性的マイノリティのかぐや姫
「また告白された」
かぐやは保健室のベッドに腰掛けて呟きました。窓の外では陽が傾きかけています。養護教諭の竹田先生は、お茶を淹れながら穏やかに微笑みました。
「今度は誰から?」
「バスケ部の先輩。もう五人目です」
かぐやの声は震えていました。
彼女は県立高校の一年生。中学時代から美術コンクールで全国入賞を重ね、ピアノコンクールでも優勝経験がある才女です。容姿も整っていて、入学早々から学校中の注目を集めていました。
けれど、かぐやには、誰にも言えない秘密がありました。
それは、異性にも、同性にも、恋愛感情を抱いたことが、ただの一度もないということです。
最初の告白は、四月の終わりでした。
「かぐやさん、好きです。付き合ってください」
サッカー部のエースだった三年生の石上先輩は、放課後の美術室で真剣な表情でそう言いました。かぐやは絵筆を握ったまま固まってしまいました。
いったい、どう断ればいいのでしょう。「恋愛感情がない」なんて言ったら、変な目で見られてしまいます。
「私が描いた絵が、県展で入選したら、返事をします」
なんとか返事を先延ばしにしようとして、咄嗟に出た言葉でした。
県展入選。高校生には難しいですが、かぐやの実力なら不可能ではない条件だと思えました。石上先輩は目を輝かせました。
「本当? じゃあ、絶対に応援する。俺、かぐやさんの絵が大好きだから」
その日から、石上先輩は毎日美術室を訪れるようになりました。差し入れを持ってきたり、制作の様子を見守ったり。かぐやが遅くまで残っていれば「送っていくよ」と待っていてくれました。
六月、県展の結果が発表されました。かぐやの作品は入選していました。
「やった! かぐやさん、おめでとう!」
石上先輩は飛び跳ねて喜びました。クラスメイトたちも拍手してくれました。けれど、かぐやは笑えませんでした。
「あの、石上先輩。私、やっぱり……」
「付き合えないの?」
石上先輩の顔から笑顔が消えました。
「ごめんなさい。私、まだ準備ができてなくて」
「そっか」
石上先輩は肩を落として去っていきました。廊下で、彼が壁に額を押し当てて立ち尽くしている姿を見ました。かぐやは罪悪感で胸が苦しくなりました。
二人目は生徒会長の北条先輩でした。
「かぐやさん、俺と付き合ってください」
石上先輩の件から一週間後、生徒会室で告白されました。今度は断り方を変えなければ、とかぐやは焦りました。
「私、今ピアノに集中していて。もし北条先輩が、私が目標にしているショパン国際コンクールに挑戦して、予選を通過したら……その時は、考えます」
ショパン国際コンクール。ピアノを習う者なら誰もが憧れる、世界最高峰のコンクールです。予選通過だけでも並大抵のことではありません。
北条先輩は驚いた顔をしましたが、やがて決意を込めて頷きました。
「わかった。俺、子供の頃ピアノ習ってたんだ。もう一度始める」
それから北条先輩は、毎朝誰よりも早く登校し、音楽室でピアノを弾くようになりました。昼休みも、放課後も。生徒会の仕事が終わってから、夜遅くまで。
かぐやは音楽室の前を通るたびに、ショパンの練習曲を耳にしました。最初はたどたどしかった演奏が、週を追うごとに上達していきます。
三ヶ月後、北条先輩は指を痛めました。それでも練習をやめませんでした。包帯を巻いた指で、必死に鍵盤を叩き続けました。
「北条先輩、無理しないでください」
かぐやが声をかけると、先輩は疲れた顔で笑いました。
「大丈夫。かぐやさんのためなら」
かぐやは何も言えませんでした。自分が出した条件が、こんなに人を追い詰めるなんて。
三人目は文芸部部長の車先輩。四人目はバスケ部の安倍先輩。五人目は吹奏楽部の大伴先輩。
車先輩には「私の書いた小説が文学賞の最終選考に残ったら」と言いました。先輩は毎日、図書館で文学書を読み漁り、かぐやの書いた習作を丁寧に添削してくれました。睡眠時間を削って。
安倍先輩には「全国模試で学年一位を取ったら」と言いました。スポーツ推薦で入学した先輩は、勉強が得意ではありませんでした。それでも毎朝五時に起きて勉強し、練習前と練習後に図書室に通いました。成績は少しずつ上がっていきました。でも、学年一位にはほど遠い成績でした。
大伴先輩には「私の作った曲が学校で演奏されたら」と言いました。かぐやは作曲の経験などありませんでした。でも先輩は「一緒に作ろう」と言って、音楽理論の本を何冊も貸してくれました。放課後、二人で音楽室にこもる時間が増えました。
夏休みが明けた頃、学校の空気が変わりました。
「かぐや、また難題出したらしいよ」
「あれって、全部断るためでしょ」
「石上先輩、まだ立ち直れてないって」
「北条先輩の指、腱鞘炎になったんだって」
廊下でそんな囁きが聞こえました。かぐやは足が竦みました。
ある日の昼休み、屋上で一人で昼食を取っていると、クラスの女子グループが通りかかりました。
「ねえ、かぐや。あんた、本当は誰とも付き合う気ないんでしょ?」
振り返ると、リーダー格の美咲が腕を組んで立っていた。
「それは……」
「石上先輩も北条先輩も、あんたのせいでボロボロじゃん。人の気持ちで遊んでるの?」
「違う、私は……」
「じゃあなんで、あんな無理な条件出すの?」
言葉に詰まった。言えません。自分に恋愛感情がないなんて。
「もしかして」
別の女子が囁いた。
「女の子が好きなの? だから男子を遠ざけてるとか」
「え、マジ?」
「だとしたら、私たちも気をつけなきゃ」
女子たちは笑いながら去っていきました。かぐやは屈み込みました。涙が溢れて止まりませんでした。
九月になって、さらに状況は悪化しました。
北条先輩は指の怪我が悪化し、医師から「このまま続ければ後遺症が残る」と言われてピアノを断念しました。生徒会室で書類を整理する先輩の横顔は、見るからに憔悴していました。
安倍先輩は睡眠不足で体調を崩し、バスケの試合中に倒れました。病院に運ばれたと聞いて、かぐやは震えが止まらなくなりました。
車先輩は視力が落ちて眼鏡を変えました。「夜中まで本を読んでたからね」と笑っていましたが、その笑顔は痛々しく見えました。
そして、大伴先輩。
「かぐやさん、曲できたよ」
先輩は楽譜を見せてくれました。かぐやが断片的に作ったメロディを、先輩が見事な楽曲に仕上げてくれていました。
「来月の文化祭で、吹奏楽部が演奏してくれることになったんだ。条件、クリアだね」
先輩は嬉しそうに笑いました。でも、かぐやは気づいていました。先輩の目の下の隈、痩せた頬、震える手。
「先輩……」
「これで、かぐやさんと付き合える」
違う。私はまた断る。また誰かを傷つける。
かぐやは走って逃げました。そのまま校門を飛び出し、誰もいない公園で膝を抱えました。
なぜ、自分はこんなことになってしまったのか。
誰も傷つけたくなかった。ただ、恋愛ができない自分を隠したかっただけなのに。
翌日、かぐやは学校に行けませんでした。翌々日も。三日目、母親に促されて登校しましたが、教室に入ることができず、保健室の扉を叩きました。
「竹田先生…」
かぐやは泣き崩れました。
竹田先生は何も言わずに背中をさすってくれました。しばらくして、かぐやは震える声で話し始めました。
告白を断るために出した無理難題のこと。でも、みんなが本気で挑戦してくれたこと。そして、自分のせいでみんなが傷ついていること。
「私、おかしいんです。誰のことも、恋愛的に好きになれないんです。男の人も、女の人も」
声が震えました。
「友達としては好きです。尊敬もします。でも、『付き合いたい』とか『キスしたい』とか、そういう気持ちが全然わからなくて。みんなが当たり前にできる恋愛が、私にはできない」
「石上先輩も、北条先輩も、みんないい人です。でも、どうしても恋愛感情が湧かない。それなのに、私は断れなくて、難題を出して、みんなを傷つけて……」
かぐやは嗚咽しました。
「私、最低です。人の気持ちで遊んでるって言われても、反論できない。でも、どうすればよかったのか、わからないんです」
竹田先生は長い沈黙の後、静かに言いました。
「かぐやさん、あなたは何もおかしくない」
「でも……」
「聞いて」
竹田先生はかぐやの手を握りました。
「あなたが感じているのは、アセクシャルと呼ばれる性的指向の一つかもしれない。他者に恋愛感情や性的魅力を感じない、あるいは感じにくい人たちがいるの」
かぐやは顔を上げました。
「それは病気でも異常でもなく、人間の多様性の一部。LGBT──レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーという言葉は知ってる?」
かぐやは頷きました。
「アセクシャルも、その多様性の中の一つ。推定では人口の約1%、つまり100人に1人くらいいるって言われてるの」
「そんなに……?」
「ええ。でも見えにくい。社会が『恋愛は誰もがするもの』『恋愛しないのは変』という前提で動いているから。だから、アセクシャルの人たちは、あなたみたいに一人で苦しんでしまう」
竹田先生は続けました。
「確かに、難題を出して人を傷つけてしまったことは、良い方法じゃなかったかもしれない。でも、あなたは自分を守ろうとしただけ。カミングアウトできる環境じゃなかったから」
「私、どうすれば……」
「一緒に考えましょう。まずは、傷つけてしまった人たちに、ちゃんと話す勇気を持つこと。そして、学校全体が多様性を理解できる環境を作ること。簡単じゃないけど、あなたは一人じゃない」
竹田先生と何度も話し合い、かぐやは決意しました。
まず石上先輩に会いに行きました。放課後のグラウンドで、一人ボールを蹴っている先輩に声をかけました。
「石上先輩、話があります」
先輩は驚いた顔をしたましたが、ボールを置いてベンチに座りました。
かぐやは震える声で話しました。自分がアセクシャルであること。恋愛感情がわからないこと。でも、それを説明できずに難題を出してしまったこと。
「本当に、ごめんなさい」
深く頭を下げました。
石上先輩はしばらく黙っていましたが、やがて言いました。
「俺、知らなかった。そういう人がいるって」
「はい」
「正直、傷ついたよ。でも……かぐやさんも苦しんでたんだな」
先輩は空を見上げました。
「ありがとう。ちゃんと話してくれて。俺も、無理に恋愛を押し付けようとしてたのかもしれない」
次に北条先輩、車先輩、安倍先輩、大伴先輩。一人一人に会って、同じように話しました。
北条先輩は包帯の巻かれた指を見つめながら「そうか」とだけ言いました。そして「でも、ピアノはもう一度始めてよかった。音楽の楽しさを思い出せたから」と微笑みました。
車先輩は「俺も調べてみる」と言いました。
「アセクシャルのこと。もっと知りたい」
安倍先輩は「勉強、意外と楽しかったぜ」と笑いました。
「推薦じゃなくても大学行けるかもって思えた」
大伴先輩は優しく言いました。
「かぐやさんが作った曲、本当に素敵だよ。文化祭、来てくれる?」
みんな、優しかった。理解しようとしてくれた。
でも、かぐやは知っていました。これで終わりではないことを。
竹田先生は校長や教頭と相談し、学校全体でLGBTQ+の理解を深める取り組みを始めることになりました。かぐやの同意のもと、実名は伏せた形で。
十月、全校集会が開かれました。
「多様性とは、違いを認め合うこと」
校長が語りました。
「恋愛するもしないも、誰を好きになるかも、個人の自由です。この学校で、実際に苦しんでいる生徒がいます。私たちは、すべての生徒が安心して過ごせる場所を作らなければなりません」
その後、各クラスでワークショップが行われました。外部から招かれた講師が話しました。
「LGBT──レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー。この言葉は聞いたことがあるかもしれません。でも、セクシュアリティはもっと多様です。アセクシャル、パンセクシュアル、クエスチョニング。人の数だけ、あり方がある」
「アセクシャルの人は、恋愛をしないから冷たいとか、人を愛せないとか、そういうことではありません。友情や家族愛は持っています。ただ、恋愛や性的な魅力を感じないだけ。それは、その人の個性です」
教室には静かな空気が流れました。何人かの生徒が真剣にメモを取っていました。
かぐやのクラスでは、担任の先生がこう言いました。
「もし、誰かから告白を断られても、それはあなたの価値が低いからではない。相手の気持ちは相手のもの。尊重すること。そして、誰もが恋愛を望んでいるわけじゃないということを、理解してほしい」
文化祭の日、吹奏楽部がかぐやと大伴先輩の曲を演奏しました。タイトルは「月の光」。
体育館は満員でした。演奏が終わると、大きな拍手が起こりました。
大伴先輩がマイクを握りました。
「この曲は、一人の後輩と一緒に作りました。彼女は、自分らしく生きることの難しさと、それでも前を向く勇気を教えてくれました」
かぐやは客席で涙を拭きました。
少しずつ、学校の空気が変わっていきました。
そして、冬になりました。
かぐやは両親と進路について話し合いました。
「私、海外の芸術大学に留学したい」
父と母は驚いた顔をしましたが、やがて母が言いました。
「かぐやが決めたことなら、応援するわ」
「でも、なぜ海外に?」
父が尋ねました。
「日本は変わり始めてる。学校でも、みんな理解しようとしてくれてる。でも、まだ『結婚して家庭を持つのが幸せ』っていう価値観が根強い。私は、恋愛や結婚以外の形で自己実現したい。もっと多様な生き方が当たり前に認められている場所で、自分を試してみたいの」
両親は少し寂しそうでしたが、頷きました。
翌年の春、かぐやは第一志望だったイギリスの芸術大学から合格通知を受け取りました。
卒業式の日、竹田先生がかぐやを呼び止めました。
「元気でね。あなたはきっと、素晴らしい芸術家になる」
「先生、ありがとうございました。先生に出会えて、救われました」
かぐやは深く頭を下げました。
校門を出る前、石上先輩、北条先輩、車先輩、安倍先輩、大伴先輩が待っていました。
「かぐやさん、頑張って」
「俺たち、応援してる」
「いつか、世界的な芸術家になってくれよ」
かぐやは涙を堪えながら、一人一人と握手をしました。
「みなさんを傷つけてしまって、本当にごめんなさい。でも、みなさんに出会えて、よかった」
空を見上げると、春の月が輝いていました。
五年後
かぐやの個展がロンドンで開かれました。テーマは「多様性の光」。さまざまな形の愛、さまざまな生き方を描いた作品が並びました。
中心に飾られた大作のタイトルは「五つの月」。その絵では、五人の人物が、それぞれ違う月を見上げていました。




