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操法準備

 会社の定時間を過ぎて仕事が終わった。休憩室のロッカーから合羽を取り出して着替え、通勤用のバイクに乗り会社を出たところで後輪に違和感があった。左右に振られるタイヤは、急速にバイクの安定感を失わせて、イヤな予感をさせる。良行は、100メートルも走らない内にシートにごつごつとした路面の凹凸を感じ、やむなくバイクを降りた。初冬の雨に打たれながら30分もかけて乗り慣れたトライアル車を自宅まで押して帰る気分は最悪だった。

「良行、消防団の人から電話があって、今日は体育館でする、言うとったよ」

 良行が母の由恵から聞いた伝言だった。

 ついとらんのー。

 自宅のガレージでやっと後輪を外し終えてチューブを引っ張り出したところだった。良行は、雨が降れば訓練は中止になるだろうと思い込んでいたのだ。

 ガレージの椅子に腰掛けてそぼ降る雨を眺める。雨は小雨になり始めていた。

 たいぎいのー。やっぱり行かにゃあいけんのか。

 能島弁で「たいぎい」とは、億劫なというくらいの意味だ。

 バイクを直し終えて、集合場所の中学校に到着した。水銀灯に照らされた中学校の古びた体育館は十一月中旬の冬空の下で静まりかえっていた。その横にある駐車場は人気もなくガランとしている。夏にはクマゼミの群がる桜の木は枯れ枝を夜空にさらし、初冬の夕焼けを掠め取ろうとするようなヒマラヤスギの巨木もひっそりと佇んでいるだけだった。

 待っとくしかないんか。

 さっきパンク修理し終わったばかりの愛車のシートに跨り、団服という能島市消防団のユニフォーム姿に着替えて訓練開始を待つ三島良行は独り言をつぶやく。集合時間の午後7時半はとっくに回っていた。春にはミカンの花咲く丘の上にあるこの中学校は良行の母校で、週明けから消防団のポンプ操法訓練が始まるはずだった。

 夕方近くまで降り続いた雨がグランドを濡らしている。校舎はグランドを遠く隔てた水銀灯に照らされ、国旗掲揚台に吊されたロープが風に煽られて金属的な打撃音を響かせていた。カン、カーンというその音の響きは、一人きりで待つ良行の気持ちを暗くさせる。

 イノブタのような体型をした大崎分団長の言葉を思い出す。

「新入団員は、来週からポン操大会に向けて訓練する。大会までの4ヶ月は、毎日訓練するからそのつもりで」

 ポン操大会とは、小形ポンプ操法大会を略した名称だ。小形ポンプ操法とは消防操法の一つで、消防用機械器具の取扱い及び操作方法についての訓練を指す。能島市消防団では、日頃の訓練を競うため、消防記念日の3月7日を目処に、2年に一度、小型ポンプを使った競技大会を実施している。これが小型ポンプ操法大会だ。

 冗談じゃない。来月の12月中にあるんならともかく、来年の3月17日のポン操大会まで、何で毎日訓練なんじゃ。秋季査閲の時、調子に乗って迂闊に承知せにゃあよかった。

 消防団に入団すると、必ず参加しなければならない行事が3つある。秋期査閲はその一つで、分団毎にその一年を締めくくる行事となっている。ちなみに、団員に参加義務がある他の二つの行事とは年末夜警と出初め式のことだ。

 パンク箇所を見つけるため空気入れでチューブを膨らませながら、一緒に大会に出る橋本俊樹班長のできの悪い橙のようなぶつぶつしたあばた顔を思い出す。班長は分団からの指示を団員に連絡報告するための役職で、橋本班長は、町の病院に勤める薬剤師だった。

「まあ、頑張ろうや」

 橋本班長は、大会参加を決めた時、初めてポンプ操法選手として指揮者を任されたとはりきっていた。

 良行がようやくパンク修理を終えると、いつの間にか雨は上がって、何となく気分も軽くなる。

 夕食を終えた良行は、渋々ながらもポン操大会の訓練に出かけてみる気になっていた。パンク修理もやっとすんだし、バイクの試運転もかねて訓練に参加してみるかといった気楽な気分も手伝っていた。

 どうせ秋期査閲のときみたいにすぐ終わるんじゃろう。

 良行は、秋期査閲のときの訓練が週に2回しかなく、訓練が終了した後、反省会と銘打って大崎分団長が行きつけのスナックに誘ってくれたことを思い出す。能島の冬は、アフターファイブを楽しむための娯楽に乏しい。良行にとっての消防団は娯楽の一つに過ぎなかった。

 雨上がりのグランドからは、寒風が吹き付けてくる。良行が訓練開始を待っていても、誰一人として団員の姿は現れない。

 来んじゃなぁーか。

 雲間から月が現れ、校舎を鈍い光で包み込む。

 胸苦しい時間が過ぎていく。

 しばらくすると、やっとグランドの外れの坂道にライトの強い明かりが点って、堵生分団の積載車が現れた。積載車とは、一般的に6人乗りから8人乗りの積載重量2トンクラスまでの作業用トラックのことを差し、赤色灯、サイレンを装備した消防自動車のことだ。

 良行の目の前に現れた積載車の運転は荒っぽく、一般道からグランドに乗り上げるとき、スピードオーバーで車体がバウンドしたように見えた。

 積載車はグランドを横切って良行に近付いてくると、シパシパシパッとパッシングして合図を送ってきた。運転席には、良行の同級生で同じポン操要員の松崎清が乗っている。スピードに乗った積載車は、急ブレーキをかけてグランドの土に派手なブレーキ痕を残し良行の手前で停車した。

「ヨッちゃん、なにブスッとしとるんね」

 日に焼けた丸顔で少し太めの松崎は、積載車の窓を開けて良行に話しかけてきた。

 ニコニコ顔の松崎は、新聞販売店の番頭をしている。半分自営業みたいなやつで、昼間からパチンコ屋に通っては営業をさぼっている。それでも首にならないのは、しっかりと顧客を掴んでいるからで、結構店主からは重宝がられていたりする。

「おまえ、さっきバウンドさせたろう」

 松崎は運転席から降りてくる。

「あれか、ついうっかりよ」

 でへでへと笑う松崎に罪の意識はない。積載車の助手席から太った体をゆらして出てきた埴生分団の大崎分団長は、つかつかつかっと松崎のそばに寄ってきて、松崎の頭に拳骨を入れる。

「おどりゃあ、ワシが乗っとんのに何しょうるんね」

 消防キャップがずり落ちるほど拳骨を入れられた松崎は、それでもへらへらと笑って良行を見ている。松崎の懲りない反応を見た大崎分団長は、苦笑いを浮かべ、積載車に積み込んだ訓練用具を指さす。

「早よう体育館に降ろせ。今日は団本部幹部が視察に来るからヘラヘラしとるな」

 二人は、慌てて、訓練用具を体育館に運ぼうとした。大崎分団長は、体育館の入り口まで小走りで近付くと、束になった鍵の中から体育館の鍵を探すのに手間どっている。いろんな鍵がジャラジャラとまとわりついて苛ついているようだった。

「最新情報があるんじゃ。フフフンの台、ええで」

 松崎は、小声でわざとパチンコ台の番号をフフフンと紛らわす。

「何ねー、聞こえるように話せや」

「ノンちゃんに口きいてくれたらの」

「ノンちゃんは関係なかろーが」

「チーちゃん経由でコネクション持っとろう」

 良行は、松崎の口から父の会社で事務をしている従兄弟の千里の名前が出たことで思わず舌打ちをした。

 本名は三島千里、家は良行の真向かいにあり、良行の2つ年下だった。ノンちゃんはその同級生で、本名は佐々木法子。「鶴姫」というスナックで働いている。二人とも、小さい頃から近くの海水浴場で遊ばせてやったこともある妹のような存在だった。

 こいつの意図は、最初からノンちゃん狙いだったに違いない。パチンコの情報ぐらいで口をきいてやる筋合いはない。

「そうはいくかい。台一つでえらい高いもんにつこうが。おまえ、飲み屋のねーちゃんに入れあげてどうするんね」

 良行は真顔になった。

 松崎はそれでも、でへでへと笑いながら良行の顔を見ている。脂ぎった顔が倍の大きさに見えて、良行は不機嫌になった。

 体育館と積載車を何往復かしているうちに他の団員も集合してきた。その中に橋本班長もいる。

 左腕に金モールが一つ。よれよれの消防キャップを被って、橋本班長が近付いてくる。金モールは勤続年数を表し、10年のキャリアがあることを示している。

「大谷はまだか?」

 橋本班長は、いきなりポン操要員の大谷満の所在を聞く。

「そこらで、糞でもひりょうるんじゃないですか」

 松崎がニヤッと笑って応える。橋本班長は、困ったように眉をしかめてから、松崎と同じようにニヤッと笑った。

 松崎が「糞でも」と言ったのは、夏過ぎにあった林野火災での出来事を指す。大谷は、鎮火宣言が出た後の残火処理をしているとき、山中で急に腹痛を訴えて何度か野糞をした。そのために埴生分団の撤収が遅れるという失態を演じたことがある。

 林野火災のため白い靄の掛かったような原生林で、痩せぎすながら職人らしい無骨な顔をした大谷は用を足す。一之城の岬の突端からは、たぶん百貫島が見えていただろう。ぼんやりと霞んで見える百貫島は、今は無人島で、この島には灯台がある。大谷は、燧灘の夏を優雅に楽しみながら野糞をしていたに違いない。

「しゃーないやっちゃなー。忙しいんかのー」

「ワシが昨日電話したら、来る言うとったでー」

 もう一人の班長、左官屋をしている野島班長が横から割り込む。がっちりした体格の野島班長は、橋本班長の団服の上から乳首らしいところを触って、気にするなとでも言っているようだった。橋本班長は、くすぐられているのかグフフと笑って身をよじっている。

 緊張感のない……。

 三人を見ていると、訓練前の張りつめた気分が瓦解して自分もこの一団の中にいるのだと思うとたまらない気分になる。

「ポン操は消防団の花。おまえらは、誇りを持って練習するように」

 選手に選ばれたときの大崎分団長の言葉が空しく響く。

 練習のために集まった団員は、大崎分団長も含めて七名。良行には、その人数がどういう意味を持っているのかすら理解できていない。しかも、選手の一人はまだ姿さえ現してもいない。

 訓練用具が運び込まれても、団員たちには緊張感がなかった。しかし、体育館の外で団本部幹部を待っている大崎分団長には別の思いがあった。

 秋期査閲から数日経ったある日、大崎分団長は能島市の消防団を統括する岡野消防団長から突然呼び出しを食らった。能島市消防団の組織は、分団と呼ばれる組織が7つの町にそれぞれ存在し、その全ての分団は、団本部が統轄している。

 消防団長の執務室は、本署の3階にあり、普段は消防署の応接室になっている。岡野消防団長は、ドアをノックして入ってきた大崎分団長を見ると、すぐに要件を切り出した。

「大崎くん、近々、団本部会議があるんじゃが、相談があるんじゃ」

 大崎分団長は、のっけからイヤな予感に包まれていた。

「どんな相談ですか」

「それがの、来年のポン操大会の件で、他の分団から文句があってのう。県大会出場が各分団で持ち回りにする、という取り決めは知っとろう。じゃけど埴生は、今まで一回も県大会へ出とらんじゃろう。ワシは事情を知っとるから、埴生だけは勘弁してやってくれとずいぶん粘ってみたんじゃが、どうにもならんで……」

 岡野消防団長は事情を説明しながら冷や汗を浮かべている。

「うちに、県大会へ出ろっちゅうことですか」

 大崎分団長は絶句していた。

「そういうことなんじゃが、その代わり、県指導員の仲野君を派遣する。彼なら、なんとか格好だけは付けてくけるじゃろう」

 あいつか……。

 仲野県指導員といえば杓子定規で融通が利かず、能島市消防団の会議では、一度として妥協したことのない石頭だ。能島市消防団は、能島市消防団長を筆頭として、団本部に2人の副団長、1人の本部付き分団長、さらに団員の各種指導に当たる県指導員2名で構成されている。

「どうしてもと仰るんならやりますけど、仲野さんについて行けますかどうか……」

「そんなんは、いらん心配じゃ。とにかく頼むよ。近いうちに仲野君と会ってもらうからそのつもりで」

 大崎分団長は否応なく押し切られてしまった。ポン操大会で県大会へ出ることは分団長に任命されたときから覚悟はしていたが、それが現実になってしまうとさすがに荷が重かった。

 とうとうこの日が来たか。初日は視察に来るということにしとるが……。

 大崎分団長の待っていた仲野県指導員は、ほどなく埴生中学校の体育館に到着した。体育館の外で待っていた大崎分団長は、ただ一言、

「ごくろうさまです。どうぞこちらへ」と案内するしかなかった。

 急に体育館の雰囲気が重苦しくなってきた。大崎分団長が平身低頭、団本部幹部に付き添っている。その顔の特徴は、子どもアニメの主人公、アンパンマンにそっくりで、丸くて浅黒かった。

 良行にはその態度が尊大に見える。

 良行達と話していた橋本班長が大崎分団長に手招きされた。橋本班長はその指示を受けている。

「集まれ!」

 体育館に橋本班長の声が響いた。集合した団員は2列横隊に並んで、自主整頓していく。自主整頓とは、各自バラバラになっていた団員が指揮者の「集まれ!」の号令で2列横隊に集合し、自主的に右へ倣えして整頓することをいう。

 新人の良行は後列の端に並んだ。大崎分団長は列外の団本部幹部と並んでいる。

「右へならえ!…、番号!」

「一」

「二」

「三」

「……」

 隣に並んだ最古参の三好さんが、小声で、

「欠って言え!ケツ!」と横目で睨む。三好さんは大酒のみで、それが原因なのか今年の始めに痔の手術をしたばかりだった。仕事は土建屋で設計士をしている。

 良行は戸惑いながら、

「ケーツッ」と大声を出す。場違いな沈黙の後、橋本班長が引き続き号令を掛ける。

「なおれ」

 尊大な態度のアンパンマンがすかさず口を挟む。

「ケーツ、と伸ばさない。後列になった時、最後尾に並んどって、列が奇数になっとったら欠、偶数だったら満と報告するんじゃ。今日は練習じゃから口を挟むんじゃが、基本動作を忘れんように」

 消防団は基本的にボランティア活動だ。良行は、アンパンマンから失敗を指摘されてふてくされている。頭ごなしの命令口調には慣れていないのだ。

 あ~、そうなん。

 もったいぶった話し方だ。神経がカミソリで切られたみたいにさくっと切れそうになる。

 橋本班長はもう一度番号をかけ直し、列の最右翼一.五メートルの指揮者の位置に走り込む。

「橋本俊樹君、何年、消防団やっとるんね」

 アンパンマンが顔をしかめる。

「指揮者の位置につくときは、左から回り込むんじゃなかろー。最短距離で右足を軸にして内回りするんじゃろ。もういっぺんやってみ」

 橋本班長は頭を掻きながら最初の位置に付いた。動作をやり直して、正規の位置に付き、自主整頓すると、やけくそのような声で、

「整列、休め!」の号令を掛ける。団員は、「整列、休め」の号令が掛かると、気を付けの姿勢から肩幅の広さに足を広げ、両腕を後ろに回して手を組む姿勢をとる。

 アンパンマンの態度に、橋本班長もさくっときたらしい。ためらい傷も与えられないままカミソリで動脈を切られたような感じだったに違いない。

 大崎分団長が列の前に進み出る。

「気を付け!」

 大崎分団長が列の二番正面前に止まって列に向き直ると、橋本班長は再び号令を掛ける。

「分団長に、頭―、なか!」

 全員が大崎分団長に顔を向ける。橋本班長が敬礼し、大崎分団長が答礼を返すと、

「なおれ!」の号令がかかる。大崎分団長が気をつけの姿勢から右の手の平を少しだけひらひらと上に向けると、また号令がかかる。

「整列、休め!」

 大崎分団長が訓辞を始める。

「お休みのところ出動してもらい、感謝する。いよいよ、ポン操の訓練が始まる。4ヶ月は長いようで短い。しっかり訓練して、堵生分団の心意気を見せて欲しい。今日はそのため、仲野県指導員に視察していただくために呼んでいる。指導されたことは忘れないように。以上!」

「気をつけっ!頭―、なか!」

 橋本班長の号令が体育館の中に響く。敬礼がすむ。

「直れ!整列、休め!」

 今度は仲野県指導員が団員の前へ進み出る。大崎分団長の時と同じ動作が繰り返されると、仲野県指導員の話しが始まった。

「お疲れのところ、ご苦労様です。今日から堵生分団のポン操の訓練が始まるとのことで、分団長から要請があり、ここへやってきました。さっきから見ていると、基本動作のできていない方が多いようです。例えば、頭―、なか!です。まあ、人数が少ないから仕方ないんでしょうが、登壇者が真正面に近いこういう時は、素早く首を15度程度上に向けて正面に向き直るといった動作が必要です。ポン操大会では、採点にこうした節度が点数として大きくかかわってきます。どうか、今日の訓練でその点を習得して欲しいと思います。以上!」

 仲野県指導員の言っている「節度」とは、規律、基本動作のことを指す。節度には別の意味もあり、消防団では組織の統率力といった意味でも使われている。

 人数が少ないと仲野県指導員に指摘された時、大崎分団長も、さすがにさくっときたらしい。締められたばかりの魚みたいに眉毛がピクピク震えている。大崎分団長は、チラッと橋本班長に目を合わせると、すぐに視線を仲野県指導員に戻した。

 仲野県指導員がもとの位置につくと、橋本班長が再び小走りして正面に立った。

「では、今からさっそく訓練を開始しますので、準備を進めて下さい。大谷君がまだ来ていないようなので、もし来んかったら、智史さん代わりをお願いします。以上。別れ!」

 班長に敬礼し、列を崩すと、誰もが黙々と訓練の準備を再開した。班長から指名された智史さんは、去年まで副分団長をしていたのだが、仕事の関係で今は平に落ちている。ちなみに、智史さんの姓は、村上。智史さんと名前だけで呼ぶのは、埴生の町に岡野、村上といった姓が多いからで、名前を呼んだ方が分かりやすいからという事情がある。また、役職に関して「平」というのは、一般団員のことを指す。多忙な智史さんに副分団長は荷が重い役職だったようだ。

 古い体育館の床は薄墨を塗ったように見え、ポン操用に用意した新しいホースが目映く見える。集合前に貼り付けていた細かい位置取り用のテープに合わせて器具を並べていくと、大崎分団長と話していた仲野県指導員が近付いてきた。

「まあ、初日じゃからしょうがないけど、テープ貼るんじゃったら、ホースを置く位置なんかに貼らんと、待機線、ポンプの位置、伝令線、防火水槽の位置だけにしとかな。最初から感覚を養うんが大事じゃけの。まあ、ええんじゃけど」

 仲野県指導員は渋柿を食ったような顔をしてねちねちと説明する。

 そがーなこと、ワシが知るかい。

 ここから抜け出したい気分に襲われる。

 そのとき、体育館の錆びた鉄製のドアが開いた。

「うわわ。もう始まっとるん?ごめん、ごめん」

 なぜか股間に手を当てながら大谷が姿を見せた。そのへっぴり腰で良行のところへ小走りに近づいてくると、なぜか、

「ヨッちゃん、悪いのー」と申し訳なさそうに頭を下げる。新人の良行よりも遅れてきたことに気恥ずかしい思いがしたのだろう。

 大谷はタイル職人で、本人曰く、「かなりの腕前」なのだそうだ。新しくできた児童図書館のロビーに見事なタイル張りの装飾があるのだが、そのタイルを貼ったのは自分だと自慢していた。戦国時代、瀬戸内海で活躍した村上水軍の出陣を描いたもので、完成したときにはマスコミにも取り上げられ、その繊細なタッチで描かれたこの装飾はこの島に住む住人の誇りにもなっている。ちなみに大谷は、良行より年下だったが1年前に入団している。

 松崎が無遠慮にでへでへ笑いながら大谷に近づく。

「糞でもひりょったんじゃろう。それに、何なー、股に手を当ててからに」 

「ここへ来る前に小便しとったら、切れが悪うてパンツが濡れてしもうて」

「きちゃないやっちゃのー。それに、どうして遅れて来たんな」

「嫁がちょっとの」

「ちょっとって、何ねー」

「できとんのが分かったんで、祝い事しょったんよ」

「えーっ、トッちゃんがおめでたか!」

 松崎が素っ頓狂な声を張り上げる。その声に振り向いた全員の視線が大谷に注がれる。

「で、何ヶ月なんじゃ」

「今、5ヶ月じゃと」

「5ヶ月?それまで分からんかったんか」

「いやー、それがの、嫁は便秘じゃなぁーかと思よったらしんで。わしも、嫁がおかしいおかしい言うけー、ほんなら医者に診てもらえぇ言うたんよ。そしたら、おめでたじゃと分かったことよ」

「おまえ、やったじゃん」

 大谷は嬉し涙をまつげに溜めて松崎と会話している。大谷の嫁、俊美は、トッちゃんという愛称で親しまれている。良行の妹、円佳とは同級生だ。良行は、円佳から、トッちゃんは早く結婚したのに子どもが出来ないことを悩んでいるらしいと聞いたことがある。26才になる良行にはまだ恋人もいない。妹の円佳は、この春短大を卒業したばかりで5つ違いの21才、保母をしている。

 大谷に近づいてきた大崎分団長が、大谷の手を取って声を掛ける。

「よかったのー。これで男になれるのー。今日の訓練が終わったらいっぱいやろう」

 松崎のやつは、小さく右手でガッツポーズをしている。

「分団長、鶴姫、行きましょう」

 ノンちゃん狙いじゃ。松崎のやつ、ガッツポーズまでしやがって。調子のええやつじゃ。

 ノンちゃんは鶴姫の看板娘だった。松崎は消防団の恒例行事、秋季査閲のときの2次会で埴生町内にあるスナック鶴姫へ行き、そこで初めてノンちゃんと出会っている。それ以来、松崎は時々鶴姫に顔を出すようになったと噂されている。

「おまえの馴染みに行ってどうすんじゃ」

「ヨッちゃん、意地悪言うなや。ここんとこパチンコの軍資金も不足気味で苦しいところなんじゃ」

「じゃ、何か、さっきフフフン言うて、ええ台がある言うとったろう。ありゃあガセネタか?」

「わしゃあ、嘘は言わんで。保さんがレンチャンしとるの見とったんじゃけ」

 松崎はムキになって言い訳する。保さんは副分団長をしている先輩で、向井保、電設工事関係の仕事をしている。

「ほ~、古参のくせに来とらん思うたら、パチンコ屋におったんか」

 側で二人のやりとりを聞いていた大崎分団長が眉間にしわを寄せる。松崎は口に手をやって、横を向いた。他の団員は、休めていた手を再び動かして訓練の準備を整える。

 まったく口の軽いやつじゃ。保さんもいい迷惑だ。消防団なんてボランティアなんじゃけ、ちょっとぐらいサボってもえかろうもんじゃない。出とる台を前にして、わざわざ来ることもあるまーが。

 訓練参加者の中には埴生分団の部長をしている植野さんもいる。植野部長は三好さんと同期で時々きつい冗談を言う人だ。植野部長は智史さんと同じ会社に働いている人で、智史さんが副分団長を降りたとき、それまで仕事が忙しかったため、班長だった植野さんが部長に就くことで会社に仁義をつけたことになっているらしい。地域社会の狭い能島市では、職場での消防団の立場も確立されていて、大きな会社になれば、不文律として消防団の役職を持った者を職場に置くことを取り決めているところもある。

「おい、松崎。保ちゃん、何か言ようらんかったか?」

 植野部長が問いつめると、松崎は困ったような顔をして、渋々答えた。

「悪いけど、これすんでからの、と言うてました」

「罰金じゃの」

 植野部長は不敵な笑いを浮かべる。

 それまで植野部長と話していた橋本班長は松崎の話を聞いて複雑な顔をしている。その横では、植野部長の一言を聞いた大崎分団長がニヤッと笑っている。内心、棚からぼた餅で軍資金がもうすぐやってくる、とでも思っているのだろうか。

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