鶴の「恩返し」と「リストカット」
「絶対に見られてはいけない…」
鶴は高校三年生の男の子。
部屋のドアノブには『Don't Enter』のプレートが下がっています。
三歳の冬、鶴のお母さんは病気で亡くなったそうです。さらにその一年後、お父さんは事故で他界しました。一人になった鶴を引き取ってくれたのは、父方の祖父母でした。
当時六十代だった祖父母は、年金暮らしの中で鶴を育ててくれました。新しい服を買うお金はなかったけれど、おばあちゃんは古着を丁寧に繕ってくれました。贅沢な食事はできなかったけれど、おじいちゃんは畑で野菜を育て、毎日の食卓を支えてくれました。
そして、鶴は物心ついた頃から思っていました。
この人たちに、恩返しをしなければならない。
小学校では常に成績優秀でした。鶴は、祖父母を喜ばせたい一心で、必死に勉強しました。中学でも学年トップを維持し、高校は、特待生として授業料免除の上、奨学金も給付される私立の進学校に入学しました。
頑張った甲斐があり、祖父母は鶴を誇りに思ってくれました。
「鶴は本当にいい子だね」
「お前のおかげで、生きがいができたよ」
鶴にはその言葉が嬉しい反面、とても重かったのです。
鶴は自分が「いい子」でなければ、この家にいる資格がないと思っていました。弱音を吐いてはいけない。迷惑をかけてはいけない。完璧な孫でいなければならない。
高校二年の春、その重圧は限界を迎えました。
きっかけは、模試の成績でした。
それまで常に学年三位以内の鶴が、十五位に落ちました。十分優秀な成績でしたが、鶴にとっては大事件でした。
その夜、祖母は優しく言いました。
「気にしなくていいのよ。一度や二度、順位が下がったって」
でも、鶴には祖母の目に、かすかな失望が見えた気がしました。鶴の恩返しをしたい心が、そう見せたのでしょう。
自室に戻った鶴は、机の引き出しからカッターナイフを取り出しました。
手首に刃を当てる。
一本の赤い線。
痛みとともに、不思議な安堵感が広がりました。
心の中にあった、言葉にできない重苦しさが、少しだけ軽くなりました。
それが始まりでした。
「おじいちゃん、おばあちゃん、お願いだから、絶対に僕の部屋を覗かないでね」
鶴はそう言って、部屋のドアノブに『Don't Enter』のプレートを取り付けました。
「鶴も年頃なんだね」
祖父母は笑って許してくれました。
鶴は長袖のシャツを一年中着るようになりました。夏でも、体育の授業でも、必ず長袖でした。
「暑くないの?」とクラスメイトに聞かれても、「肌が弱いから日焼けできないんだ」と答えました。
鶴は、夜な夜な自室でひっそりと傷つきながら、完璧な成績を保ちました。けれど、増えていく傷を見る度に、自己嫌悪が募っていきました。
「決して見られてはいけない。この傷を」
三年生の六月、転機が訪れました。
鶴が保健室で体調不良を訴え、養護教諭の山田先生が対応してくれました。五十代の、穏やかな女性です。
「横になる?」
鶴はベッドに横になりました。山田先生が鶴の額に手を当てます。
「熱はないわね。最近、眠れてる?」
「はい」
鶴は嘘をつきました。ここ数週間、毎晩のように悪夢を見て、十分に眠れていないのです。
山田先生は何も言わず、冷たいタオルを用意してくれました。そのとき、鶴のシャツの袖が少しまくれました。
手首から前腕にかけてびっしりと続いた、無数の傷跡。
山田先生の手が、一瞬止まりました。
鶴は慌てて袖を下ろしました。心臓が早鐘を打ちます。
「見ないでください」
声が震えました。
山田先生は、静かに言いました。
「見てしまったわ。ごめんなさい」
鶴は絶望しました。これで終わりだ。先生は祖父母に連絡する。祖父母を失望させてしまう。
「僕、帰らなきゃ……」
鶴は真っ青な顔で立ち上がろうとしましたが、山田先生が優しく肩に手を置きました。
「待って。話を聞かせてもらえる?」
「話すことなんて……」
「なんでもいいの。苦しかったこととか、辛かったこととか」
鶴は首を横に振った。
「僕は、大丈夫です。心配かけたくないんです」
「誰に?」
「…祖父母に」
山田先生は、静かに頷きました。鶴の家庭環境については、入学時から学校で情報共有されていました。頑張りすぎるきらいのある鶴を、先生たちは慎重に見守っていました。
「あなたは、ずっと恩返しをしようとしてきたのね」
その言葉に、鶴の涙腺が決壊した。
初めて、誰かに本当の気持ちを吐き出しました。
祖父母への感謝。同時に、完璧でいなければならないプレッシャー。弱音を吐けない孤独。リストカットで得られる安心感。
山田先生は、ただ静かに聞いていました。
「鶴くん、恩返しって何だと思う?」
山田先生が尋ねました。
「祖父母を、喜ばせることです。期待に応えることです」
「あなたが苦しんでいたら、おじいさんとおばあさんは喜ぶかしら?」
鶴は答えられなかった。
「本当の恩返しっていうのは、あなたが幸せに生きることだと思うの。傷つきと引き換えに成果を差し出すことじゃない」
「でも……僕が弱音を吐いたら、迷惑をかけてしまう」
「家族っていうのは、迷惑をかけ合うものよ。支え合うものよ。一方的に恩を返すものじゃない」
山田先生の言葉が、胸に染み込みました。
「おじいさんとおばあさんに、本当のあなたを見せてあげて。傷も、弱さも、全部」
「でも……」
「あなたのおじいさんとおばあさんは、完璧な孫がほしいんじゃない。あなたがそばにいてくれるだけでいいのよ」
その日の夕方、鶴は祖父母の前に座りました。
手首の傷を見せる勇気はまだありませんでした。でも、少しだけ、本当の気持ちを話しました。
「おじいちゃん、おばあちゃん。僕、ずっと完璧でいなきゃいけないと思ってた。二人に迷惑かけられないって」
祖父母は驚いた顔をしました。
「鶴、何を言ってるんだ」
祖父が言いました。
「お前は、何もしなくても、ここにいるだけで十分なんだぞ」
「そうよ」
祖母が続けました。
「あなたが笑っていてくれるだけで、私たちは幸せなの。成績なんて、二の次よ」
鶴の目から涙があふれました。
「でも……僕、迷惑ばかりかけて……」
「馬鹿言うな」
祖父が静かに怒りました。祖父の怒った顔を、初めて見ました。
「家族ってのは、迷惑かけ合うもんだ。お前が小さい頃、よく熱を出して夜通し看病したもんだが、それが幸せだった」
「鶴、あなたに何かあったら、私たちは生きていけないわ」
祖母が鶴の手を握りました。
「だから、辛いことがあったら、言ってちょうだい。一緒に乗り越えましょう」
鶴は、初めて、本当の意味で家族に受け入れられた気がしました。
それから、鶴の日々は少しずつ変わっていきました。
山田先生とカウンセラーの定期的な面談を受けるようになりました。祖父母にも、少しずつ本音を話すようになりました。
リストカットは、すぐにはやめられませんでした。習慣は、簡単には消えないのです。
祖父母はカウンセラーから話を聞いたり、本を読んだりして、自傷行為について勉強しました。
鶴は自分を傷つけたくなったとき、祖母のところに行くことが増えました。
「おばあちゃん、話聞いてくれる?」
祖母はいつも、温かいお茶を入れて、
鶴の話を聞いてくれました。
ある日、鶴は勇気を出して、傷を見せました。
手首どころか、上腕まで。これ以上切る場所など見つからないほどの傷跡でした。これが、鶴の心の傷跡でした。
祖母は泣きました。そして、ただ、優しく傷に触れて言いました。
「痛かったわね。一人で抱え込んで、本当に辛かったわね」
その言葉に、鶴は救われました。
古い傷は消えることはないでしょう。でも、それでいいと思えるようになったのです。
傷は、鶴が苦しみながらも必死に生き延びてきた証です。
ある晩、鶴は祖父母と一緒に夕食を食べながら言いました。
「おじいちゃん、おばあちゃん。ありがとう。二人に育ててもらえて、本当に良かった」
祖父が笑いました。
「こっちこそだ。お前が来てくれて、人生が豊かになった」
祖母が言いました。
「これからも、ずっと一緒にいましょうね」
もう、完璧な孫を演じる必要はありませんでした。ありのままの自分で、この家にいていいのです。
それが、本当の恩返しなのだと、鶴は知りました。
鶴は、部屋のドアノブから『Don't Enter』のプレートを外してから、勉強を始めました。
窓の外で、秋の虫が鳴いていました。
鶴の心に、穏やかな季節が訪れていました。




