天使には兄が二人いました
玄関の扉が開く音と、買い物袋の擦れる音が重なった。
「ただいま戻りました」
先に姿を現したのは、スーツ姿の長身の男性だった。
年齢は二十代後半だろうか。整った顔立ちに、切れ長の目。眼鏡の奥の視線は落ち着いていて、自然と背筋が伸びる。
「初めまして。風花楓矢です。主に家庭教師を担当します」
丁寧な所作で頭を下げられ、俺も反射的に会釈を返した。
……この人は、まともだ。たぶん。
「で、こっちが問題児でして…」
甘梨さんが小声でそう言った直後、
「問題児とは失礼だな〜」
軽い口調とともに、楓矢さんの後ろから少年が顔を出した。
ラフなパーカーにスニーカー。俺と同じくらいの背丈で、年も近そうだ。
「風花唯斗。今日からここに住むことになった。よろしくなっ!尊!」
いきなり名前呼び。距離感が早い。
「……同い年、なんだよな?」
「そ!高校二年。奇遇だな」
奇遇というか、偶然にしては出来すぎている。
「唯斗、もう少し礼儀を――」
「はいはい、堅いこと言わない〜」
兄の注意を軽く流し、唯斗は部屋を見回した。
「へー、意外と普通だな」
それはこっちの台詞だ。
こうして、俺と風花兄妹三人の同居生活が始まった。
夕食は、甘梨さんが作ってくれた。
手際がよく、慣れた動きで料理が並んでいく。
「すご……」
「いえ、普通ですよ?」
本人はそう言うが、普通の中学生がこのレベルで料理できるとは思えない。
「尊様、苦手なものはありますか?」
「いや、特には」
「良かったです!」
そう言って微笑む姿に、また心臓が無駄に騒いだ。
夕食中、楓矢さんは淡々と今後の説明をしてくれた。
・生活費は父さんから振り込まれる
・家事は主に甘梨さん
・俺の学業サポートは楓矢さん
・護衛や雑務は唯斗
……護衛って何だ。常に一緒にいるってことか?
楓矢さんが続けて
「甘梨は来年からですが、唯斗は尊君と同じ学校に通います」
「え?甘梨さんは中学生?」
「マジマジ」
唯斗がニヤリと笑う。
逃げ場、なし。
夜。
自室に戻ってベッドに倒れ込む。
たった半日で、家に知らない人間が三人増えた。
しかも年下の女の子付き。
「……普通じゃない」
天井を見つめながら、ため息をつく。
コンコン、とノック音。
「尊様、起きてますか?」
扉越しに聞こえた声に、俺は一瞬だけ息を整えた。
「明日の朝、学校の時間などでご相談が……」
――明日。
そうか、もう始まるのか。
「分かった。今、行く」
ドアノブに手を掛けながら思う。
この家には、
もう“俺一人の時間”はない。
そうして俺は、
同居生活一日目の朝へ向かう準備を始めた。
第三章 自分の役目は
朝のリビングは、少しだけ賑やかだった。
「おはよーっす、尊! 今日パン? 米?」
唯斗はパーカー姿のまま、冷蔵庫を覗き込んでいる。
昨日まで初対面だったとは思えない距離感だ。
「……おはよう。パン」
「了解! じゃあ俺、バター係な!」
意味が分からない。
だが、場の空気は確実に明るかった。
キッチンでは甘梨さんが笑いながら調理をしている。
その様子を、唯斗はちらりと確認してから、また冗談を飛ばした。
「いやー、それにしても護衛って暇だわー。
朝から平和すぎて逆に不安!」
「……護衛って、そんなノリでいいのか?」
「いいんだよ。平和=仕事完了!」
軽い。
明るい。
陽キャ、確定。
唯斗はいつも笑顔だ。
登校中も、唯斗はよく喋った。
「同じ学校とか運命じゃね?」
「クラス一緒だったらウケるな」
「購買、どこ派?」
会話に困らない。
クラスにいれば、自然と輪の中心にいそうなタイプだ。
「なあ尊」
「ん?」
「護衛ってさ」
一瞬、声のトーンが落ちた。
ほんの一瞬。気づかない人は気づかない程度。
「……カッコいいよな」
「……そうか?」
「そうそう。守る側って感じでさ」
そう言いながら、唯斗は笑った。
その笑い方が、昨日のゲームを思い出させる――
ほんの少しだけ、作っているように見えた。
「……そういうこと言うなよ」
唯斗は軽く言いながら、目線を逸らす。
「なんで?」
「……別に」
「なんで、別に、なんだよ」
「うるさいな」
そう言って、唯斗はまた明るかったが__
その様子に、俺はなんとなく胸がざわついた。
ただの勘だ。
でも、勘はたまに当たる。
昼休み、屋上。
やっぱり唯斗はここにいた。
フェンスにもたれ、スマホを弄っている。
「ここ、好きだな」
「バレた?」
唯斗は笑ってスマホをしまう。
「陽キャは屋上好き説」
「偏見だろ」
「事実かもしれないだろ」
そんなやり取りをしながら、並んで空を見る。
「なあ、尊」
唯斗が先に口を開いた。
「俺さ、明るいだろ?」
「……まあな」
「クラスでもすぐ馴染めるタイプ」
「そうだな」
「だからさ」
唯斗は、空を眺めていた。
「お前なんか悩んでたりする?なんというか、笑顔が変っていうか…」
俺は我慢できずに聞いてしまった。
「え?」
唯斗が少しだけ驚いた顔をする。
「なんとなくだけど、無理してる時の笑い方と、素で笑ってる時の笑い方、違う。ほっほら、お前は甘梨さんと笑い方が似てるだろ!」
俺は焦りに焦ってよくわからないことを言ってしまった。
唯斗は黙った。
「推理ゲームのやりすぎかもしれないけどさ」
そう付け足すと、唯斗は苦笑した。
「……やっぱ、お前めんどくさいわ」
「悪かったな」
「いや」
唯斗は、フェンスを指でなぞる。
「当たってるから」
風が吹いた。
しばらく、二人とも何も言わない。
「俺さ」
唯斗がぽつりと言った。
「何もできないんだよ」
「……」
「兄貴は頭いいし、甘梨は家事ができるし。でも俺、明るいだけ」
自嘲気味な笑い。
「だからさ、護衛って役目があると、楽なんだ」
「役目?」
「そう。ここにいていい理由になる」
拳が、フェンスを掴む。
「何もできない自分でも、“守る”って言えば、許される気がして」
その横顔は、
さっきまでの陽キャのものじゃなかった。
「……俺も似たようなもんだ」
俺は言った。
「友達はいるけど、親友ってほどでもない。クラスにいても、流されてるだけ」
唯斗がこちらを見る。
「役目がないと、不安になるの、分かる」
しばらくして、唯斗は小さく笑った。
「なにそれ。同級生すぎだろ」
「同い年だしな」
「……なあ」
唯斗が、少しだけ真剣な顔になる。
「じゃあさ、俺の役目って何?」
その問いに、俺は即答しなかった。
少し考えてから、言う。
「別に、役目じゃなくていいんじゃないか」
「は?」
「お前、明るいだろ」
「自分で言うなよ」
「それで誰かが楽になるなら、それで十分だと思う」
唯斗は、目を逸らした。
「……それ、逃げじゃね?」
「かもな」
俺は肩をすくめる。
「でもさ。一人で思い詰めるより、マシだ」
唯斗は、しばらく黙ってから言った。
「じゃあさ」
「ん?」
「俺は、とりあえずお前の護衛でいい?」
その言い方が、少しだけ弱かった。
「いいよ」
俺は頷く。
「同級生だし」
「……親友枠?」
「まだ仮」
「ケチ!」
でも、唯斗は笑った。
今度の笑いは、さっきより自然だった。 甘梨さんの笑顔と面影もある。やっぱり兄弟だな。
教室へ戻る途中。
「なあ尊」
「ん?」
「今日の昼、購買付き合え」
「行く」
「護衛殿」
「立場逆だろ!」
そんなやり取りをしながら、教室の扉を開ける。
役目なんて、まだ分からない。
でも__
少なくともお前は今は、
一人じゃない。




