本編
「玖音、おいで」
優しく呼ぶ声はその子自身を指してはいなかった。
だがその子は声の主、柊燎貴に従う。
「良い子だね」
ふわりと頭を撫でられるが自分に向けているようでそうではないそれらにその子は無性に泣きたくなった。
どうしても止められない想い、行動に胸が押し潰されそうだ。
その子は玖音ではなくその三つ子の一番目、呉羽だった。
皇家には三つ子がいる。
上から次男の呉羽、三男の羽玖、そして長女の玖音である。
三つ子は顔も声もそっくりだった。
それ故に入れ代わりという遊びを度々している。
両親と三つ子の兄、紫呉以外にそれがバレたことはない。
初めは玖音から言われて渋々やっていたようなものだったが、今ではそれを自分が一番やりたがっているのではないかと呉羽は感じていた。
それは燎貴のことがあるからだ。
燎貴は呉羽に関心がないらしく、目の前にいても空気のように振る舞うのだ。
呉羽はそれが苦痛だった。
何故なら呉羽は燎貴のことが恋愛感情で好きだからだ。
呉羽が呉羽としてではなく『羽玖』か『玖音』としての時ならば燎貴は呉羽を構ってくれるので、入れ代わりが病みつきなってしまったのだ。
皮肉にもそんな呉羽が燎貴と初めて出会ったのは三つ子の中でも燎貴と一番親しい玖音と入れ代わっていたときのことだった。
それは半年程前のこと。
呉羽が『玖音』として出掛けた帰りだった。
大通りから小道に差し掛かった時、前から歩いてきたいかにも不良ですというような男性に声をかけられた。
「おい、嬢ちゃん。俺らどっかに財布落としちゃったみたいなんだよねー。電車に乗りたいんだけど金くれない?」
語尾が疑問形なのだが脅すように力強い相手の手が呉羽の肩に乗せられる。
呉羽は恐怖で俯き震える以外何もできなかった。
玖音なら怖がるどころかはっきりと拒否して追い払うだろう。
だがいくら玖音の格好をしていても性格までは変われない。
真似をできる範疇からすでに逸脱していた。
実は呉羽は何年か前にもカツアゲされそうになったことがあった。
たまたま通りがかった親切な人に助けてもらったので無事だったが、あれから不良に分類されるような人が怖い。
その時助けてくれた人も実は不良だったのだが、呉羽は気付いていなかった。
「おら、早く出せよ」
「いっ」
微動だにしない呉羽にじれたのか、強硬手段に出た相手の爪が食い込む。
呉羽は唸っただけでただただそれを耐えた。
「ぐずぐずすんなよ、早く金出せっ!」
ずっと下を向いていたが、拳が上げられたことが気配と肩への力の入れ方が変化したことでわかった。
殴られる。
そう思い、呉羽はぎゅっと目を瞑った。
しかし覚悟していた衝撃は訪れず、ふっと肩にあった力から解放された。
「君、大丈夫かい?」
運が良いのだろうか、再び誰かに助けてもらえたのだ。
恐る恐る顔を上げるとその人は優しい微笑みを返してくれた。
それが燎貴だった。
前の時とは違ってギリギリのところで助かったこともあり、呉羽はそんな燎貴に安心感を覚えて泣きついてしまった。
見知らぬ人にそんなことをされて迷惑だろうに、燎貴は呉羽を包み込んでそっと背を撫でてくれた。
「もう怖い人はいなくなったから大丈夫だよ。どこも怪我はないかい?」
「う、うん…お兄さっが、助けて、くれたからっ。あり、がとう。あと、泣いちゃっ、ごめんな、さい」
泣きじゃくりながらも必死で返事を返すと燎貴はぽんぽんと呉羽の頭を撫でた。
そのリズムが紫呉のものと似ており、呉羽は心地良さそうに目を伏せた。
「悪いのはあの怖い人だ。君を助けるのが遅くなって逆に俺が謝りたいよ」
「おっお兄さんは、悪くないっ、です…」
呉羽は何故か急激に恥ずかしくなって燎貴から赤らめた顔を隠そうと視線を逸らした。
たった今までは全くそうは思わなかったのに、とわけもわからず頭が混乱する。
そう、呉羽自身はまだ気付いていないのだがその瞬間に同性であるにも関わらず燎貴に恋をしてしまっていたのだった。
しかし泣き止み、身を包む玖音の服が目に入ったところで気付く。
今、呉羽は呉羽ではなく『玖音』なのだ。
それを思い出した瞬間、冷水を浴びたような気がした。
玖音は甘んじて他人からの好意を受け入れるタイプではない。
そう、こんなのは玖音ではないのだ。
呉羽は内心慌てて意識を切り替えると燎貴を鋭い目で見た。
「助けてくださったことには感謝します。でも、知り合いでもない女の子を抱き締めるなんて少し軽率ではありませんか?」
「え?」
呉羽の変貌振りに驚いたと思われる燎貴の表情がきりきりと呉羽の胸を締め付ける。
同時にこのままここにいればまた呉羽に戻ってしまい、本当のことを話してしまうような気がした。
そうならないように一刻も早くこの人から離れなくてはならない。
羽玖と玖音に相談もせずに勝手なことはできない、というのは言い訳で何よりも燎貴に騙しているということを知られたくなかった。
燎貴に嫌われたくなかったのだ。
「それでは、失礼します」
ちょこんとお辞儀をすると我に返った燎貴に腕を掴まれたがそれを振り切って呉羽は走り去った。
なるべく全速力のまま家の近くの公園まで辿り着くと呉羽は自分は何をやっているのだろう、とどこか他人事のように考えた。
そして何も燎貴について知らないことに今更気付いた。
そう、この時は名前すら聞いていなかったのだ。
何かがポッカリとなくなったような感覚に陥った呉羽はやっとあの一瞬のような出来事で恋に落ちたことを自覚した。
しかしもう会えないだろうに名前など知って何になるのだろうか。
そして同時にこれで良かった、とも思った。
同性への恋なのだ、出会ったのが呉羽が呉羽である時であっても叶うことはなかっただろう。
今ならまだ胸の痛みも小さくて済む。
そう自分に言い聞かせて落ち着いてから呉羽は家に帰った。
しかし玖音を見た途端に思い出してしまい、自室に籠もって泣いてしまった。
このことがあってから呉羽は入れ代わりを拒否するようになった。
また同じようなことがあったら嫌だったからだ。
羽玖も玖音もその日のことが原因であるとわかっているのだろう。
元々お遊びだったこともあって何も言わない。
こうして呉羽の淡い恋は儚くそこで終わってしまうはずだった。
それなのに何の報いなのか、その一ヶ月程後に燎貴は紫呉の友達として紹介された。
この時はまだ呉羽もこの恋に悩まされることなど気付きもしなかった。
「あれから大丈夫かい?」
「ええ、その節はありがとうございました。でもその話、もう止めにしません?」
再会した日、燎貴は呉羽ではなく玖音に声をかけた。
それがなければ呉羽はついそのまま駆け寄り、気軽に話しかけるところだった。
玖音には前もって言っておいたので、別段驚くことなく燎貴に不自然ではない受け答えをしている。
呉羽はそれを横で必死で平然を装いながら見ていた。
これが自然な形なのだ。
何故なら燎貴が出会ったのは呉羽ではなく玖音なのだから。
しかしそう自分に言い聞かせてもどうにもならないのが心だ。
気を抜けば見つめてしまう。
「何かな?」
やがて呉羽の視線が気になったのか、話しかけてきた。
口調は先程とは全く変わっていない。
しかしその声は鋭く、仕方なく視界の端に入れてやっていると言いた気な冷たさをどことなく感じた。
初対面であるはずなのに不躾にジロジロと見ていたのだ、嫌われてしまってもおかしくはない。
呉羽は身体中の血の気が下がったような気がした。
「な、何でもありません」
小さな呉羽にできたのはそう言って脱兎の如く逃げ、涙混じりに自室で寂しく居間での騒ぎ声を黙って聞くことだけであった。
いつもは敏感に呉羽の動向に反応する兄弟は何故か誰も来ない。
それだけに疎外感を物凄く感じた。
それから燎貴は頻繁に呉羽たちの家を訪れるようになった。
紫呉と会うためだけであればわざわざそうする必要はない。
その度に玖音に話しかけているところから、玖音のことを気に入ったのだろうか。
しかし時折羽玖にも声をかける一方、呉羽にそうすることは全くない。
たまに優しげな笑みを向けてもらえるが、正確にはそれはいつも呉羽の後ろにいた玖音へのものである。
邂逅の時に冷たくとも声をかけてもらえたことでさえも、現実のことではなく呉羽の痛い妄想であったかのようだ。
勿論何度か呉羽から話しかけようとはしたが、どうしてかいつも誰かが声を発っする時と重なってしまって実現していない。
だが例外もある。
それこそが今話しかけてもらえているように、入れ代わっている時だ。
それを再開したのは燎貴が初めて家に来た日から約一ヶ月後のことで、本当は自分から助けてもらった時のお礼を言う方法の最終手段として最後の一回を実行するはずだった。
だがそれが終わってみれば呉羽の扱いを知った分、『玖音』の心地よさをひしひしと感じて、これからの関係に身震いしてしまったのである。
そして日が経つにつれ、呉羽には与えられない燎貴のほっこりとした優しさが欲しくて欲しくてたまらなくなってしまったのだ。
それはひっそりと、しかし常習性の薬物のように呉羽の心を激しく侵して揺さぶった。
おまけに誰もが有害と知っているそのような薬物とは違って、求めることが悪いとは誰も言えないものなのだから質が悪い。
誰にも気付かれずになんとか十日程は耐えることができたが、結局その誘惑に負けた呉羽はつい決断してしまった。
入れ代わりを止めた理由は自分自身を見てもらえない悲しさを知ったからだ。
だから既に呉羽を見ていない燎貴が来た時だけであれば、周りには彼の他に家族しかいないのだから問題ない。
そう自身に言い聞かせた。
そして以前とは一転して若干渋い顔になる羽玖と玖音に気付かぬ振りをしながら入れ代わりを頼み続けているのだ。
さらに話すことさえできれば十二分であったはずなのに、最近は欲が出て呉羽自身を見てほしいと思ってしまっている。
優しい燎貴を騙しているのだ、本当はそれを叶えるためでなくてもこの茶番を続けるべきではないことは呉羽自身もよくわかっている。
しかしだからといって今の状況を手放すことがどうしても先の恐ろしさに怯えてしまってできない。
呉羽は罪悪感や自己嫌悪などの感情がない交ぜになり、入れ代わりを止めるか続けるかで板挟みになっていた。
「どうしたんだい、浮かない顔だよ。何かあったのかい?良かったら話してくれないかな?」
その声にはっとして呉羽が見上げると、そこには心配そうな燎貴の瞳があった。
どうやらこんな時にまで感傷に浸りきっていたらしい。
だからふらふらと吸い込まれるように玖音らしくない行動をまたしても起こしてしまったのだろうか。
不意に絡んだ視線を呉羽は反射的に軽く首を振って断ち切った。
「な、何でもないわよ」
そして今度は玖音らしく素っ気なく言い放ち、そっぽを向く。
すると燎貴は恐る恐る『玖音』の頭を撫でようとするのだ。
まるで『機嫌を直してくれるかな…?』とでも言うように。
だがそれに『玖音』は応えてはならない。
「だから貴方って人は無神経の愚図なのよ!」
それは逆効果なのだと告げるように、呉羽は同じ過ちを繰り返さずそれを振り払った。
きっと先程『玖音』が応えたのは時折ある気紛れだと燎貴は思っているに違いない。
そうしてしまうのは呉羽だけであり、またそうしない努力はしているため多くはないことなのだから。
そして燎貴はいつも応えてしまった後で拒絶すると、寂しい笑みを浮かべる。
呉羽はこれを見るのがとても心苦しい。
そんな表情にさせてしまっているのは呉羽のせいなのだから殊更だ。
「気を悪くさせてしまってごめんね」
「そう思うならね、さっさと帰りなさいよ!」
呉羽はそれだけ言うとそのまま背を向けて、燎貴が去るのを無言で待った。
本当はもっと一緒にいたいのに、流れでこうするしかない。
玖音が言い立てて燎貴を追い出すのはほぼ毎回であり、それはこのような時なのだから。
「……うん、それじゃあ、今日は帰らせてもらうよ」
呉羽は布擦れの音と気配で燎貴が立ち上がったことを感じ取った。
そして遠退く足音で燎貴が去っていることを実感する。
決して玖音は直視して見送ることはない。
だから『玖音』もできない。
代わりに背中でひっそりとそうするのだ。
しばらくして燎貴が発する音が聞こえなくなると、『玖音』から呉羽へと戻ってまたしてもやってしまったとうなだれた。
そしてまた一つ嫌な感情に捕らわれてしまうのだ。
こうしてこの日も相変わらずの入れ代わり生活が過ぎていった。
だが浅ましくもしがみついているこの一時さえも、ある日呆気なく崩れ去ってしまう。
最初は軽い風邪を引いたのだと思った。
しかし何日経っても声が以前の調子には戻らず、おまけに咳も痛みもない。
そのことに首を傾げていると突然紫呉に抱きつかれた。
「おめでとう、呉羽。実は兄ちゃん、前のが聞き慣れてるからちょっぴり寂しい気がするけど……今のもメロメロになれる自信がある!低くなっても呉羽は呉羽だからなっ」
そして目を白黒させているうちに紫呉にそう告げられてしまったのだ。
最初は何のことなのかわからなかったのだが低くなっても、というキーワードに思い当たって唖然としてしまった。
そう、呉羽は風邪を引いたのではなく声変わりしてしまっていたのだ。
女の子である玖音は勿論することはない。
羽玖はまだだ。
これは三つ子の中で一人だけ声が変わってしまったということを意味する。
これでは入れ代わりができない。
確かに『呉羽』は燎貴と喋ることはないのだから問題ないだろう。
だが、『羽玖』や『玖音』が風邪を引いた振りをするにしても常にどちらかがそうなのはおかしい。
それに風邪を演じるには不自然な咳やくしゃみは禁物だ。
呉羽にはそんなことまで演じきる自信がない。
その上燎貴は医大生なのだ、何を専攻しているかまでは聞いていないが、風邪程度なら本当に引いているかどうかくらい見抜かれるかもしれない。
「しー兄、気持ち悪い!」
「ぐあっ!?」
そう思考に捕らわれて血の気が引いていた呉羽を現実に戻したのは、潰れたような紫呉の声だった。
驚いて聞こえた方へと視線を向けると、紫呉が玖音に足蹴にされていた。
それを認識した途端、慌てて止めに入る。
「や、止めて、しー兄は悪くないよ。僕が声変わりしたことをただ喜んでくれてるんだからっ。怒るなら原因の僕でないと!」
「くれ兄は悪くないわよ。普通に喜べば良いのにしー兄ったら鼻息荒いから変態っぽいのよ。……でも、仕方ないわね。可愛く格好良くハスキーボイスになった大好きなくれ兄に免じて許してあげる」
「二人共、ありがとう。玖音も呉羽の魅力をわかってくれてるようだし、兄ちゃんは激・感激だっ!!」
呉羽が収束した事態に安心していると、横から紫呉が突撃してきた。
本人は単に感謝の気持ちをを伝える為に抱きついたつもりのようなのだが、当たりどころが悪かったらしく猛烈に痛い。
それを察してか玖音は怒りを込めて紫呉を再度睨み付けた。
「全然わかってないじゃない、能無しー兄!とっとと離れなさいよ」
「ふふふ、それは照れ隠しだな?兄ちゃんはちゃんとわかってるからな。本当は玖音だって兄ちゃんのこと、大好きだって」
「……」
「え、いきなり無視!?何だか独り言を言ってるみたいで兄ちゃん虚しいって」
呉羽はハラハラと再度同じ展開に転びそうな二人の様子を見守っていたが、やがてそれや痛みよりも紫呉の言葉に思考が移った。
照れ隠し。
果たしてそれが真実であるかどうかは当人に聞かない限りはわからない。
ただ何だかんだ言って玖音だって紫呉が大好きなのだ、それ故に高い可能性で有り得る。
しかし呉羽はそんなことよりも今回とは別の似たような玖音の態度のことを気にしていた。
それは燎貴へのものだ。
ただいなして終わっているだけでは玖音が三つ子の中で一番燎貴と仲が良いとは思わない。
話している頻度も勿論あるが、玖音だって時折は燎貴に応じているからそう思うのだ。
それも呉羽が『玖音』の時にやってしまう手のひらを返すような態度ではなく、いつもの悪態が嘘のようにしおらしく受け入れているのである。
そして玖音の燎貴に対する態度が照れ隠しだったのだとすると、二人は両想いに見える。
燎貴はいつだって玖音しか見ていないのは嫌でもわかりきっているのだから。
これがもしただの推測ではなければ、呉羽は可愛い妹の恋路を踏みにじっていたことになる。
だからもう入れ代わりができなくなって良かったのだ。
光ない瞳を伏せるとそう心の中で呟いた。
だがそれに気付いたところでそう簡単に想いを消せるはずがない。
声変わりしてから燎貴が初めて来たのはつい先程であるというのに、もう目の前の光景に平常心を保っていられないのだ。
「わ、わかったわよ…でも、ちょっとだけだからね」
「ごめんね、ありがとう」
燎貴はボソボソと内緒事で玖音と何かの約束を申し込んだらしい。
そしてそれが受け入れられたことが余程嬉しかったようで、しっかりと玖音の全身を包み込んだ。
玖音は最初はそこから抜け出そうとしたが、力の差で無理だと諦めてから膨れっ面になりながらもじっとしている。
その様子すらも可愛く見えるのだろう、燎貴はそれに対してふんわりと微笑み返した。
それは呉羽にはもう二度と向けられない温もりだった。
既にそれに侵食され切っている呉羽の心は悲鳴を上げ続けた。
どんな理由があろうとも燎貴を傷付け続ける玖音なんてもう知らない。
玖音も同じくらい、いやそれ以上にどうにかして苦しめたい。
そんな恐ろしいことを考えそうになる程、嫉妬してしまう。
このままここにいると本当にそれを実行にまで移してしまいそうだ。
だから気持ちと同じく重い身体を懸命に動かして自室に向かった。
「…くれ兄」
その姿に僅かながらも言い知れぬ悲しみを感じたらしく、呉羽を案じた呟きがこぼれた。
「ごめん、やっぱり黙ってられない」
そして何かに対して謝ると、声の主はしっかりとした足取りで歩き出した。
その足が辿り着いたのは呉羽の部屋の前だった。
そう、呉羽の後に続いたのだ。
彼の者は扉に右手中指の背をそっと当てるとそこで静止した。
ここまできて不意に迷いが生じたからである。
しかし一瞬の後、それに逆らって控え目に扉をノックした。
「くれ兄、僕だけど…開けてくれる?」
「羽玖…?」
声の主、羽玖はそれだけ言って待った。
だからか幾分悩んだらしく、数秒遅れて開いた。
「どうしたの、急に?」
そしてその隙間から顔を覗かせた呉羽は羽玖に笑顔を見せた。
きっとなんとなく内容を察していたのだろう。
それはどこか固く不自然だった。
「話したいことがあるんだ。部屋に入っても良い?」
「うん、良いよ。どうぞ」
呉羽はそう羽玖を招くと椅子に座るよう勧めた。
羽玖は素直にそれに従った。
「くれ兄、柊さんのこと、恋愛感情で好きでしょ?」
そして開口一番、前置きすらもなくいきなり本題に入った。
おまけにブレようがない言葉である。
まどろっこしいことをしている間に燎貴が帰ってしまえば、進んでほしいところまで進まないような気がしたためだ。
「な、何で…!?」
「乗り気じゃなかったくれ兄が、入れ替わりを続けたい理由がそれしか思いつかないから」
「それは……単に実際やってみたら面白いことに気付いたからだよ」
「言い出したのは柊さんが家に来るようになってからなのに?おまけにその少し前は嫌がってたよね?」
誤魔化すのは許さないと言わんばかりに、羽玖は畳みかけるように形だけの疑問形でそれを否定した。
「そ、そうだったっけ?だとしても偶然だよ。たまたまその頃に気付いただけ」
それでも呉羽は尚もはぐらかそうとしている。
だが苦しいのだろう、強張る笑みさえも崩れかけていた。
こんな風に矢継ぎ早に追い詰めるのは正直心苦しい。
だが呉羽の為にそうした方が良いのだから仕方がないと羽玖は自分に言い聞かせ、早くこの問答を終わらせたいと願いながら攻め続けた。
「でも『玖音』になる方が多いよね」
「そういう目で見てるからそう思うだけじゃないかな」
「あれ、そっちが先に出るってことは『玖音』の方が楽しいからとかじゃないんだ。そうそう、最後にくれ兄が『羽玖』になったのはいつか言える?僕は『玖音』なら言えるよ。それにその数回前までも」
すると羽玖の想いが通じたのか、呉羽はやっと言葉を詰まらせた。
そして程なく観念したのだ。
「ごめん、嘘吐いて。……そう、だよ。羽玖の言うとおり柊さんのことが」
そう言うと呉羽は最後の言葉を濁した。
肯定の意を既に返しているのだから隠そうとしているわけではない。
羞恥と恐怖が混ざった複雑な感情がそうさせているのだ。
もう少しかかると思っていた羽玖はほっとしながらも話を続けた。
「くれ兄のこと、そんなことで嫌いになれないよ」
「……本当?」
「うん、だって柊さんが好きなくれ兄も僕が大好きなくれ兄のまま変わらないし」
「そっか、信じられなくてごめん」
「仕方ないなぁ、くれ兄だから許す!」
「ありがとう」
何を恐れているのかがわかっていた羽玖は即座にそれを当て、否定した。
すると呉羽はやっと自然な笑顔を見せた。
羽玖は嬉しくなって冗談混じりで話を続けた。
だがいつまでも笑い合っていられない。
「それでね、告白ってしないのかな」
「……無理だよ。そもそも男同士だし、それに柊さんは僕のことが見えてないみたいだから。多分伝わりすらしないし、伝わっても絶対に受け入れてもらえない。きっと僕のこと、嫌いなんだよ」
呉羽はその光景を想像してしまったのだろうか、身震いした。
それならば、と羽玖は説得する為に口を開いた。
「例え断られても告白したかしていないかで諦めの気持ちが変わるって友達から聞いたよ。だからきっとした方がいい。そういう理由でしないなら、今からくれ兄は僕になって柊さんに告白すればいいんだよ。僕の時は話をしているんだから聞いてはもらえるし、僕はそういう理由で柊さんに嫌われたって平気だからね」
「でもそれって『呉羽』が告白したことにならないから結局意味がないんじゃないかな」
「ううん、そんなことない。確かに柊さんからしたら断る相手が違うけど、直接断られるからくれ兄の気持ち的には楽になるよ」
楽に、という言葉に僅かながら呉羽は動揺していた。
とても魅力的なのだろう。
ゴクリと唾を呑み込んでいた。
「実際にはっきり言われてないから諦めきれないんだよ。きっとくれ兄、心のどこかで期待してるんだ。それを消すために、ね?」
「……じゃあしよう、かな」
思い当たる節があったのだろうか。
やがて小さな声ではあったが、そのひと押しで呉羽は確かにそう答えた。
「よし、決断したら即実行!まだ柊さんいると思うから今すぐしよう」
「え、でもまだ心の準備が」
「やる気がある今のうちにやっちゃわないと。後になったら迷ってまたぐるぐる考えちゃうよ」
「……そう、だね。怖いからって後回しにしてたら駄目だよね。うん、するよ」
「じゃあ、服を取りに行ってくるね」
そう言うと羽玖は自分の服を部屋に取りに行き、直ぐに戻ってきた。
「はい、お待たせ。僕はくれ兄が今着てる服を着るから貸してね」
「ありがとう。あ、羽玖の服も準備するよ?」
「ううん、二人共着替えていたらおかしいからいいよ。見られてたかどうかすら怪しいけど、念のためにね?」
「そっか、確かにそうだね。じゃあ、悪いけど……はい」
「ありがとう」
そしてお互いの服を渡し合うと、それを着始めた。
羽玖の服を着るその手に躊躇いはない。
着替え終わるとそんな呉羽に羽玖はぽん、と軽く肩を叩いた。
「応援してるから、頑張ってね」
「うん、否定されるってわかってても緊張するけど、ちゃんと言うよ」
「約束だからね」
「うん、約束。じゃあ、行ってくる」
そう交わすと呉羽は燎貴の下に向かった。
だが呉羽はその一歩手前、リビングのドアの前に着くと、中から聞こえる話し声に震え上がった。
ここまで来てやっと逃げ出したことを思い出し、そして同じような光景が繰り広げられている可能性に気付いたのだ。
しかし羽玖の気持ちを反故にしたくない。
それにもう、玖音の邪魔をするのはこれきりにしたい。
今日告白しようと決意したのも、玖音のことが大部分を占めているのだ。
だから大きく深呼吸をして覚悟を決めると、ドアを開いた。
「あの…」
「珍しいね。どうかしたのかな?」
「ええと、その、ひ、柊さんに…」
「あれ、声が…?風邪を引いたのかな。大丈夫?」
やはり変声を勘違いしてしまったらしい。
燎貴は手のひらを呉羽の額に向けて伸ばした。
きっと手を当てて熱があるのか確認しようとしたのだろう。
だがそんな彼の袖を掴み、動きを止める者がいた。
玖音だ。
「『はく兄』、風邪なんだから向こうで大人しくしてないと駄目じゃない」
そして次に追いやるように呉羽の背中を押し、部屋から出そうとする。
やっぱり二人きりが良いんだ、と思いながらも呉羽は負けずに玖音に向かって告げた。
「あのね、ごめんだけど、僕から柊さんに秘密の話があるんだ。えっと、『くれ兄』と少しだけ待っててくれるかな?」
「え、う、まぁ、珍しいわね。私もいちゃ駄目なの?」
「そ、それは…」
だがそう返されて弱った。
これでは退室してもらいにくい。
呉羽は何と言えば好転するだろうかと考え込み、黙ってしまった。
「羽玖を困らせちゃいけないよ。家族には話しにくいことなのかもしれないんだから」
きっとそれを察してのことだろう。
燎貴が玖音をたしなめた。
すると玖音は二人をそれぞれ一瞥した後に、渋々といった感じで黙って部屋から出て行った。
その背を見送る燎貴に呉羽は二人に対して申し訳なくなった。
「すみません」
「秘密の話なら仕方ないから気にしないで」
「あ、ありがとうございます。ええと、本題の話ですが……今から変なこと言うんですけど、聞いてくださいますか?」
「うん、どうぞ」
そう了承を得たがなかなか次が出て来ない。
これまでにない燎貴の視線を感じてうまく気持ちが落ちつかない上に、後のことに怖じ気づいてしまって口が固まったように動かないからだ。
「慌てなくてもゆっくりでいいからね。何なら今日は止めて今度にする?メールでも良いよ?」
「……あ、い、いえ、すみません。後、ほんの少しだけ待ってください」
話すと言っておいて言葉を詰まらせた、そんな呉羽を心配したのだろう。
燎貴は羽玖とは真逆である先延ばしの提案をした。
そのことで呉羽は羽玖の、そして玖音の存在を思い出すことができた。
つい先程まで気にしていたはずであるのに、乱してしまった己の感情に捕らわれてあろうことか見失っていたのだ。
また自分のことしか考えていなかったことに対する後悔に、一層決意を固くする。
「気持ち悪いと思いますけど、柊さん、のことが…好き、なんです。その、恋愛感情として。男なのにすみません」
そして遂に押し込めるつもりであった想いを告げることができたのだった。
一つ目的を達成できたことで脱力しかけるが、まだ終わっていないと気力を振り絞る。
燎貴の反応を受け止めてこそこの告白に意味があるからだ。
どのように返ってくるのだろうか。
待ち構える次の瞬間がとても長く感じた。
「嬉しいよ、俺と同じ気持ちだなんて」
だがそんな呉羽に贈られたのは抱擁と柔らかな言葉。
微塵も想像していなかった展開に目を白黒させた。
今、呉羽は『羽玖』である。
要するに燎貴は羽玖に対して愛を告げたということになってしまう。
まさかの状況に大いに混乱した。
燎貴は玖音のことが好きなのだと思われていたが、当人の気持ちは違ったのだろう。
羽玖のことが好きなのであれば、早く目の前の『羽玖』が羽玖ではないことを伝えなければならない。
しかし何と告げるべきかわからない。
下手に呉羽だと主張しても何の冗談かと思われるだろうし、最悪告白もそうなのかと受け取られて傷付けてしまうかもしれないからだ。
だが結局はどう転んでも燎貴の気持ちを害することは避けられないだろう。
それに思い至って呉羽は後悔した。
何て最低なことをしてしまったのだろうか。
やはり告白などしてはいけなかったのだと泣きたくなった。
「どうしたんだい、そんなに可愛い顔をして」
「え、あう、そ、その、ぼ、僕…」
「ああ、そうか。君は羽玖……ではなくて、呉羽だよね?」
「え?」
それでも最小に抑える言葉はないかと返答に詰まって唸っていると、何と燎貴は『羽玖』の正体を言い当ててしまった。
そう、わかっていて呉羽を羽玖と呼んでいたのだ。
つまり三人の入れ代わりに合わせていたのだろう。
誰になりきっているのかは丸わかりなのだから見分けがつくのであれば簡単だ。
だがいくつか疑問が残る。
「あ、あの、どうして僕が呉羽だと…?」
「確かに三つ子だから真似してると違いはわからなかったよ……ぱっと見ただけだとね。真似って結局は演技だから、完璧にするのは難しい。よく見るとそれぞれの個性が少し出てたんだ。その内の一人が好きな子だったから尚更違いがわかったんだよ」
「そう、だったんですね」
言われてみればその通りだと呉羽は思った。
振り返ってみると入れ代わってそれぞれが誰なのかを当てるようにお願いしたのは、大半が三つ子と親しくない、特徴など掴みきれていないと思われる人たちだったのだ。
多少は性格が似ていなくても外見で惑わせて誤魔化せたというわけである。
少なくとも呉羽は気持ちに逆らって無理をしていたので、もしかしたらそれも燎貴が判別できた一因かもしれない。
「それで、俺が呉羽のことを好きってことはわかってくれたかな?」
「えっ!?」
そう一人思考を巡らせていた呉羽は不意に投げかけられ、やっと気付いた。
燎貴にとって告白の返事は当然呉羽に向けたものであったのだ。
その事実につい赤面してしまう。
顔を隠したいのだがまだ抱き締められたままなのだ、至近距離で隠しきれそうにない。
しかし何もしないよりマシだとできるだけ燎貴の胸に顔を埋めた。
その格好もかなり恥ずかしいのだが、必死になっている呉羽は気付いていない。
「もしかして、さっきのは呉羽の気持ちではなかったのかな…?」
「いっいえ、その、ちゃんと僕の気持ちです」
だがその様子に勘違いしたのか燎貴は弱々しく確認した。
疑われた呉羽も慌てて顔を上げてそれを否定する。
そうすることで目が合った。
いや、合ってしまった。
「良かった、恥ずかしかっただけなんだね」
露わになった表情でやっと真意を理解したらしい燎貴は、嬉しそうに呉羽の頭を撫でた。
複雑な気持ちを抱えながらもそれが心地良くて、つい猫のように目を細めてしまう。
だが幸せに浸ってばかりではいられない。
呉羽にはもう一つ確かめたいことがあるからだ。
「その、僕は柊さんに嫌われていると思っていたのですが……」
そう、呉羽の扱いに疑問が残る。
一般論では好きな人に対して構いたくなるはずだ。
それなのに燎貴は存在そのものを否定するかのように無関心であった。
「そんな、俺は呉羽のことを嫌ってなんかいないよ」
「けど、初めてお会いした時に僕が失礼な態度をとったから。だから、不快な思いをさせてしまって僕とは話さなくなったのだと。そう思っていました」
「ああ、なる程。参ったね…」
そう呟くと、燎貴は手を額に当てた。
やはりあまり良い印象ではなかったのであろう。
先程好意を確かめ合ったにも関わらず、自信がない呉羽はどんどん嫌な想像で押しつぶされそうになる。
すると何を考えているのか震えだした身体で察したらしく、慌てて燎貴は否定した。
「そうじゃないんだ、ごめん。まさかそんな風に感じてたとは思わなかったんだ。あの時は君に見つめられて緊張していただけだよ」
そして落ち着きを取り戻して話を続けた。
「その後については…入れ代わりに気付いていてそのままにしていたことに関係があるんだ」
言われてみれば、それぞれが誰なのかわかっていたのなら三人の遊びに付き合う必要はなかったはずだ。
訳が気になった呉羽はうなだれていた頭をそろりと起こして燎貴を見つめた。
「玖音は俺の気持ちを察していたんだ。俺は男だから呉羽のことを心配したんだろうね。警戒されてしまったから、呉羽に話しかけることも簡単にできなかった。だから入れ代わりを利用したんだ。呉羽が呉羽ではない時に声をかけるのは、玖音は特に気にしていなかったようだから。きっと見分けられていないと思っていたんだね」
「玖音…」
語られた真相で再度見失いかけていた燎貴の想いの深さを知ると同時に、何故玖音はいつも燎貴に対して手厳しい態度であったのかを理解した。
全ては呉羽の為だったのだ。
そんな玖音の気持ちが嬉しく、また知らなかったとはいえそれを非難してしまった自身が腹立たしい。
「妬けるな」
「え?」
「あ、いや……そんな顔をさせているのは玖音だよね?好きの次元が違っても俺のことでそういう表情にさせたことないからちょっと悔しくて」
発言の訳を説明しながらも燎貴は些細な変化すらも見逃さないと言わんばかりに呉羽を凝視し続けていた。
先程までの様子を見られていたこともあるが、何だか深いところを、全てを見透かされていそうで恥ずかしい。
そう思ってオロオロする呉羽に、燎貴は満ち足りたように微笑んだ。
「でも今はその顔で十分かな。これまでは悲しそうな顔にしかできなかったから。さてと、もう不安なことはないかな?」
「は、はい。ない、です」
「じゃあ、これが俺の気持ちだから。…いや、ちゃんと言おうか。俺は呉羽のことが誰かと比べられないほど好き。だから、どうか付き合ってほしいです」
「あ、あの、う、嬉しいです。僕も、柊さんのことが好きだから。その、初めて会った時から」
「俺だってそうだよ」
一緒だね、とかけられた弾んだ声に呉羽は曖昧に笑い返した。
きっと呉羽が思う初対面の場と燎貴が思うものは食い違っているだろう。
あの時は助けた相手が三つ子だということを燎貴は知らないはずで、知っていたとしてもまだ実際に会っていないため見分けが付けられなかったはずなのだから。
もしかしたらあの様な人助けはありふれたもので、もう記憶の片隅にさえないかもしれない。
呉羽はそれでも構わなかった。
燎貴の想いは実感できるのだから。
「あの、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。だけど、できればそんなに固くならないでほしいかな」
「はい、あ…う、うん。その、直ぐには無理かもしれま、ないけど…頑張ります、る」
「大丈夫だよ、意識していたらそのうち慣れるから。でも言い直すところが可愛いから、俺としてはしばらくそのままで良いかなと思っていたりするけど」
「えっ」
打ち解けた会話になるのはまだ先になりそうだが、こうして呉羽は望みがないと思われていた関係を手に入れたのだった。
後押ししてくれた羽玖にも感謝の気持ちでいっぱいだ。
だが短時間に様々な感情が巡ったせいだろうか。
「あれ、急に眠たくなってきちゃった」
「部屋に戻ってお休みしようか。ついて行くよ」
「でも…」
「話はまた今度しよう。無理して体調が悪くなったら心配だから」
「ではお言葉に甘えて、寝させて、いただきます。ありがと、ございます」
「ああ、言葉遣いがまた戻ってる。まぁ、今は仕方ないか」
「すみ、ません」
燎貴は苦笑いすると、今にも寝息をたてそうな呉羽を誘導した。
そしてそのまま一緒に部屋に入り、扉を閉めた。
◇◆◇◆◇
「嘘吐き、鬼、悪魔、卑怯者!」
それから数分後。
致命的な遅れを取りつつもなんとか異変に気付いて待ち構えていた玖音は、目の前に現れた男をそう罵った。
してやられただけに怒り心頭である。
だが男、燎貴はへらりと軽い笑みを見せるだけで全くそれを気にしていない。
その様子に玖音は今にも殴り込みそうになるが、それを押さえ込んだ。
呉羽が素っ気ない態度をとりながらも三つ子の中では燎貴と一番仲が良いと思っていた玖音は、実は想像とは真逆の関係なのであった。
「おや、どうして?」
「その猫被りも気持ち悪い。…って今はそんな話じゃなくて。私は嫌々とはいえちゃんと従ったのに、しー兄の友達だから我慢したのに裏切るなんてどういうことなの!?」
「え、そんなことしてないよ。ちゃんと俺に従ったら呉羽に酷いことはしないとは言ったけど、幸せにはしないなんて言ってないよね?」
玖音の言葉に対してそう燎貴はぬけぬけと言い放った。
ただ、二人で交わされた約束は確かにその通りではあったのだ。
反論の余地はない。
「しー兄のお馬鹿、鈍感!やっぱりこれから能無しー兄って呼んでやるわよ!!」
「え、えええええっ!突然どうしたんだよ、玖音!?兄ちゃん悲しいよ!!」
だから人となりを見抜けなかった紫呉に怒りの矛先を向けたようだ。
紫呉の部屋へと駆け込み、そう不満をぶちまけた。
紫呉が邪魔をすれば、いや最初から連れて来なければこんなことにはならなかったという思いからだ。
玖音は全く気付いてなかった。
例えそれらのもしもが実現していたとしても、燎貴にとってはただ面倒なものであるだけで、この結末を目指していたことに変わりないことなど。
そして必ずや到達していたことなど。
そう、『玖音』であった呉羽が助けてもらったと思っているあの出来事でさえも偶然ではない。
あの男は燎貴の手引きで動いていたのだから。
どうでもいい兄妹喧嘩を背に、燎貴は面倒だと思いながらも今後のために次の処理へと進んだ。
その足が辿り着いたのは羽玖の部屋。
ノックをすると勢いよく扉が開いた。
「おっと」
「あああっと、すみません。怪我しませんでしたか?」
「当たらなかったから問題ないよ」
「それなら安心しました。よく確かめもせずホント、すみません。……あ、あの、もしかしてくれ兄と?」
「あれ、ひょっとして呉羽も羽玖に相談してたのかな?ありがとう、お陰で気持ちを伝えられたよ。呉羽と付き合うことになった。これまで話を聞いてくれたお礼ついでに報告をしに来たんだ」
「あ、はい。黙っててすみません」
「いや、羽玖から伝わっても互いに信じれない気持ちが生まれただけだろうから、秘密にしてくれていて良かったんだよ」
「そう、ですか。そう言ってもらえると気が楽になります。それからこちらこそ、わざわざありがとうございます。良かった、通じたみたいで」
安堵する羽玖に、鋭い瞳を宿しながらも燎貴は先ほどまでとは打って変わって穏やかさを全面に出している。
これは羽玖を操るために仕掛けた罠。
弱いのに強がっているという振りをして、同情を誘ったのだ。
不憫さを強調するためにわざと見えないところで玖音を煽り、そして誘発した言動でその単純な心を刺激して。
結果、狙い通りに何も言わずとも有利になるように事を動かした羽玖はまだ利用できると踏んだ。
だから本性などまだ明かさないつもりだ。
「くれ兄におめでとうって言いに行かないと」
「呉羽は今、寝ているよ。それに多分、起きてから自分から報告したいと思っているんじゃないかな」
「あ……そうだね。待とうっと」
「さてと、俺はそろそろ帰るね」
「うん、僕で良ければくれ兄のついでにまた相談しに来てね」
「ありがとう。期待しているよ」
「えへへ」
何を指してそう告げられたのか羽玖はわかっていない。
惜しみなく笑顔を振りまくと燎貴はそのまま去った。
◇◆◇◆◇
「まだだ、足りない…平気で人を踏みにじってでも俺を求めるまで堕ちて来い。この俺にこんな想いを持たせた責任は取ってもらう」
そして帰宅するなり独りそう呟くと、狂ったように静かに笑い出した。
そのまま何かを引き出しから取り出して大事そうに抱えた。
それらは元は純白であったと思われるマフラーと手袋。
唇、そして頬に擦り寄せると最後に鼻を押し付けた。
薄汚れたそれらは燎貴のものにしてはとても小さく、何度もそうしたのかくたびれていた。
余程古いものなのだろう。
燎貴の心は呉羽だけで染まっていた。
確かに顔と声だけで言えば玖音も羽玖も呉羽そっくりだ。
しかし玖音は高飛車な、羽玖は幼過ぎる性格が気に入らない。
それに優しさだって違う。
勿論、他にも細々とした理由がある。
やはり呉羽ではないと駄目なのだと実感した。
呉羽の心も同じように早く染まれ、と呪いのように幾度となく呟き続けている望みをまた強く念じるとそのまま擦り付けた。
「はは、第一段階とはいえやっと呉羽を俺のものにできた……ふふふ、呉羽、呉羽、呉羽…!」
それから少しとはいえ前進した喜びのあまり、別人のような顔を浮かべて狂ったように名を呼び続けた。
呉羽はそんな燎貴を知らない。
きっと堕ちてくるまで知ることも、ない。
『あのね、ぼくぶるぶるしてないからだいじょぶ。だから、お兄ちゃんにあげるね。ぽかぽか、するといいね』