると、イヤになるほどの深い穴を掘って採るしかなくなってしまう。

 今橋さんは用意した松崎の家の鍵を手に、家族の様子を窺いながら玄関口のドアをそっと開ける。奥からはテレビの音だけが聞こえてくる。松崎の声はない。

 足音を忍ばせて、良行と橋本班長、今橋さんの3人が松崎のいるだろう2階への階段を上がっていく。勝俊は橋本班長の車に残り、表で見張り役を引き受けている。

 3人の吐く息は白く、緊張感だけが際だっていく。

 今橋さんが、松崎の部屋を指さす。階下からは、相変わらずテレビの音声だけが流れて、時々家族の笑い声も漏れてくる。

 良行が、松崎の部屋のノブに手をかけた。ゆっくりと回してみる。

 小さな、カチッという音がして、それはすんなりと開いた。

 ゆっくりと、息を殺してドアを開けていく。

 そこで良行が見たものは、ヘッドフォンをかけてアダルトビデオを見ている松崎だった。

 良行が部屋の中へ忍び込むと、さすがの松崎も気が付いた。

「おまえ、どうやって入ってきた」

 驚きを隠せない松崎は、呟くようにそう言うのがやっとだった。

 良行は、そっと指で口にフタをするような仕草をした。松崎の部屋の中には、橋本班長、そして今橋さんと続けて入り込んでくる。そのたびに、松崎は目を丸くして驚いている。

 その間も、テレビにはアダルト画像が映り続け、松崎の部屋は異様な緊張感に包まれていった。松崎は、気を動転させたままヘッドフォンを外し、慌てて手元にあったビデオデッキの操作を始めようとする。

「慌てんでええ」

 今橋さんがそう言うと、松崎はやっとビデオの再生をストップさせることができた。

「もっと落ち込んどると思ったら、これか」

 橋本班長が卑猥な指サインを出す。

「違いますよ。落ち込んでました」

 ばつの悪るそうな顔つきをして、松崎が言い訳をする。

「おまえに、話があって来たんじゃ」

 今橋さんが切り出すと、松崎は神妙な顔つきになって3人の方を振り向いた。

「何でしょうか」

怯えたような目つきをしている。

「おまえが居留守を使うんで、こうやるしかなかったんを、まず謝る」

 3人は松崎に頭を下げた。

「別に気にしませんよ。それで、何の話なんですか」

「実は、おまえに相談したいことがあって、ここへ来たんじゃ」

 松崎は、今橋さんの目から逃れるように俯く。首を宣告されたときの記憶が蘇ってきた。

 正月三箇日を終わり、折り込み広告も通常通りに入り始めていた。新聞販売店の本格的な仕事始めは四日を過ぎた頃から始まる。

 いつものように、チラシを捌く作業を開始しようとコンポされたチラシの封を切っていた。

「おい、松崎。ちょっと来い」

 何じゃろうと思った。元旦の配達明けから所長は年始回りでもあったのか事務所に顔を出していない。封を切るカッターナイフを作業台の上に放り投げ、事務所へ入っていった。所長は、ソファーに座り込んでワシを睨みつけてくる。

 険悪な雰囲気だった。

「おまえ、年末に変な営業せんかったか。年始の役で神社へ行っとったら、そういう話を聞いたぞ。一体、どうなっとるんね」

 ワシには、「変な営業」をした覚えがまるでなかった。

「所長、ええ加減なこと言わんといてください。ワシが、いつそげーな変な営業した言うんです?」

「ほんなら、ゲロ吐き事件て、何のことね。三島さんは、おまえが強請まがいの営業をしに来た言うて怒っとったぞ」

 ワシは絶句した。確かに年末頃、ヨッちゃんの親父さんを頼って営業に行ってきたし、ゲロ吐き事件を冗談のつもりで話して営業したことも確かだ。

「それがどうしたんです?成績を上げにゃあいけんのでしょ」

 ワシはノンちゃんとの結婚を考えて、もっと給料を上げて欲しいと思っていた。二人で暮らすだけの給料を稼ぎ出すためには、営業成績を上げて実績を積む以外にない。しかも、所長は本社から催促されてくる増紙に頭を悩ませ、ここ半年ほどは配達業務の責任をワシ一人に任せて、他の販売店主と作っている連合会の仕事を優先させていた。

 所長の目は怒り狂っていた。

「おまえ、今、成績を上げにゃあいけん、言うたの。だったら、どんな営業してもえんか。強請まがいの営業までして、それで成績上げて、それでワシが満足するとでも思よったんか」

 強請まがい?

 ワシは完全に誤解されとると思うた。確かに、ヨッちゃんの親父さんには、ゲロ吐き事件のことを話したけど、それをネタに営業したつもりはさらさらなかった。しかし、所長は、そんな言い訳を聞いても納得してくれんほど激亢しているみたいだった。

 そんなにワシを信じられんのかと、その時、思うた。

「実際に成績を上げとるでしょうが。それのどこが気に入らんのんです。疚しいことはしょうらんですよ」

 所長は、急に立ち上がると、テーブルの上に積み上げられていた新聞の山を力任せにばらまいた。

「話にならん。おまえなんか、首じゃ。明日から来んでもええ」

 所長は、後ろも見ずに事務所の奥にある自宅の階段を登っていった。

 あの時の悔しさが蘇ってくる。

 橋本班長は、今橋さんの顔を見て、用件を話すように促した。

「今橋さん……」

「三島さんから話は聞いたよ。ワシも、ついカッとなって首を宣告したけど、おまえもワシに、何か話すことがあったんじゃないんか。それを聞きたいと思ってな」

 松崎は、じっと下だけを見つめている。

 何が、ついカッとなってじゃ。ワシは、ノンちゃんに合わせる顔がなかった。どうしてええんか分からず、放心状態で海岸線を彷徨った。確かに誤解されるようなことをしたかもしれん。でも、一番悔しかったのは、ワシを信じてもらえんかったことじゃ。

 良行は居たたまれない気持ちがした。松崎はやっとのことで声を絞り出した。

「もう終わったんです。ボクにかまわんといてください」

 汗くさい松崎の部屋が、一気に生気を失ったように思える。

「おまえ、それでええんか?」

 橋本班長が思わず口走った。

「おまえだけの問題か?おまえの他にも苦しんどる人がおるんじゃろうが」

 橋本班長は松崎ににじり寄って問いつめる。

松崎は顔を上げ、今橋さんの顔をじっと見つめた。

あの日の悔しさをぶつけたい。でも、それをして何の意味がある?もうすんだことじゃなぁーか。

松崎の心の中に諦観が広がっていく。

今橋さんは、じっと松崎の顔を見つめていた。

松崎に配達業務を一切任せて、ワシは増紙を迫ってくる本社とせめぎ合うとった。焦りばかりが募ってくる。あの日のワシは冷静さを欠いとった。松崎もたぶん一緒じゃなかったんか?

今橋さんは松崎の心を見透かしているようだった。

「失敗は誰にでもある。正直に話してくれさえしとったらよかったんじゃ。ワシは、おまえに謝る。ワシの間違いは、おまえを信じてやれんかったことじゃ」

 その言葉は、松崎の待っていた言葉だったに違いない。松崎の何かが崩れ落ちたように、じわっと涙がこぼれて落ちていくのが見えた。その涙を見ると、良行もつられて涙がこみ上げてくる。

「どうな、もういっぺん、うちで働かんか?失敗を帳消しにできるかもしれんじゃろう」

今橋さんは松崎の手を取って涙ぐんでいる。

「ワシは、もう後悔しとうない。どうな、もういっぺん、うちで仕事せんか」

 その声は震えていた。

松崎は、こぼれ落ちる涙で顔をくしゃくしゃにしながら、今橋さんの手を握りしめている。

失敗を帳消しに出来る。もう後悔しとうないのは、ワシの方じゃ。

松崎は、コクリと頷いた。

 橋本班長が松崎の背中を撫でている。

「よかったのー、よかったじゃないか」

その綻んだ顔は、正月飾りに使われる葉付き橙のように晴れがましく見えた。松崎の馘首事件が無事解決した瞬間だった。だが、松崎にはもう一つの深刻な問題が立ちはだかっていた。

 橋本班長は、松崎の背中を撫でながら、ぼそっと呟いた。

「これで一つは片づいたけど、もう一つの問題ばっかりはなあ……」

 松崎は深刻な顔つきは、馘首事件が解決した直後だけに痛々しく見える。

 今橋さんが松崎の肩を叩く。

「おまえの気持ち次第じゃ。解決する気があるんなら、ワシらも手を貸すぞ。責任もあるしな」

 松崎は、じっと考え込んでいるようだった。橋本班長は、心配そうに松崎の顔をのぞき込んでいる。

「とにかく、行ってみにゃあ解決せん」

 橋本班長は、松崎の手を取ってその場に立たせた。

「行く気はあるか……」

 押し黙っていた松崎は、口を一文字に結んで顔を上げた。

「行きます」

 松崎を先頭にその場を後にした一行は、鶴姫へ向かった。

まず、ノンちゃんの気持ちを確かめる必要がある。職場復帰を約束された松崎だったが、通い慣れた鶴姫の看板を見ると戸惑っているようだった。

 ノンちゃんにどう言うたらええんじゃろう。

 所長に首を宣告されたとき、松崎は自分の立場を思い知らされた。

また新しい職を見つけ、失敗しては首になり、その繰り返しを何回してきたんじゃ。自分一人ならそれでええんかもしれん。でも、待ってくれとるノンちゃんは、それを許してくれんのじゃないんか……。

 松崎がノンちゃんに「会わないでくれ」と言ったのは、ふがいない自分に自信が持てなくなったからだ。

 ワシは、ノンちゃんに頼りにされとらんのかもしれん。

 思い沈んだ表情をしている松崎の様子を見ていた橋本班長は、鶴姫のドアを開けようと進み出る。

「皆さん、ここでちょっと待っといてください。ボクの顔ぐらいじゃ、ノンちゃんも正直な気持ちになれんかもしれませんが、それでもボクが行くしかなさそうです」

 橋本班長は、唇をきつく結んで、ドアの取っ手に手を掛けた。

 松崎の心の中で、「また、人任せにするんか」と嘲る声が聞こえてくる。

 もう、人任せにゃあせん。

 松崎は、一歩を踏み出した。

「待って、ください」

 松崎は鶴姫へ入ろうとする橋本班長を制止した。

「これはワシの問題です。ワシの失敗で、自信を失って、それで逃げてたワシに責任があるんです」

 今橋さんが松崎の背中をドンと叩いた。

「よう言うた。覚悟が決まったみたいじゃのー」

 松崎は、その場の4人に見送られ、鶴姫の中へと消えて行った。

 無事を祈る。

後に残った4人は、進水式が終わったばかりの新造船を見守る造船マンのような心境だった。これから困難に満ちた処女航海が始まろうとしている。

 鶴姫へ入った松崎をカラオケから流れてくる流行歌が出迎えていた。

 店内を見回す。カウンターの向こうにノンちゃんがいた。目を合わせた松崎は、思い詰めたように狭い店内の通路だけを見つめてカウンターへ向かう。鶴姫の従業員は、その様子をじっと見守っている。他に客はいなかった。

「松崎くん、久し振りみたいじゃねー」

 鶴姫のママが皮肉めいた声をかけてくる。松崎はそれを無視して、ノンちゃんの真向かいに座った。

「聞いてくれ」

 その一言で、松崎の心は決まった。

「もう会わないでくれは、撤回する」

 それまで不安そうに松崎を見ていたノンちゃんは、ふいに後ろを向いた。店内は水を打ったように静まりかえっている。

「もう自分からは逃げん。誓ってノンちゃんに約束する」

 佐々木法子は、松崎の言葉を聞いたまま、ボトルの並ぶ棚をじっと見続けていた。

 あの日、突然この人は、もう会わないでくれって言ってきた。理由を聞いても話してくれない。ママから、この人が仕事を首にされたと聞いたとき、私も捨てられたんだと思った。

 佐々木法子は、家から出て行ったときの父親の後ろ姿を思い出していた。小さく片手をあげて別れを告げる父親を見送っていると、母が玄関の戸をぴしゃりと閉めた。

「忘れなさい。あの人は、うらちを捨てたんじゃけ」

 あの日の悲しみを思い出す。

 松崎の方を振り返った佐々木法子は、

「今さら、どうしてそんなことが言えるんよ」と目に涙をいっぱいに溜めて訴えた。その声には、血の匂いがするようだった。

 松崎はノンちゃんの目を見つめて、頭を下げた。

「ワシが、ほんとうに悪かった」

「それだけ?あなたの勝手で、私がどれぐらい傷ついたか分かる?」

 佐々木法子は、カウンターに額をこすりつけて謝っている松崎をじっと見つめている。

 結婚してくれって言われたとき、最初は冗談かと思った。千里からは、あんなやつとは付きあうなって何度も忠告を受けた。でも、ほんとはこの人、寂しがり屋の私と似てた。

 彼女の心の中に、その怒りとは裏腹に徐々に松崎との思い出が蘇ってくる。

 でも、この人は、私を裏切った。

「ノンちゃん、寂しかったよ」

 松崎は、ぼそっと呟いた。その目からは、大粒の涙がこぼれ落ちている。

「失敗を帳消しにさせてくれ……。頼むよ」

その言葉には、真剣さが込められていた。しかし、鶴姫の店内には、その真剣さとは反比例する白けた空気が漂っている。

 ワシは、ノンちゃんを裏切ってしもうた。謝っても謝り切れんほど、ひどいことをしてしもうたことは分っとる。簡単に許してくれるとは思うとらん。

 松崎は声を振り絞って叫んだ。

「頼むから、もう一回だけ、ワシを信じてくれ!」

その声は、静まりかえった店内に響き渡る。

彼女が戸惑っていると、鶴姫のママが近寄ってきた。

「松崎くん、仕事の方はどうなってるの。ノンちゃんはうちの大切な看板なんだからね」

ママは松崎を睨み付けている。

 佐々木法子は、松崎の声の響きに嘘はないと感じる。たった一人で鶴姫に来て、みんなの前で私にもう一回信じて欲しいと彼は叫んだ。でも、それをどこまで信じていいんだろう。

 松崎は、ふいに彼女の手を握りしめた。

「二度と、この手は離しとうない。それだけを、頼むから信じてくれ」

 佐々木法子は、野島班長といざこざがあった日の情景を思い出した。

 この人は、泥酔した野島さんから私を必死で守ってくれた。震えていただろう私の手をしっかり掴んでくれたこの人は、私のことを守ってくれるんだと感じた。迷って苦しんで戸惑って、そしてやっとつないだ手の温もりは、私の未来を信じていてくれたから生まれたんじゃなかったの。

 彼女を包み込んでいた激しい怒りがしだいに溶けていく。

 その時、中の様子を窺っていた今橋さんが店内へ滑り込んできた。その様子に驚いたママは、入ってきた今橋さんの目を見つめているようだった。今橋さんはニッコリ笑って、親指を上に突き出すグッドラックのサインを出した。

 今橋さんと目で会話したママは、全ての事情を了解したようだった。

「どうやら仕事は大丈夫そうね。……しょうがない。ノンちゃん、許してやりなさいよ。これから結婚したら、失敗もするし、夫婦げんかもするじゃろうし。そん時の予行演習じゃったと思いなさいよ。でも、松崎くん、2度目はないと思いなさいよ」

 その一言がきっかけになった。

 今橋さん、橋本班長、勝俊、良行と次々と店内へ入り込んでいく。鶴姫の従業員たちは、飛び込んできた彼らを驚きの目で見つめている。

 まるでスローモーションのようだった。

 突然松崎は、カウンター越しにノンちゃんと激しいキスを交わした。

 良行は、その大胆な松崎の行動を羨望の眼差しで見つめていた。

 店内は、一瞬にして、驚きと喜びに包まれていく。そして一行は、ノンちゃんやママ、その他の従業員にこれまでの経緯を話して聞かせた。鶴姫のママは従業員に指示して表のドアに「貸し切り」の札を出させ、この夜の奇跡を喜び合った。

 その夜、松崎の結婚に関して、日取りは5月中旬、今橋さんが仲人を引き受け、橋本班長が結婚式の司会者になることまで取り決められた。


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