ラプンツェルと統合失調症の母
「ただいま」
草太くんが玄関の鍵を開けると、お母さんがすぐに現れました。
「おかえり。今日は何もなかった? 変な人に声をかけられなかった? 具合は悪くない?」
「大丈夫だよ、母さん」
塔野草太くん、高校一年生。お母さんの質問攻めは日常茶飯事です。
お母さんの美咲さんは五年前に統合失調症を発症しました。元看護師だったお母さんは、病気になってから「外の世界の危険」に異常なほど敏感になりました。
「草太、今日も位置情報オンになってるわよね?」
「うん、なってる」
「外出するときは三十分ごとに連絡。約束よ」
「分かってる」
草太くんの生活には、無数の「ルール」がありました。放課後の寄り道禁止。友達との外出禁止。部活動禁止。携帯電話の位置情報は常時オン。
お母さんは言います。
「外は危険なのよ。事故、犯罪、病気…あなたが無事でいることが、お母さんの生きがいなの」
玄関には七つの鍵。窓には防犯フィルム。草太くんの部屋は毎日チェックされます。
クラスメートの工藤くんが「今度カラオケ行こうぜ」と誘ってくれました。草太くんは笑って断ります。「ごめん、用事あるから」
本当は、お母さんが許さないと分かっているからです。誘いを断り続けて半年。工藤くんはもう諦めかけていました。
そんな草太くんの唯一の自由は、深夜のオンラインゲーム『エターナル・クエスト』でした。
お母さんが寝静まった午前十二時。イヤホンをつけ、草太くんは別世界へログインします。プレイヤー名は「ラプンツェル」。塔に閉じ込められた王女の名前を、自嘲気味につけたのでした。
そこで出会ったのが「フリンライダー」というプレイヤーだった。
『おお、ラプンツェルやんか。今日もダンジョン行くか?』
フリンライダーは関西弁で話す。画面の向こうは大阪の人だろうか。
『お願いします』
『ええよ。けど、無理せんといてな。疲れてへん?』
不思議な人だと思いました。ゲームが上手いだけでなく、草太の様子を気にかけてくれるのです。
『大丈夫です』
『ほんまかいな。最近、チャットの返事遅いで』
草太は苦笑しました。バレているのか。
『ちょっと色々あって』
『話せる範囲でええから、聞かせてくれへん? 無理強いはせえへんけど』
草太は少し迷ってから、打ち込みました。
『家が…厳しくて。外出とか、ほとんどできないんです』
『そうか。しんどいな』
『でも、親が心配性なだけで。僕のためを思ってくれてるから』
『せやな。けど、心配と支配は違うで』
その言葉が、草太の胸に刺さった。
翌日、草太は国語の授業中にぼんやりしていた。
「塔野くん、大丈夫?」
担任で国語教諭の勇仁羽汰子先生が心配そうに声をかけました。勇仁先生は特別支援教育コーディネーターも兼任している三十代の女性教師で、生徒の変化に敏感です。普段は標準語を話しますが、時折関西の言葉が混じりました。大阪出身だと聞いたことがあります。
「はい、すみません」
放課後、草太くんは職員室に呼ばれました。
「最近、元気ないね。何かあった?」
「いえ、何も」
勇仁先生は眼鏡の奥の目で草太くんをじっと見ました。
「そう。無理に話さなくてもいいけど、困ったことがあったらいつでも来てね。私、特別支援教育コーディネーターだから、色んな相談に乗れるよ」
「ありがとうございます」
草太くんは逃げるように職員室を出ました。
その夜、またフリンライダーとゲームをしました。
『今日、先生に心配されました』
『ほう。ええ先生やな』
『でも、話せないです。母のこと、誰にも言えない』
『なんでや?』
『母が…病気で。統合失調症なんです。それで、すごく心配性になって』
草太くんは初めて、母の病気を他人に明かしました。
『…そうか。しんどかったな、一人で抱えて』
『母は僕を愛してくれてる。でも、息が詰まりそうで』
『両方ほんまの気持ちやろ。お母さんを大事に思う気持ちも、自分の人生生きたい気持ちも』
『でも、僕が外に出たら、母が苦しむ』
『ちゃうで。お母さんが苦しんでるんは、病気のせいや。君のせいやない』
草太は涙が出そうになりました。
『フリンさんは、なんでそんなに親身になってくれるんですか』
『まあ、色々あってな。人の心配事、放っておかれへん性分なんや』
画面の向こうの人物が、急に身近に感じられました。
『君のプレイヤー名、ラプンツェルやんか。塔に閉じ込められた王女様や。それ、今の君のことやろ?』
『…はい』
『ほな、うちはフリンライダー。ラプンツェルを塔から連れ出す盗賊やな』
草太は思わず笑った。
『盗賊なんですか』
『せや。君の自由、盗み返したるわ』
ある日、工藤くんがまた声をかけてきました。
「なあ塔野、放課後十分だけコンビニ寄らない? 新作のアイス食おうぜ」
草太くんは反射的に断りかけましたが、フリンライダーの言葉を思い出しました。『自分の人生も生きてええんやで』
「…十分だけなら」
「マジ!? やった!」
コンビニに寄る。アイスを食べる。工藤くんは嬉しそうにサッカーの話をしました。
何でもない時間が、こんなに楽しい。
でも、帰宅が十五分遅れてしまいました。
玄関を開けると、お母さんが立っていました。
「どこに行ってたの!? 位置情報見たわよ! 学校じゃない場所にいた!」
「ごめん、ちょっとコンビニに」
「なんで!? 何かあったらどうするの!?」
お母さんは泣き出しました。
「お願い、お母さんを心配させないで。あなたは私の全てなの。失ったら生きていけない」
草太くんは罪悪感に押し潰されそうになりました。母を苦しめている。自分が悪い。
その夜、フリンライダーに打ち明けました。
『母が泣きました。もう外には行けません』
『そうか。でも、君のせいとちゃうで。お母さん、治療受けてるんか?』
『薬は飲んでます。でも、症状は良くならなくて』
『…あのな、君が我慢し続けても、お母さんの病気は治らへん。むしろ、君が塔から出ることが、お母さんの回復にもつながるかもしれへんで』
『そんなこと…』
『明日、学校で担任の先生に相談してみ?こんな時こそコーディネーターの出番やで』
草太くんは画面を凝視しました。
『なんで勇仁先生のことを…』
しばらく、沈黙がありました。
『…バレたか』
『フリンさん…まさか』
『せや。うち、勇仁や』
草太くんは息を呑みました。
『先生…だったんですか』
『すまんな。黙ってて』
『どうして…』
『偶然や。このゲーム、大阪おった時からやっててな。こっち来ても続けてたんや。で、「ラプンツェル」いう名前見て、もしかして塔野くんちゃうかって』
『塔野だから…ラプンツェル』
『せや。それで、君のプレイスタイル、チャットの内容見てたら、確信したんや』
『なんで黙ってたんですか』
『学校の先生として言うたら、拒絶されるかなって。境界線、越えてまうやろ。でも、ゲームの中やったら、対等に話せるかなと思ってな』
草太くんは複雑な気持ちでした。裏切られた気もするし、でも、救われた気もする。
『先生…関西弁、学校では使わないですよね』
『大阪出身やけど、こっち来て十年以上や。職場では標準語使うようにしとる。でも、ゲームでは地でしゃべっててん。それも見抜けへんかったやろ?』
『全然気づきませんでした』
『ほんまごめんな。けど、君のこと、心配やったんや』
翌日、草太くんは勇仁先生を訪ねました。
「先生、相談があります」
「どうぞ。落ち着いて話して」
勇仁先生は標準語で、でもどこか温かく応じてくれました。
草太くんは全てを話しました。母の病気。過保護なルール。息苦しさ。罪悪感。
勇仁先生は静かに聞いていました。
「そう。よく話してくれたね」
「先生、僕…母を愛してるんです。でも…」
「愛してるし、苦しい。両方とも本当の気持ちでしょ?」
草太くんは先生の目を見ました。
「先生、もう標準語じゃなくていいです。先生の言葉で話してください」
勇仁先生は少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑いました。
「ほな、素で行かせてもらうわ」
関西弁に戻った先生は、いつもより、何だかやんちゃに見えました。
「草太くん。君な、何も悪いことしてへんねん。ただ、自分の人生を生きたいだけや」
「でも…」
「ラプンツェル。あの子な、一瞬で塔から出たわけやないねん。少しずつ、髪を切って、降りていったんや。君も、少しずつでええ。焦らんでええ」
「先生は…なんでこんなに、僕のことを」
「…昔、似たような生徒がおってな。その子、学校やめてしもた。うちはまだ若手で、教育相談の方法なんか知らんくて、何もできんかった。それが、ずっと心残りやったんや」
勇仁先生は眼鏡を外して目を拭きました。
「せやから、今度は見過ごさへん。君を塔から連れ出す。それが、フリンライダーの役目や」
草太くんは泣きました。
「先生、ありがとうございます」
「まず、お父さんとお母さんと、ちゃんと話そ。スクールソーシャルワーカーも呼んで、家族面談しよか」
「母が…怒るかもしれません」
「安心しい。特別支援教育コーディネーターの名は、伊達やないで!」
勇仁先生は、にやりと笑った。
後日、関係者の面談が設定されました。勇仁先生は、草太が呆れてしまうほどの口八丁手八丁で、次々と色々な人を巻き込んでいきました。草太のお父さんも、会社を休んで参加することになりました。
スクールソーシャルワーカー、精神科医、市の福祉担当、教頭先生、養護教諭、勇仁先生、そして家族三人。
精神科医が説明しました。
「お母さんの過保護は、病気の症状です。愛情は本物ですが、判断力が歪められている」
お母さんは泣きました。
「私…草太を苦しめていたの?」
「お母さんのせいじゃないよ」
草太は母の手を握りました。
「病気のせいだ。でも、僕、もう少し自由が欲しい。母さんを愛してる。だから、一緒に治していこう」
お父さんも初めて真剣に向き合いました。
「美咲、俺がもっと早く気づくべきだった。これから、ちゃんと支えるから」
勇仁先生は言いました。
「草太くんは、お母さんを裏切ろうとしてるのではありません。お母さんと一緒に、新しい関係を作ろうとしてるんです」
先生の言葉に、お母さんは頷きました。
「先生、ありがとうございます。私…草太に、普通の高校生活を送らせてあげたい」
お母さんは治療を強化することに同意しました。草太くんも少しずつ「外」に出る練習を始めることになりました。
三ヶ月後。
草太くんはサッカー部の見学に行っていました。
「塔野、パス!」
工藤くんがボールを蹴りました。草太くんは受け止めそこねて転びました。
「大丈夫か?」
「平気、平気」
笑い声が響きます。草太くんも笑いました。
帰宅すると、お母さんが玄関で待っていました。
「おかえり。ケガはない?」
「うん、ちょっと転んだけど大丈夫」
お母さんは少し不安そうでしたが、笑顔で頷きました。
「そう。夕飯できてるわよ」
「ありがとう、母さん」
草太くんはお母さんを抱きしめました。お母さんも抱きしめ返します。
その夜、草太くんはゲームにログインしました。
『先生、今日サッカー部行ってきました』
『おお、ええやん! どうやった?』
『転びました。でも、楽しかったです』
『そうか。よかったな』
『先生、ありがとうございました。まだ完全には塔から出られてないけど』
『それでええんやで。窓が開いたんや。それが一番大事なことや』
『フリンライダーは、本当に盗賊みたいですね』
『ん?』
『僕の自由、盗み返してくれた』
『ちゃうちゃう。君の自由は、最初から君のもんや。うちはただ、それに気づかせただけや』
草太くんは自分の部屋の窓を開けました。
夜風が入ってくる。外の世界の匂いがする。
塔は今もある。お母さんの不安も、自分の罪悪感も。
でも、窓は開いている。
そして、いつか完全に外に出られる日が来る。
草太くんはそう信じて、画面の向こうの先生に「おやすみなさい」と打ち込みました。
『おやすみ。また明日な、ラプンツェル』
『はい。また明日、フリン』
温かい言葉が返ってきました。
草太くんは微笑んで、目を閉じました。
長い髪を少しずつ切るように、少しずつ降りていこう。
塔の外へ。




