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放水、始め!

「お兄ちゃん、起きて!火事よ!」

 円佳に叩き起こされて、良行は緊急自動車のサイレンを確かめた。携帯電話には、班長からの緊急メールが入っていた。

「いちのしろで火災はっせい。すぐにこい」

 既に起きていた母の由恵が良行の団服を用意してくれていた。

「慌てるなよ。事故、起こしたらぶち壊しなんじゃけ」

 玄関先に仁王立ちした親父の勝俊が良行の背中を押す。

 明日からまた仕事じゃのに、ゆっくりさせてくれんのー。

 トライアル車をガレージから出す間も、4台目の緊急自動車が通過していく。大きな火事に違いない。

 埴生から一ノ城へ抜ける山道を通ると、火災現場はすぐに分かった。円佳の勤めている保育所に近い。

 深夜にもかかわらず、野次馬の群衆は火災現場へ向かってそぞろに歩いている。警察のパトカーが良行の手前を遮った。

「消防団です」

 警察官は、良行を睨み付けて、

「所属は?」と聞いてきた。

 こんなケースは初めてだった。

「埴生分団です」

「証明書はあるか?」

 団服の胸ポケットに収めた消防団の立入検査証を取り出す間、怒りがこみ上げてくる。

この緊急時に何を言ようるんね。

証明書をチラッと見せると、良行は浮き上がるフロントを押さえつけてバイクを急発進させた。

 バカか、こいつ。

 後ろは気にならなかった。

 火事現場は円佳の職場から近い一戸建住宅から火の手が上がっているようだった。間近には集合住宅が立ち並び、現場の路上には無数のホースが張り巡らされている。

 埴生分団の積載車から橋本班長が飛び出して行くのが見えた。

「三島っ、ポンプを出すから手伝え!」

 良行の後方から、この現場には一番遠い白滝分団のポンプ車が通過していった。

 積載車の後部扉を開け、ポンプを降ろすためのスライダーを引き出す。ポンプの取っ手を強く握りしめて、スライダーでポンプを一気に手前まで引き出す。

「三島っ、二人しかおらんのじゃ!」

「気合い入れます!」

 取っ手を握りしめると、二人はポンプをスライダーから一気に地面に降ろした。

「こっから中継送水するらしい」

「どっからラインが延びとるんですか」

「鏡庄が近くのため池から引いてくる」

 その時、群衆をかき分けて仲野県指導員が姿を現した。中継送水とは、消火栓などが火災現場から離れている場合、一台のポンプだけでは送水できる能力が足りなくなるため、途中に補助の送水用ポンプを接続することだ。

「橋本!ラインはこれじゃ!」

 ぜいぜいと息を荒げている仲野県指導員は、鏡庄分団から受け取ってきたラインを橋本班長に手渡した。接続金具を受け取った橋本班長は、確実に接続金具をポンプに接続しながら良行に指示を出す。

「三島っ、真正面にアパートがあるじゃろ。そこまでラインを引け!」

 良行は積載車からホースを降ろすと、言われるままにラインを作った。橋本班長は、ポンプのエンジンを回してアイドリングしている。その横で仲野県指導員は、橋本班長から筒先を受け取ると、良行が作ったラインに接続金具をしっかり接続させ、走り出すところだった。

「ついてこい!」

 良行が予備のホースを取り出している最中、仲野県指導員は叫んだ。良行は、ホースを担いだまま、その命令に従った。

 一戸建住宅が黒煙と共に火柱を上げている。

 筒先を炎に向けた仲野県指導員は、赤黒い反照光を浴びながら、筒先に迫った水圧を思いっきり炎にぶつけている。良行はそのホースが暴れるのを渾身の力を込めて押さえつけている。放水圧力が高い場合、一人での放水は不可能で、筒先員が振り回されないために必ず補助が二人以上は付く。

 危険と隣り合わせの消火活動は、まるで道化師の空中ブランコのようだ。

 空中ブランコをしている道化師は、時間の感覚を忘れているに違いない。放水の放物線が炎の本質に迫る光景は、道化師たちに、この行為がちっぽけな虫の抗いに過ぎないことを知らしめようとしているのだろう。

 北風に煽られた炎は、その勢いを増すばかりだった。炎を吹き出している室内からは、家具のガラスが割れる音や、壁の崩れ落ちる音が聞こえてくる。猛烈な炎は、隣接する住宅の壁を嘗めるように這って、モルタルの壁をみるみる変色させていく。

 腕の力がすでに限界に達しようとしたとき、

「三島っ、筒先員交替!」と仲野県指導員の怒鳴り声がした。

 必死で水圧に堪えている仲野県指導員から筒先を渡されると、良行は中空にとぐろを巻く真っ赤な炎に向かって放水を続けた。

 頭の中が空っぽになっていく。静寂が支配し、赤黒い炎だけが標的となっていく。

 後から駆け付けて来た保さんに筒先を手渡した時、良行は脱力感の中に凄まじいばかりの充実感を感じていた。初めて火事現場で筒先を任された感触がじわじわとこみ上げてくる。

 火事は、その後、必死の消火活動も空しく、隣にあった一戸建住宅をも呑み込んでいった。風の勢いは止まらず、火勢は衰えない。

 次々に能島中の消防団のラインが引かれていく。その間、良行は何度も保さんと筒先員を交代した。

 気が付けば、すぐ側の破れたホースからの漏水で良行の身体はずぶ濡れになっていた。虚脱感の中、真冬の寒気が体中の筋肉を萎縮させていく。やっと鎮火宣言が出されたのは、それから数時間経ってからのことだった。

「三島っ、頑張ったのー」

 風に乗った煤で顔を汚した仲野県指導員が、疲れ切った表情で良行の肩を叩く。良行の手の平は、痙攣して、別の生き物のようにぴくぴく動いている。

 撤収の間、良行はなぜ仲野県指導員が自分に筒先を託したのかを考え続けていた。ゲロ吐き事件のことが、下らない、実に恥ずかしい行為に思えて情けなくなってくる。

 積載車の横で、煤けた顔に脱力感を浮かべている仲野県指導員は、濡れた地面にべったりと座り込んでいた。銀色に輝く防火服の下はずぶ濡れになっていたに違いない。

 良行はその横に腰掛けた。

「謝らんといけんことがあります」

 素直な気持ちが良行の口を衝いて出た。

「去年、仲野県指導員の車にゲロを吐いたのは、実はボクなんです」

 仲野県指導員は、いきなり愉快そうに笑った。

「おまえか~。恨まれとる奴は多いけー、まあそんなもん、放っとけと思よったのに。嫁にはこってり怒られたけど、おまえじゃったら勘弁してやる」

 仲野県指導員は涙を浮かべて可笑しがっている。

「若いときは、それぐらいじゃなぁーといけん。これで、もっと鍛え甲斐があると分かったわ」

 仲野県指導員はゆっくりと立ち上がり、良行にグッドラックのサインを出して本部のある鏡庄分団の積載車の方へと遠ざかって行った。

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