ウサギとカメの発達特性
小学6年生のウサギくんは、今日も一人で本を読んでいます。
「ねえ、ウサギくん、一緒にドッジボールしようよ」
クラスメイトが声をかけてきたけれど、ウサギくんは本から顔を上げずに答えました。
「しない。僕、このブラックホールの本、読み終えたいから」
「また難しい本読んでるんだ。すごいね」
すごい、か。
ウサギくんは心の中で思いました。
みんな、そう言う。すごいね、頭いいね、天才だね。でも、誰も本当の意味で話をしてくれない。
クラスメイトが去った後、ウサギくんは、さらにページをめくりました。文字がどんどん頭に入ってきます。でも、心はからっぽのままでした。
昼休み。教室に一人残って、ウサギくんはノートに数式を書き連ねます。この前テレビで見た量子力学の問題を、自分なりに解こうとしていたのです。
「変なの」
聞こえてきた声に、ウサギくんの手が止まりました。振り向かない。振り向いたら、傷ついてるって気づかれる。
「ウサギくんって、宇宙人みたい」
「ほんと。何考えてるか分かんない」
笑い声が遠ざかっていきます。ウサギくんは何も聞こえなかったふりをして、数式を書き続けました。シャープペンシルを握る手に、じんわりと汗がにじみました。
僕は変なのかな。宇宙人なのかな。
そんなことを考えてはいけない。考えたら、胸の奥がぎゅうっと痛くなる。だからウサギくんは、もっと難しい問題を解こうとします。考えることをやめないために、考え続けます。
放課後、担任の先生が声をかけてきました。
「ウサギくん、今日も一人で勉強?」
「うん。一人のほうが集中できるから」
嘘でした。本当は、一緒に遊ぶ友達がいないのです。でも、それを言ったら先生は心配します。心配されるのは嫌でした。
僕は大丈夫だって思われたい。
「そっか。でも、たまにはみんなと遊ぶのもいいよ」
「先生、僕、みんなと話が合わないんだ」
言ってから、しまったと思いました。でも、先生は優しく笑っただけでした。
「そうね。でも、話が合わないって思ってるのは、ウサギくんだけじゃないかもしれないよ」
その言葉の意味が、ウサギくんにはよく分かりませんでした。
小学生3年生の 「カメちゃん」は、文字が嫌いです。
黒板に書かれた「ひらがな」は、まるで生き物みたいにうねうねと動いて見えました。「あ」と「お」の区別がつかないし、「め」は何回見ても覚えられません。
「カメちゃん、次、読んで」
国語の時間、先生の声にカメちゃんは凍りつきました。教科書を見つめます。文字が、ぐにゃぐにゃに歪んで見えました。
「た、な、ば、た...」
隣の席のお友達が、小さな声で教えてくれました。優しいお友達です。でも、その優しさが今は針のように痛く刺さります。
「たなばたの、ひに...」
読むのに、ものすごく時間がかかります。クラスのみんなは、もうとっくに読み終わっているのに。カメちゃんの頬が、じんわりと熱くなります。
「はい、次」
先生の声に、カメちゃんはほっとしました。と同時に、自分はダメだという気持ちが、胸いっぱいに広がりました。
休み時間、カメちゃんは図工室に逃げ込みました。ここなら誰もいません。
色鉛筆を取り出して、白い紙に向かいます。手を動かすと、心が落ち着きます。青い空、緑の草原、赤い花。色が生まれていきます。
文字は読めない。でも、絵なら描ける。
絵を描いているとき、カメちゃんは自由でした。誰かと比べられることもない。「遅い」と言われることもない。ただ、色と形があるだけ。
「きれいな絵だね」
いつのまにか、上級生の男の子が図工室に入ってきたことに、カメちゃんは気づきませんでした。
それは、読書する部屋を探していたウサギくんでした。
カメちゃんは、慌てて絵を隠そうとした。
「見せて」
ウサギくんは興味を引かれていましま。カメちゃんの絵が、教室に飾られているのを見たことがあります。色が、不思議なくらい綺麗でした。
「で、でも...」
「僕、絵、好きなんだ」
嘘ではありません。ウサギくんは美しいものが好きでした。数式の美しさ、宇宙の美しさ、そして、絵の美しさ。
カメちゃんが恐る恐る絵を見せました。青い空に浮かぶ、大きな月。その周りを飛ぶ、色とりどりの鳥たち。
「すごい」
ウサギくんは素直に言いました。
「これ、月の周りを飛んでるの、鳥?」
「うん。夢で見たの。月まで飛んでいく鳥」
「実際には鳥は宇宙空間を飛べないんだ。空気がないから」
カメちゃんの表情が曇りましたが、ウサギくんは構わず続けます。
「夢の中なら、鳥は月まで飛べる。そういう絵って、素敵だと思う」
「...本当?」
「本当。僕も、よく宇宙の夢を見るんだ。ロケットに乗って、火星まで行く夢」
カメちゃんの目が輝きました。
「お兄ちゃん、宇宙、好きなの?」
「うん。大好き」
二人は、話し始めました。ウサギくんが宇宙の話をすると、カメちゃんは目を輝かせて聞いてくれました。分からない言葉もたくさんあるだろうに、カメちゃんは一生懸命に聞いてくれました。
カメちゃんが自分の描いた絵の話をすると、ウサギくんは心から興味を持って聞きました。色の組み合わせ、形の意味、描いているときの気持ち。
「カメちゃん、絵を描いてるとき、どんな気持ち?」
「えっと...自由な気持ち。何も考えなくていい感じ」
ウサギくんは頷きました。
「僕、数学の問題解いてるとき、そんな感じ。何も考えなくていい、っていうか、他のこと考えなくていい感じ」
「他のこと?」
「うん。嫌なこととか、辛いこととか」
カメちゃんは、じっとウサギくんを見つめました。
「ウサギくん、辛いことあるの?」
ウサギくんは答えません。でも、カメちゃんには分かりました。
「私ね、勉強できないの。字が読めないし、みんなよりずっと遅い」
「そうなんだ」
「だから、絵を描いてるときだけ、それを忘れられる」
ウサギくんは、初めて誰かに本当のことを言いたくなりました。
「僕ね、友達いないんだ。みんな、僕のこと変だって思ってる」
「私も。バカだって思われてる」
二人は顔を見合わせました。そして、小さく笑いました。
なんだか、おかしかったのです。全然違う理由なのに、同じように一人ぼっちなのでした。
「カメちゃん、また絵、描いてるとこ見せてよ」
「うん。ウサギくんも、宇宙の話、また聞かせて」
それから、二人は放課後の図工室で会うようになりました。
ある日、カメちゃんはウサギくんに聞きました。
「ウサギくん、字って、どうやって覚えたの?」
「字? 普通に、読んでたら覚えたけど」
カメちゃんは思いました。やっぱり、ウサギくんは頭がいいから。自分とは違う。
「でも、僕、漢字は苦手だよ。何回書いても覚えられないやつとかある」
「本当?」
「本当。この前のテストも、『観察』の『察』、間違えた」
カメちゃんは少し安心しました。ウサギくんも、苦手なことがあるんだ。
「私ね、ひらがなも難しい。『め』と『ぬ』が、いつもごっちゃになる」
「そうなんだ」
ウサギくんは考えました。
「じゃあさ、絵で覚えたら?」
「絵?」
「うん。『め』は、こう...目玉みたいな形してるじゃん。『ぬ』は、ぬるぬるしてる感じ」
ウサギくんが紙に描いてくれました。『め』の字に目玉を加えて、『ぬ』の字をぬるぬるの生き物みたいに。
カメちゃんは目を輝かせました。
「わあ、面白い!」
「カメちゃんなら、もっと面白い絵にできると思う」
カメちゃんは色鉛筆を取り出しました。『め』を大きな目玉に、『ぬ』をタコみたいな生き物に描きました。
「ウサギくんのアイデア、すごいね」
カメちゃんは、自分の「遅さ」が恥ずかしくなくなりました。ウサギくんは、できないことをバカにしない。一緒に考えてくれる。
一方、ウサギくんは、カメちゃんといると、不思議な気持ちになりました。
カメちゃんは、ウサギくんの話す難しい内容を一生懸命に聞いてくれます。そして、時々、思いがけない質問をします。
「ねえ、ウサギくん。宇宙って、どこまであるの?」
「どこまで、か。宇宙には果てがないって言われてるんだ。でも、観測できる範囲には限界があって...」
「じゃあ、その先には何があるの?」
「分からない。でも、そういうこと考えるの、楽しいね」
「うん!」
カメちゃんの笑顔を見て、ウサギくんは思いました。そうか、分からないことを楽しんでいいんだ。
数ヶ月後、学校で6年生の発表会がありました。
ウサギくんは、宇宙についてのプレゼンテーションをすることになりました。でも、以前とは違っていました。
「みんなが分かるように話そう」
ウサギくんは、カメちゃんに相談しながら原稿を作りました。難しい言葉を、簡単な言葉に変えて。図を使って、分かりやすく。
「ここ、私には難しい」
カメちゃんの言葉を聞いて、ウサギくんは説明を変えました。カメちゃんに分かる説明が、みんなに分かる説明なのです。
発表会の日。ウサギくんの発表を聞いて、クラスのみんなが目を輝かせました。
「すごい! 宇宙って、そんなに広いんだ!」
「ブラックホールって、かっこいい!」
ウサギくんは思いました。みんなに分かる言葉で話せば、通じるんだ。
ある日の図工室、ウサギくんは、読書中についまどろんでしまいました。
ウサギくんが目覚めた時、カメちゃんは、一枚の絵を完成させていました。
様々な色が見事に調和した、夕焼け空の絵でした。
「すごい…」
ウサギくんは感嘆しました。
「時間がかかっちゃったけど」
カメちゃんは、恥ずかしそうに言いました。
「僕が寝ている間、カメちゃんはずっと描き続けていたんだね」
「私、遅いから」
「…速いだけじゃダメなんだ。速すぎても、みんなと一緒に走れない」
図工室から、二人は並んで歩きました。ウサギくんは少しゆっくり、カメちゃんは少し速く。ちょうどいいペースで。
6年生の男の子たちが駆け寄ってきました。
「ウサギくん、一緒にサッカーしない?」
「うん、いいよ」
ウサギくんは振り返って、カメちゃんに言いました。
「カメちゃんも来る?」
「私、サッカー下手だよ」
「大丈夫。僕も下手だから」
カメちゃんは頷きました。みんなの輪の中に入っていきます。
陽が傾いて、長い影が伸びていきます。二つの影は、時に重なり、時に離れながら、同じ方向へと続いていました。




