聖女を殴ったらすべての問題が解決しました。
八十九回目の死は毒だった。
宴のあと自室へ戻ろうとした足がもつれて膝をつく。喉の奥が灼ける。杯に注がれていたのは葡萄酒ではなかったらしい。
絨毯に頰を押し当てる。今回は事故死の分類か。もう何を数えても仕方がない。
遠くで甲高い笑い声がした。
またあの女だ。
視界が暗くなる。最後に胸を占めたのは怒りでも悲嘆でもなく、ただ重い倦怠だった。
——目を開けた。
天蓋から差し込む柔らかな春の陽光。窓辺で囀る小鳥。洗い立てのシーツが背中に触れて少しひんやりする。
ぜんぶ知っている。
今日は星暦九八七年、春の月の十五日。ベルシュタイン公爵家の長女イルゼ・フォン・ベルシュタインとして目覚める朝。王宮の園遊会に出席する日。第二王子ジークヴァルト殿下の婚約者として微笑み、あの男の隣に立つ日。
そして——聖女フローラが現れる日。
回帰してから何度目の朝だろう。五十を超えたところで数えるのをやめた。寝台に仰向けのまま天蓋の白百合の刺繍を見つめる。この縫い目を何度眺めたか。
最初の頃は怯えた。
何が起きているかわからず泣いた。侍女のグレーテに縋りつき「昨日のことを覚えていないか」と問い詰めて気味悪がられた。何をしても殺されてまた同じ朝が来る。
次に考えた。
原因を探って行動を変えた。人を頼り証拠を積む。宮廷の力関係を洗った。フローラの出自を辿り、ジークヴァルトの不実を書き留めた。
十七回目。陛下に直訴した。揃えた証拠を携えて膝をつき、声を振り絞った。
——陰謀の首謀者として斬首。
二十三回目。城を捨てて馬で駆けた。国境が見えたところで追手の矢が背中に刺さった。
三十一回目。フローラに歩み寄った。友人として笑い合って菓子を分け、連れ立って庭を散策した。
その夜、廊下の階段から突き落とされた。背中を押した手の感触だけ覚えている。柔らかくて冷たい指先だった。
四十回目。ジークヴァルトを避け通した。婚約者としての務めを一切放棄して屋敷に籠もる。不敬罪で処刑台に立たされた。
五十六回目。完璧な包囲網を敷いた。物的証拠を揃えて宮廷魔術師に鑑定を依頼し、貴族たちを味方につけた。あと一手のところでジークヴァルトに呼び出される。
「お前のような陰気な女に婚約者の資格はない」
婚約破棄の宣言。傍らに立つフローラの唇が小さく動いた。
——おたのしみに。
翌朝。馬車の車軸が折れた。
何をしても死ぬ。何を変えても壊れる。あの女が笑っている限り終わらない。
七十四回目のことは忘れられない。
処刑場に引き出された私を、父が——ベルシュタイン公爵が見ていた。この王国で最も背筋を伸ばして生きてきた男が、娘の前で膝をついた。灰色の瞳から涙がこぼれ落ちる。あの人が泣くのを見たのは母の葬儀以来だ。
助けられなかった。
何度やり直しても、あの涙を止められない。
寝台の上で拳を握る。爪が掌に食い込んで血が滲む。
窓の向こうで小鳥が鳴いている。空は快晴。園遊会日和。
——もういい。
八十九回死んだ。八十九回やり直した。策を練っては失敗し、逃げては捕まり、従っては裏切られた。頭を使うほど負ける。慎重に動くほど先を塞がれる。
なら。
考察はやめた。
全部、壊す。
深い考えがあるわけではない。ただ一つだけ八十九回の中で一度も試さなかったことがある。
あの女を殴る。
理屈も証拠も根回しもなしに。真正面から。
どうせ回帰するのだ。一度くらい暴挙に出ても罰は当たらないだろう。せっかくだからスカッとさせてもらおう……という意図がないわけでは、ない。
寝台から足を下ろした。素足が石の床に触れてひやりとする。何度味わったかわからないこの冷たさ。でも今日だけは心地いい。
呼び鈴を鳴らす。
「グレーテ。支度をして」
園遊会の会場は王宮東の庭園。薔薇の生垣に囲まれた広場に白い天幕が並び、楽隊が舞曲を奏でている。銀の大皿に蜂蜜漬けの洋梨やブリオッシュが山と盛られ、焼いた鶉に檸檬を添えた皿から湯気が立ちのぼる。何度見たか知れない光景だが、今日は不思議と空腹を感じた。
「イルゼ嬢、本日もお美しゅうございます」
「ありがとう存じます、マイヤー伯爵」
社交辞令を返しながら会場を見渡す。いつもの光景。いつもの顔ぶれ。
——いた。
人垣の向こう。栗色の巻き毛に翠の瞳。柔和な笑みを浮かべた小柄な娘。聖女フローラ。神殿から遣わされた神の愛し子。清楚で慎み深く誰にでも優しい——という皮の下に何が詰まっているか、私だけが知っている。
その隣でジークヴァルトが笑っている。金色の髪を陽光に輝かせ、碧い目を細めて、まるで恋に落ちた少年のようにフローラに語りかけている。婚約者が会場にいるのに恥じることもない。
かつてなら胸が痛んだ。七十回を超えてもまだ慣れないほどに。
今は何も感じない。
歩き出す。
真っ直ぐフローラへ向かう。人の間を縫い、挨拶も返さず、ドレスの裾が薔薇の茂みに引っかかるのも構わない。
フローラが気づいた。翠の目がこちらを捉え、唇の端がわずかに持ち上がる。
知っている。その顔。「今回はどう足掻くの」と問う顔。何十回と見た嘲りの色。
「ベルシュタイン公爵令嬢、ご機嫌よ——」
殴った。
拳を握り腰を入れ、体重を乗せてフローラの顔面を打ち抜いた。
公爵家直伝の右ストレートだ。
嘘だ。そんなものは存在しない。
肉を打つ鈍い音が庭園に響く。フローラの身体が吹き飛び背後の薔薇の生垣に突っ込んだ。茨が白い肌を裂く。栗色の巻き毛に花弁と血が絡みつく。
静まり返った。
楽隊の音が途切れ、どこかで杯が砂利に落ちて砕けた。
構わない。
生垣からフローラを引きずり出し、髪を掴んで砂利の上に叩きつけた。小さな悲鳴。拳に伝わる衝撃。白い頬に赤黒い腫れが広がる。
容赦はしない。八十九回殺された。一度殴り返すくらい帳尻が合わないほどだ。
いいや。帳尻なんかどうでもいい。どうせ死んでやり直す。なら好きにする。
「やめろッ! イルゼ!」
ジークヴァルトの声が飛ぶ。婚約破棄を告げるときと同じ声。振り向かなかった。
もう一度殴った。
もう一度。
もう一度。
足元のフローラはもう立ち上がれない。鼻血が唇を伝い、片目が紫に腫れて閉じかけている。白い聖衣の胸元を血が汚す。
近衛騎士が駆け寄ってくるのが視界の端に映る。あと数秒で取り押さえられる。
フローラの襟首を掴んで引き起こした。至近距離で目が合う。
初めて見る顔だった。
八十九回のどの周回でも拝んだことのないフローラの素顔。恐怖と屈辱で歪み、血と砂利にまみれた清楚の仮面の下の、醜い何か。
「何回殺した」
低く問う。
「——え」
「聞こえなかった? 何回、私を殺した」
沈黙。
殴った。
聖女の答えを待ち、それまでに私が沈黙を感じる度に。
このままではフローラに永遠の沈黙を与えてしまう、そう思った。
いいや、いっそのこと、そうしてしまえばいいのではないか。
殺意が灯った私の目に、翠の目が揺れた。恐怖。困惑。そして——怒り。
ぷつん、と。何かが切れた音がした。
フローラの血塗れの口がゆっくり吊り上がる。
「——あはっ」
笑った。
「あはは、あはははは! 殴る!? 九十回目にして殴るの!? ばっかみたい!」
甲高い哄笑が静まり返った庭園に響き渡る。
「八十九回よ! あんたが必死こいて足掻くのぜんぶ見てきたの! 泣いて、考えて、走って、媚びて、全っ部無駄だったのに! 最後の最後に暴力!? 頭おかしいでしょ!?」
近衛が私の腕を掴みフローラから引き離す。
「ぜんぶ私の呪いよ! 永劫回帰——何度死んでも春の月の十五日に戻る呪い! 私がかけたの! 私は覚えてるの! ぜんぶ、ぜーんぶ!」
フローラは立ち上がろうとして膝を突き、砂利に手をついて身体を震わせた。笑っているのか泣いているのかもうわからない。
「最初が一番おもしろかったわ。何もわからず泣くあんたの顔。次は一生懸命がんばるの——ぜんぶ無駄なのに! 陛下に直訴したときは最高だった! あんたが死にものぐるいで集めた証拠ね、ぜんぶ裏で潰してあげたの! あの絶望の顔! 傑作!」
庭園を埋め尽くす貴族たちが息を呑んだまま動かない。
「七十四回目、覚えてる? あんたのお父様が処刑場で泣いてたの。私ね、客席にいたの。蜂蜜入りの紅茶をすすりながら見物してた。美味しかったわ、あの日のお茶。あんたが首を落とされる瞬間にすすった一杯が格別で」
私の腕を掴む近衛の手が緩んだ。騎士の顔が蒼白になっている。
「ジークヴァルト殿下もいい見世物だったわ。毎回おんなじ顔で婚約破棄して、毎回おんなじ台詞であんたを切り捨てて、毎回おんなじように私のところに来るの。八十九回。一度も自分の頭で考えなかった。人形以下よ。人形のほうがまだ種類がある」
「嘘だ!」
ジークヴァルトが叫んだ。金色の髪が乱れ碧い目が血走っている。
「フローラ、なにを——殴られて気が動転して——」
「殿下」
フローラが振り向いた。腫れた顔で、にたりと嗤う。
「それ。それよ。その台詞。『気が動転して』って庇うパターン。三十七回目とまったく同じ。嬉しい? あなたは何も変わらないの。操りやすくて浅くて、自分が正しいと疑いもしない。選ばれたんじゃないのよ。選びやすかっただけ」
「何の騒ぎだ」
低い声が庭園を裂いた。人垣が割れる。
国王陛下が歩み出た。白金の冠を戴いた壮年の男。深い皺の刻まれた顔に浮かぶのは怒りではなく氷のような静謐だった。
その目が、砂利に蹲るフローラと、近衛に腕を掴まれた私と、青ざめたジークヴァルトを順に見渡す。
「陛下、これはベルシュタイン公爵令嬢が——」
「今の話は全て聞こえた。ジークヴァルト、黙れ」
第二王子が口を噤む。
「宮廷魔術師を呼べ。この者の魔力を調べよ」
宮廷魔術師ハンネスは白髪に杖をついた老人だが腕は確かだ。フローラの前に立って皺だらけの手をかざし詠唱すると、数秒で老人の顔から血の気が引いた。
「禁呪です、陛下。永劫回帰の術式。聖女の加護に巧妙に偽装されておりますが間違いございません。特定の人間を死の循環に縛りつける古代の呪法です」
「解呪は」
「術者の魔力を封じれば」
「封じよ」
銀の枷がフローラの手首にかけられた瞬間、空気が変わった。ずっとまとわりついていた見えない圧迫が消え、息が楽になる。胸の奥に貼りついていた重石が剥がれ落ちたような感覚だった。
「嘘よ!」
フローラが叫んだ。枷をかけられた手首を振り回し近衛の腕を引っ掻く。爪が騎士の頬を裂いた。
「触らないでよ! 私は聖女なの! 神に選ばれた存在なのよ! あんたたちに裁く権利なんかない!」
「引き立てよ」
国王は一顧だにしなかった。
近衛二人がかりでフローラを引きずっていく。白い聖衣の裾が砂利に汚れ、栗色の巻き毛がばらばらにほどけて垂れ下がる。腫れた顔で金切り声を上げ続けるその姿に聖女の面影はもうどこにもなかった。
「待ってよ! やめて! 離して! ジークヴァルト殿下、助けて! 殿下ッ!」
フローラの絶叫が庭園に響く。ジークヴァルトは目を逸らした。
「ジークヴァルト」
国王が息子に向き直る。
「この女との関わりを洗いざらい申せ」
「ち、父上——僕は何も知りません! フローラが呪術師だなんて——僕は騙されていただけです! 僕も被害者です!」
被害者。
私は近衛に腕を掴まれたまま口を開いた。
「殿下」
ジークヴァルトがびくりと肩を跳ねさせる。
「殿下は毎回、同じ台詞で私を切り捨てました。『お前のような陰気な女に婚約者の資格はない』。覚えていらっしゃらないでしょう。殿下にとっては一度きりのことですから。でも私は何度も聞きました。一字一句、同じその言葉を」
「そ、それは——」
「騙されていたのではありません。考えることを放棄していただけです。目の前の女が何者か一度でも疑いましたか。婚約者の訴えに一度でも耳を傾けましたか。——一度もないでしょう。八十九回のうちただの一度も」
ジークヴァルトの口が開き、閉じ、また開いた。碧い瞳に涙が浮かぶ。顎が震え、端整な顔がくしゃりと歪んだ。
「ちっ、父上! 父上、お助けください! 僕は——僕はなにも悪くありません——お願いです——」
金色の髪を振り乱して膝をつき、国王の外套の裾に縋りついた。涙と鼻水で顔が光り、声は裏返って喉から潰れた音が漏れる。この国の第二王子の姿とは到底思えない。
国王は息子を見下ろした。
「お前は九十回の猶予をもらっていた。一度も正しい判断をしなかっただけだ」
それだけ言って背を向ける。
「ベルシュタイン公爵令嬢」
足を止めず、私にだけ聞こえる声で言った。
「園遊会での狼藉については不問にする。——よく耐えた」
私の腕から近衛の手が離れた。
「イルゼ——」
ジークヴァルトが這って私の足元に縋りついた。涙と鼻水で光る顔を上げ、震える指が私のドレスの裾を握る。
「助けてくれ——僕はお前の婚約者だろう——」
膝を突き乞うようにこちらを見つめてくる姿。かつての自信は消え失せ、矮小で脆く見苦しい。これが私を殺し続けた男の正体か。
力づくで裾を振り払うと、骨ばった指が頼る場所を失い、惨めに尻もちをついた。
「気色が悪い」
低く吐き捨てた。感情を込める価値もない。碧い目が見開かれ——そのまま砂利の上に崩れ落ちた。
引き上げに来た近衛に腕を掴まれると「嫌だ、嫌だ嫌だ!」と叫び始める。
誰一人として足を止めなかった。
手袋の白い布地に赤い染みが広がっている。フローラの血か自分の拳の皮が裂けたのか。
どちらでもいい。
腫れた右手がじんじんと熱い。拳を開こうとしたら指が強張ってうまく動かなかった。
構わない。
これで終わりにする。
三日後、地下牢のフローラを訪ねた。
鉄格子の向こうの女は別人だった。栗色の髪は汚れてごわつき、翠の目は充血して濁っている。殴打の痕が黄色く残る顔に化粧っ気はなく、爪の割れた指で膝を抱えていた。
鉄格子越しに目が合う。
「来たの」
掠れた声だった。
「なんで。もう勝ったでしょ。私の呪いは解けた。あんたはもう死に戻らない。満足でしょ」
「聞きたいことがある。なぜ私だったの」
フローラは小さく笑った。乾いた唇の端が裂けて血が滲む。
「おもしろかったからよ」
「それだけ?」
「それだけ。あんたみたいな子が一番おもしろいの。真面目で一生懸命で絶対に諦めない子。何度殺しても立ち上がる。何度潰しても考え直す。最高の——おもちゃだった」
おもちゃ。
八十九回の死を、そう呼ぶ。
「あんたの前にもいたの。伯爵家の三女。神殿の見習い。騎士団長の奥方。でもみんなつまらなかった。十回くらいで壊れちゃう。泣き喚いて動かなくなるか、自分から命を絶つ。あんたは違った。八十九回やっても折れなかった。次は何をするんだろうってわくわくした」
「その人たちは今どこにいるの」
フローラは目を伏せた。薄い唇に笑みの残骸が浮かぶ。
「壊れたおもちゃはいらないでしょう」
背筋が凍った。あの女はこれを遊びと呼ぶ。人の人生を弄んで壊して捨てることを。
「処刑は明後日だそうね」
フローラが他人事のように言った。
「ねえイルゼ。最後にひとつ教えてあげる。あんたが殴ってこなかったら、百回目も死んでたわ。百回目は特別なのを用意してたの。あんたのお父様の目の前でゆっくり——」
「それ以上言ったらこの格子を壊す」
本気だった。
フローラの顔が引きつった。初めて——本当の意味で黙った。
踵を返した。振り返らない。
鉄格子の向こうでフローラが何か言いかけた気がしたが、足を止めなかった。もう聞く必要はない。あの女の言葉にはこれ以上一秒たりとも耳を傾けたくなかった。
処刑の日は晴天だった。
ジークヴァルトの処分はその前日に下されていた。王位継承権の剥奪。公務からの永久追放。辺境の離宮への幽閉。実質的な全権のはく奪だ、王族にとっては死に等しい罰だろう。
謁見の間で言い渡された瞬間に崩れ落ちて「嫌だ」と繰り返し叫んでいたと聞いた。近衛二人に引きずられて退場し、最後まで金切り声を上げ続けたという。
わざわざ見届ける気にはなれなかった。あの男の顔など、見なくて済むならそうするというものだ。
フローラの処刑だけは見届けた。
広場に据えられた処刑台の上。引き出されたフローラは脚が動かず、近衛に両腕を抱えられて引きずられてきた。白い聖衣はとうに灰色に汚れている。髪はぼさぼさに乱れ、腫れの痕が残る蒼白の顔が強い陽射しに晒されていた。
「やめて! お願い! 嘘なの全部嘘だったの! 私は悪くない! 悪くないのよ!」
群衆の前で泣き叫ぶ。鼻水が唇を伝い、涙で顔がぐしゃぐしゃに歪む。
「神様! 神様、助けて! 私はあなたに選ばれたのに! こんなの——こんなのおかしい!」
空は青く澄んでいた。
フローラの声が空に吸い込まれる。誰も答えなかった。
刃が落ちた。
短い悲鳴が途切れ、広場が静まり返った。
終わった——と思った。
でもまだ信じきれない。
その夜、寝台に横たわって天蓋を見上げた。白百合の刺繍。見慣れた縫い目。
明日の朝、目を開けたら——また春の月の十五日ではないだろうか。園遊会の朝。小鳥が鳴き、シーツがひんやりして、何もかも最初からやり直す朝。
ハンネスは呪いは解けたと断言した。でも信じるには長すぎる時間を繰り返しすぎた。
目を閉じる。心臓がうるさい。掌が汗ばむ。
死ぬのは怖くなくなった。八十九回も死ねば慣れる。
怖いのは、また同じ朝が来ることだ。
——そのまま、いつの間にか眠りに落ちた。
目を開けた。
天蓋。白百合の刺繍。
心臓が止まりそうになった。また——
窓辺を見る。
小鳥は鳴いていない。
灰色の空から細い雨が降り、窓硝子を雨粒が伝い落ちていた。
春の月の十五日は必ず晴れる。八十九回、一度の例外もなく。
雨が降っている。
飛び起きた。裸足のまま窓に駆け寄り両手で押し開ける。冷たい雨粒が顔を打った。庭園の薔薇が雨に打たれてしなだれ、石畳に水たまりができている。
知らない景色。八十九回のどこにもなかった景色。
膝から力が抜けた。窓枠にしがみつきながら床に崩れ落ちる。雨に濡れた頬を冷たい風が撫でた。
声が漏れた。笑っているのか泣いているのかわからない。たぶん両方だった。
「——終わった」
雨が頬を伝う。涙と混じって区別がつかなかった。
長かった。やっと、終わった。
「お嬢様! 窓が開いて——お風邪を召しますわ!」
グレーテが毛布を抱えて駆け込んできた。八十九回聞いた声。でもこの朝は知らない朝だ。
「グレーテ」
「は、はい? お嬢様、お顔が——」
濡れた顔のまま笑った。ひどい顔だろう。構わない。
「朝食の支度をお願い。父上もお呼びして。今日は二人でゆっくり食べたいの」
「……畏まりました。ですが先にお顔をお拭きくださいまし。お父様が驚かれます」
窓の外で雨が降り続けている。
冷たくて、新しくて、ただそれだけのことが泣きたいほど嬉しかった。
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