放水停止
翌日、いつものようにポン操の訓練が始まった。しかし、そこにいつもいた松崎の姿はなかった。また、仲野県指導員も最後まで姿を見せなかった。
訓練開始前の大崎分団長の訓辞では、昨夜の火事で良行が警察官に取った行動が問題となっていたことが告げられた。
「立入検査証は、あくまでも消防団員の身分を証明するもので、必要ならばしっかり提示する義務がある。我々は一般公務員ではないが、それに準ずる身分で、自分たちの町は自分たちの手で守るという精神に則って行動する必要がある。緊急時には、常に冷静に行動するように」
消防団員は、特別職の地方公務員という立場を持っている。大崎分団長は締めくくりに、ニヤッと笑った。後で聞いた話では、仲野県指導員がその話を聞いて警察署に怒鳴り込んで行ったそうだ。
良行は、「鍛え甲斐がある」と言っていた仲野県指導員が来なかったことで、拍子抜けした気分になっていた。3番員の代わりには、その日、智史さんが付いた。
訓練が終了し、装備の片づけをしている間、良行はいやな予感がしていた。
その翌日も、松崎は来なかった。
松崎は、ノンちゃんとの婚約以来、真剣にポン操の訓練に励んで意気込んでいたはずだった。
「三島っ、松崎はどうしたんね」
訓練終了後、積載車に吸管を収納しながら保さんが声をかけてきた。心配そうな声だった。
良行にも分からない。
「一昨日の火事にも出て来んかったろう。あいつ、この間、結婚するんです、言うて喜んどったのに。ワシに仲人までしてくれ言うて来たんじゃけど、普通は勤め先のトップに頼むもんじゃと断ったりしてのー」
保さんは訓練開始から2日続けて来ない松崎をしきりに心配している。
保さんの言葉が良行の不安を煽る。
その翌日も、やっぱり松崎は来なかった。仲野県指導員は年始の出張とかで、ここ一週間は訓練に参加できないことだけは分かった。
橋本班長は不安そうに、
「あいつが来んと訓練にならん」とぼやいている。大谷も不安そうに、
「何、考えとんねー」と中空を見て呟いている。
結局、松崎はその翌日にも訓練に参加して来なかった。
不幸の原因は、無知が作る。
良行がこの言葉の意味を実感したのは、松崎が訓練に参加しなくなってから5日経った頃だった。
「三島っ、おまえに聞くんじゃが、ゲロ吐き事件ってなんのことじゃ」
橋本班長は、訓練開始前、屯所の棚から装備品を出しながら、三白眼をして良行に問い質してきた。良行の足元からぞわぞわとした正体不明の恐ろしさがこみ上げてくる。
良行は観念したように橋本班長に事の次第を話して聞かせた。
「それじゃあ、松崎のやつ、それをネタに強請ったというわけか」
橋本班長は絶句し、良行の目を見た。
「今日は訓練どころじゃない。分団長に訓練中止を知らせてくるから、おまえはワシの家まで来い!」
橋本班長はそう言い残すと、自家用車に乗って屯所を後にした。
すぐその後に来た大谷は、慌てて屯所から出て行く橋本班長を見て、
「班長、どうしたんね」と良行に問いかけ、怪訝そうにしている。
良行には何も言えない。
「今日は訓練中止じゃ」
大谷にはそう伝達するのが精一杯だった。
大谷に後の連絡を頼むと、良行は橋本班長の自宅へ向かった。
橋本班長の自宅の居間へ通された良行は、もう一度ゲロ吐き事件の顛末を事細かに説明した。
「それじゃあ、勝俊さんは、松崎の営業だけが気にいらんかっただけなんじゃな。しかも、松崎は松崎で、別におまえのゲロ吐き事件をネタに勝俊さんを強請ろうとしたわけじゃないし、仲野県指導員にもおまえは告白しとる言うことか」
橋本班長は考え込んでいる。
「実はな、松崎が販売店を首にされた」
絞り出すように真実を伝えた橋本班長は、頭を抱え込んでしまった。
松崎……。
この数ヶ月、厳しい訓練を共にした松崎。ノンちゃんとの婚約で生き甲斐を見いだしていただろう松崎の顔が浮かぶ。
仲間を失う。
その時初めて、松崎が自分に取って同じ思いを共有する本物の仲間だったことを自覚した。
身を切られるよりも辛い感覚に、頭の中が真っ白になっていく。
「ボクが謝ってきます」
居間から飛び出そうとした良行を橋本班長は羽交い締めにした。
「もう、今日は遅い。ワシも考えるけん、おまえもしっかり考えとけ」
重い沈黙は夜を更に暗くさせる。
その夜、良行は何度寝返りを打っても一睡もできなかった。ガス欠になりそうなバイクでツーリングを続けているような気分だった。ふいに、朝食のみそ汁に入れるネギを刻む音が聞こえてくる。仕事へ行く時間が近付いていた。
とにかく会社が終わってからじゃ。
良行は思い悩んだまま、出社した。
「三島、何ぼやっとしとるんね!ケガするぞ」
グレン操作をして鉄板を作業台に移動させる作業中、良行は主任から怒鳴られた。
「正月ボケか~。腑の抜けた顔して……。顔でも洗ってこい!」
主任は情けなさそうな顔で良行を睨み付けている。
分かってますよ。
仕事に厳しい主任はミスを許さない。几帳面な性格は部下の教育にも反映されている。まるでギルド、徒弟制度がそのまま残っている世界だ。
昨夜、寝つけなかった良行は、締め付けられるような心の痛みに加え、昼近くになって胃の痛みさえ感じ始めていた。私生活のストレスが仕事のミスに直結すれば会社に迷惑をかけてしまう。
吹きっ晒しの現場のトイレへ行き、外に剥き出しで配管されている蛇口を捻って水を出す。打ちっ放しのコンクリートに跳ね上げられた水が威勢良く飛び散っている。その透明な踊りを見ていると、時間の感覚を忘れそうになる。
透明な踊り子。
なすがままにその踊りは継続させられている。
防寒服を着ていても寒さのこみ上げてくる中、良行は気合いを入れ直そうと冷水で顔を洗った。
どうすりゃあ、ええんね。
昨夜から何度も自分に問いかけた言葉だった。
良行は定時になって職場を退出すると、冴子に、モデルの約束はダメになったと連絡を入れ、松崎の自宅へ向かった。冴子は不満そうに電話を切った。
仕事がなくなる、という経験は良行にもあった。会社の経営が思わしくなく、合理化に次ぐ合理化が進み、若い良行たちを除いて古参の社員が次々とリストラされていく。それでも経営悪化は止められず、良行が2年前まで勤めていた会社はあっけなく倒産した。
あの時、ワシは、足元から自分の存在を否定されたような気がした。
松崎はどうなんじゃろう。
松崎の自宅へ着くと、良行は玄関のドアを開けようとした。しかし、ドアには鍵が掛かっている。能島ではどこでも在宅中なら玄関のドアは開けているはずで、もし松崎が自宅にいるなら鍵は開いているはずだった。
玄関脇には松崎のいつも乗っているカブがある。
この経験は良行にもあった。前の会社が倒産して、しばらくアパートに引き籠もっていたことがあるからだ。
居留守、か。
良行は取りあえず松崎の自宅から引き上げ、鶴姫へ向かった。
開店前の鶴姫は、冷たく淀んだ空気を充満させていた。カウンターの奥にも人影はないようだった。ノンちゃんがいれば、少しでも事情が分かると思うのだが。良行は微かな期待をつなごうとした。
カウンターの椅子に手をかけて突っ立っていると、鶴姫の入口に人の気配を感じた。
その気配は、佐々木法子だった。
佐々木法子は、良行に気付いて店内へ入るのを戸惑っていた。
会いたくない……。もう、顔も見たくない。
その良行は入口へ向かっていた。そこには、薄汚れた床をじっと見つめる佐々木法子がいた。千里と同じく妹のようにかわいがってきた間柄だけに、気まずい空気が二人を包み込む。ここにもストレスを抱え込んで落ち込んでいる透明な踊り子がいる。その踊り子は飛沫となって踊りながら、束の間の浮遊を刹那に終わらせ、なすがままに排水溝から続く遠い旅に出かけようとしていたのかもしれない。
佐々木法子は、聞き取れないほどの小声で冷たく呟いた。
「帰ってくれませんか」
彼女の冷たい目が良行を突き刺す。松崎が良行のゲロ吐き事件をきっかけに販売店を首にされたと知っている目だった。
ワシは確かに悪事をはたらいた。でも、それを利用した松崎はバカと言われてもしょうがない。ノンちゃんに愛想尽かされても仕方ないとは思う。
言い訳が口を衝いて出ようとする。
束の間の沈黙の後、佐々木法子は押し殺したように呟いた。
「もう会わないでくれって、言われたの」
良行には、返す言葉がない。
佐々木法子は、松崎からがっくりと肩を落として告げられた言葉を思い出す。
もう、会わないでくれ……。
呟く声が信じられなかった。
どんな事情があるのか、その説明もしてくれなかった。驚きと困惑と、行き場のない怒り、そして身の置き所のない悲しみが私を包み込んでくる。
その日から姿を現さなくなった彼は、私を裏切ったのだと思った。
良行は、深く傷ついているだろう佐々木法子に何を言っても通じないと思いつつ、どうしても伝えたかった気持ちだけを伝えた。
「ワシに、できることがあったら、言うてくれ……」
「そんなん、聞きとうない……。早く、帰ってくれる」
彼女は、厳しい口調で言い放つと、堰を切ったように泣き出した。
彼女は泣きながら良行を両手で押して鶴姫の店内から追い出そうとする。良行はその抗いに逆らえなかった。
日の傾いた路地に西日が射し込み、海から吹きつけてくる寒風が良行をどうしようもない無力感に貶める。下を向いて一歩を踏み出すまでに、どれくらいの時間が掛かっただろう。
いつもならアクセルをふかして通り過ぎる埴生の目抜き通りが、次から次へと溢れてくる後悔の念に責められ、ゆっくりとした語り部の話を聞くように通り過ぎていく。
自宅へ帰る最後の角を曲がると、良行はそこに橋本班長の姿を見つけた。
バイクを止めると、橋本班長は急ぎ足で良行に近づいてくる。
「どこへ行っとったんな。これから出かけるぞ」
橋本班長の顔には緊張感が漲っている。良行がヘルメットを脱いでバイクをガレージに停車させていると、玄関から親父の勝俊が出てきた。
「勝俊さん、すいません。良行君も帰ってきたようなので、打ち合わせたようにお願いします」
勝俊は困惑したような顔をしていたが、良行に目をとめると覚悟を決めた表情になった。
「ボクの車、今こっちへ回してきますから」
橋本班長は、路地の奥へ走っていった。
良行はこの状況を理解できていない。勝俊は良行の側へ近付いてきた。
「今から、おまえの尻ぬぐいをせにゃならんはめになった。ワシも迂闊にあいつに話したんがいけんかったんじゃろうが、もともとはおまえの度の過ぎた悪戯が原因じゃけ」
眉間に皺を寄せる親父の勝俊は、良行に目から火花の出るような拳骨を入れた。
「子の責任は親の責任。橋本君には迷惑をかけたよ」
橋本班長の車が良行の家の前に停車した。車内からドアのロックを外して、乗り込むように促す橋本班長がいる。
後部座席に勝俊と並んで座った良行は、これからどこへ行くのか見当も付かなかった。バックミラー越しに橋本班長が良行の顔を時々、盗み見ている。
橋本班長の車は、松崎の勤めていた新聞販売店の前で停車した。後部座席に座る親子を振り返って見つめ、念を押す。
「いいですか、所長の今橋さんに誤解を解いてもらうだけなんですから。そしたら、あいつも助かると思うんです」
3人は、新聞販売店の事務所へ入っていった。
店主の今橋さんは、埴生の町で唯一従業員を抱えた新聞販売店を営んでいる。地方紙ということもあり、ライバルの他系統とは格段の差を付けての占有率を誇っている。松崎は洗剤メーカーの職を失って、1年半ほど前からここの所長に拾われて勤めていた。
「電話した橋本です」
「君が橋本君か、それに三島さん。事情は聞いてます。さっ、こっちへ入ってください」
3人は今橋さんの事務所へ通され、ソファーに座るように促された。
「困ったもんですよ。年始に神社の役をしとると、勝俊さんからあの話ですから。強請まがいの営業をしたと聞いて、松崎を問いつめたんですよ。そしたら、売り上げを上げるためなんだから、しょうがないでしょうって、開き直りよるんです。私もムカッときましてね。もうちょっと、事情を聞いてやりゃあ良かったんでしょうが、つい、おまえなんか首じゃあ、言うてしもうたんです」
今橋さんは言い終えると、自分でも後悔しているような表情をした。
お客さんにゃあ好かれとるし、配達も真面目にしよる。どうして、あんな営業したんかワシにゃあ分からん。でも、最後まで強情に理由を話さんかったあいつは、何かを隠しとったんじゃろう。でも、それを隠し通して何の意味があるんじゃろう。
今橋さんは、松崎の動機が何だったのか思い当たらない。
「うちもね。人手不足なんですよ。販売区域は増えるし、社からは増紙、増紙と言ってくるしでね。松崎君は、確かに調子の良い奴ですが、最近、妙に張り切ってたんですよ。営業成績も上げてましたからね。でも、何で張り切っているのか聞いても、私には何も言うてくれんのです」
「実は、松崎君、結婚しようと考えてたんです」
「それ、本当なんですか」
今橋さんは橋本班長の話に驚きを隠せなかった。松崎からはその話を全く聞いていないようだった。
「ええ、彼に会って直接聞いたんじゃないですが、どうもそうらしんです」
その瞬間、良行の口から自然に言葉が流れた。
「今橋さん、もともとボクがしたことが原因なんです。あいつは、今までええ加減な奴だと思ってましたが、真面目に結婚を考えてたんだと思うんです。それで、それで……」
握りしめた拳が痛かった。悔し涙がこみ上げてくる。
きっと、ノンちゃんのために必死で働こうとしてやがったんだ。
「うちの息子は確かに悪ふざけをして迷惑をかけとります。今の話を聞くと、松崎君が私の所へ来た理由が分かりましたよ。私も年末で忙しかったものですから、つい松崎君の言葉尻だけが気になっていたんだと思うんです。どうか、私に免じて松崎君をゆるしてやってください」
勝俊は、良行の頭を押さえつけ、今橋さんに向かって一緒に深々と謝罪した。
「まあまあ、三島さん、どうか頭を上げてください」
今橋さんは、勝俊の手を取って頭を上げさせた。
「私らにも経験がありますよ。新聞の売れんかった時期に、断られた客にかっとなって、いらんことを言うたりしてね」
今橋さんは、かつての自分を思い出しているようだった。
良行には、松崎本人とは別に気がかりなことがあった。
「もう会わないでくれって、言われたの」
そう言って、良行を突き返しながら泣いていたノンちゃんのことだった。良行はノンちゃんに会ったときのことを、全てそこで打ち明けた。
「松崎にどうしてやりゃあえんじゃろう。心配じゃ……」
今橋さんは不安そうに呟いた。
もっとワシがしゃんとしとったら、こんなことにゃあならんかったのに。
今橋さんは、責任を感じているようだった。
橋本班長は、今橋さんの沈痛な表情を見て取って、膝を乗り出した。
「ここ2、3日、ボクも松崎君の家へ行ってるんですが、何度行っても居留守を使うんです。それで、やっと昨日、松崎君の家族と親しい人から、店を首にされたことや、良行君のゲロ吐き事件のことを聞き出して。たぶん、家族もそっとしているんだろうと思うんですが、会わないことには解決しませんからね」
「顔を見せんのですか……」
困惑していた今橋さんは、しばらくして何かを思いついたような顔をした。何か謀があるような顔つきだった。
「これは、たぶん普通の職種じゃ、使っちゃいけない方法なんですが、一つだけ手がありますよ。ただし、三島さんの息子さんに協力してもらわんと、今はうまくいきませんが」
今橋さんは前置きすると、驚くべき計画を打ち明け始めた。
その方法とは、松崎の部屋へ不法侵入する、という強硬手段だった。新聞販売店は、普通の職種と違い、早朝勤務になる。そこで、アルバイトや従業員に断って家の予備キーを預かることもある。その予備キーは、連絡が取れないなどの緊急時以外めったに使われることはないが、鍵を販売店に預けたということで、従業員やアルバイト、それに家族にも自覚をもたらすという効果がある。今橋さんは、鍵を受け取りに来ていない松崎のために、それを使おうというのだ。
4人は、この方法を元に作戦の打ち合わせをした。
今橋さんは、作戦を立て終えると、その成功を確信していた。
「良行くん、もう心配せんでもええ。後は、松崎しだいじゃ。無茶はするけど、責任は全部ワシが取る。任せとってくれ」
良行の心に重くのしかかっていた不安が少しずつ消えていく。