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進学校の山月記

 隴西中学校の李徴リチョウは博学才頴、定期考査の順位表は常に上位に名を連ね、教師たちは期待を込めた眼差しを向け、同級生たちは皆、李徴リチョウに一目置いた。


 李徴リチョウ自身もまた、すこぶる厚い自負心を抱いていた。自分は特別である、と。努力など、見せるものではない。天賦の才とは、涼しい顔で結果を出すものだ、と。


 しかし、進学校の門をくぐった瞬間、世界は一変した。


 周囲は皆、かつての彼のように才気あふれる者ばかりであった。地元で「天才」と呼ばれた者たちの集まり。


 最初の模試、李徴リチョウの校内順位は学年の丁度真ん中あたり。


 李徴リチョウは戦慄した。次こそは、と意気込んでみた。しかし机に向かうと、李徴リチョウは妙な焦燥に襲われた。


 ――もし全力を尽くして、それでも駄目だったら? 努力の果てに「凡庸」という烙印を押されたら?


 彼の勉強は、常に不徹底であった。そうすれば、「本気ではなかった」という言い訳が残るのである。


 成績は下がり続けた。


李徴リチョウ、最近元気ないな」


 級友が声をかけてきたのは、一学期の終わり頃であった。彼は努めて笑顔を作ったが、この頃からその容貌も峭刻となり、かつての自信にあふれた李徴リチョウの面影は、どこに求めようもない。


「ああ、ちょっと疲れてるだけ」

 

 李徴リチョウは彼らと話すことが苦痛であった。彼らは屈託なく笑い、テストの点数に一喜一憂し、部活に打ち込んでいる。なぜそんなに無邪気でいられるのか。自分が特別でないと知って、なぜ平気なのか。


 ――きっと、元から凡庸だからだ


 李徴リチョウはそう結論づけた。彼らは「普通」に満足できる人間なのだ。自分とは違う。


 そう思うことで、彼は己を守った。


 夏休みが明けると、李徴リチョウは教室の最後列、窓際の席に座るようになった。休み時間は文庫本を開き、誰とも目を合わせない。LINEグループの通知は切った。SNSも見なくなった。人と繋がることが、ひどく疲れるのだ。


 九月のある日、担任が放課後に呼び止めた。


「最近、欠席が多いな。体調が悪いのか?」


「……大丈夫です」


「何か困ってることがあれば、いつでも相談してくれ」

 

 李徴リチョウは曖昧に頷いて、足早に教室を出た。相談? いったい何を? 自分が「普通の人間」になってしまったことを? 期待に応えられない惨めさを?


 十月の中間考査、ついに李徴リチョウの成績は最下位集団にまで落ち込んだ。彼が鈍物として歯牙にもかけなかった連中が、はるか上位に鎮座していることが、往年の儁才 李徴リチョウの自尊心をいかに傷つけたかは、想像に難くはない。

 

 李徴リチョウは急に顔色を変えて教室からとび出すと、そのまま学校の外へ駆け出した。彼は二度と学校へ戻ってこなかった。


 朝、母親が部屋のドアを叩く。


李徴リチョウ、学校は?」


 無言。やがて諦めた足音が遠ざかる。カーテンを閉め切った部屋で、スマホの画面を眺めた。


 李徴リチョウは匿名アカウントを作った。そこで彼は、教室では決して口にしなかった言葉を吐き出した。


『努力すれば報われるとか嘘だから。才能ない奴は何やっても無駄』

『意識高い系の奴ら、マジでうざい。偽善者ばっか』

『リア充アピールしてる奴ら見てると吐き気する』


 攻撃的な言葉は、一時的な快楽をもたらした。誰かを貶めることで、自分がまだ「上」にいるような錯覚を得られた。リプライで言い争いになると、アドレナリンが放出された。李徴リチョウは言葉の牙を持つ獣に成り下がっていた。


 一月後、隴西中学校出身、私立の進学校へ通う袁傪エンサンという高校生が、気になるアカウントを見つけた。


 攻撃的な文面ばかりだったが、文体に覚えがあった。

 

 ――この言葉は、中学で仲がよかった李徴リチョウのものじゃないのか?


 袁傪エンサン李徴リチョウに電話をかけてみた。李徴リチョウは着信を無視した。二度、三度と鳴り続けたが、やがて留守番電話につながった。


 「もしもし、僕だよ、袁傪エンサン。久しぶり。君らしきアカウントを見つけたんだけど…悩んでいるようで心配になって。また、ゆっくり話そう」


 袁傪エンサンのメッセージを聞いた李徴リチョウの胸は早鐘を打っていた。


「…あぶないところだった」


 李徴リチョウは繰り返しつぶやいた。袁傪エンサン李徴リチョウにとっての親友であった。温和な袁傪エンサンの性格が、峻峭な李徴リチョウの性情と衝突しなかったためであろう。

 李徴リチョウは、いつか、袁傪エンサンと知らず牙を向けるかもしれない自分が恐ろしくなった。


 数日後、玄関のチャイムが鳴った。


李徴リチョウ、僕だよ。開けてよ」


 袁傪エンサンの声だった。しばらく沈黙があって、それから玄関越しに声が続いた。


「…学校行ってないんだって?何かあったの?心配して来たんだ」


 李徴リチョウの体が強張った。

 長い沈黙。


 やがて李徴リチョウが口を開いた。


「……俺、虎になっちまったんだ」


 袁傪エンサンは、黙ってドア越しに聞いていた。


「高校に入って、初めて自分が特別じゃないって分かった。でも認められなかった。努力する姿を見せるのが怖かった。本気でやって駄目だったら、もう言い訳できないから。才能がないって証明されるのが、怖くて」


 李徴リチョウの声が震えた。


「人を避けたのは、俺自身の臆病な自尊心と尊大な羞恥心のせいだった。でも独りでいるうちに、どうやって人と話せばいいかも分からなくなって。気づいたら、ネットで他人を攻撃することでしか、自分を保てなくなってた」


「それ以来今までにどんな所行をし続けてきたことか…お前にはとうてい言えない。俺は虎になった。人間の言葉を忘れかけてる。お前の顔を見ても、どう話せばいいか分からない」


 李徴リチョウは顔を覆った。


「でも、お前だけには覚えていてほしいんだ。俺が、まだ人間だった頃のことを」


 袁傪エンサンはしばらく黙っていた。それから静かに言った。


「君は人間だよ」


 李徴リチョウが顔を上げる。


「今、こうやって話してる。それが証拠だ。虎になんかなってない」


「でも……」


「完璧じゃなくていいんだよ、李徴リチョウ。君は『特別』じゃなきゃ価値がないと思ってるかもしれないけど、そんなことない。普通でいいんだ。普通の人間として、普通に失敗して、普通に悩んで。それでいい」


 李徴リチョウの目に涙が滲んだ。


「僕、君の小説、覚えてる」


 袁傪エンサンが続けた。


「中学の時、君が書いてた。主人公が旅をする話。あれ、すごく良かった。君にしか書けない物語だった」


「……あんなの、途中で投げ出したよ」


「そうかもしれない。でも、あの断片だけで十分価値があった。君の才能は消えてない。ただ、君が自分で檻に入っちゃってるだけだ」


 袁傪エンサンは続けた。


「無理に学校に戻れとは言わない。でも、助けてくれる人はいる。僕もいるし、ちゃんと話を聞いてくれる大人もいる」


 李徴リチョウは黙ったまま聞いていた。


 その後、李徴リチョウは2階へ行き、窓から袁傪エンサンを見送った。遠目にも分かるほど変わり果てた李徴リチョウの姿に、袁傪エンサンは心を痛めつつ帰路についた。


 翌週、李徴リチョウの家に一通の手紙が届いた。学校のスクールカウンセラーからだった。袁傪エンサンが、自分の学校を通して相談したらしい。


李徴リチョウさんへ。


 あなたが今、とても苦しい状況にいることを聞きました。無理に学校へ来なくていい、と伝えたくて手紙を書いています。


 いつでも話を聞きます。いつでも待っています』


 李徴リチョウは手紙を握りしめた。


 その夜、久しぶりにパソコンを開いた。中学時代に書いていた小説のファイルを探し出す。未完のまま放置されていた物語。主人公が、暗い森を抜けて光を探す話だった。


 李徴リチョウはキーボードに指を置いた。


 言葉は、すぐには出てこなかった。しかし、一文字、また一文字と、少しずつ紡いでいった。


 李徴リチョウが完全に教室に戻るまで、半年かかった。週に一度、カウンセラーと話すようになり、少しずつ、人と関わる練習を始めた。袁傪エンサンは変わらず連絡をくれた。クラスメイトの何人かが、さりげなく声をかけてくれた。


「おう、久しぶり」


「元気だった?」


 責める者は誰もいなかった。李徴リチョウは気づいた。彼らは「凡庸」なのではない。ただ、自分を許すことができる、強さを持っているのだと。


 夕暮れの空に、細い月が浮かんでいた。

 李徴リチョウは空を見上げ、深く息を吸った。完全に「元通り」にはなれないかもしれない。でも、それでいい。


 人間として、不完全なまま、それでも歩いていける。


 李徴リチョウの心に、小さな希望の光が灯った。

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