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場面緘黙の人魚姫


 中学時代の人魚姫は、地元では有名な水泳選手でした。


 自由形を専門とし、県大会では常に上位入賞。水の中で泳ぐ姿が美しいと、チームメイトから「人魚姫」と呼ばれていたのです。


 水中では、言葉は必要ありませんでした。ただ水と一体になり、前へ前へと進むだけ。それは彼女にとって、最も心地よい場所でした。


 人魚姫には誰にも言えない秘密がありました。家族や親しい友人の前では普通に話せるのに、知らない人や緊張する場面では声が出なくなってしまうのです。


「選択性緘黙」。中学二年のときに告げられた診断名です。表彰式のスピーチで一言も話せなかったとき、周囲は「緊張しただけ」と笑いました。でも彼女は知っていたのです。これは単なる緊張ではないと。


 中学三年の夏、人魚姫は水泳をやめました。


 きっかけは些細なことでした。新しいコーチが就任し、チーム全体でのミーティングが増えたのです。意見を求められても答えられない。戦略を話し合う場で声が出ない。次第に、プールに行くこと自体が苦痛になりました。


「どうして泳がないの? あんなに速かったのに」


 親友の言葉が、胸に突き刺さりました。でも、説明できませんでした。


 人魚姫は、高校では、水泳部のない学校を選びました。そして、偶然出会ったのが陸上でした。


 陸上部の顧問が、体育の授業での彼女の走りを見て声をかけてくれた。「君、走るの速いね。陸上、やってみない?」人魚姫は頷きました。走ることなら、水泳で鍛えた心肺機能が活かせる。そして何より、個人種目なら、チームミーティングも少ないでしょう。


 人魚姫は陸上部のエースになりました。八百メートル走では県大会で三位に入賞し、顧問の先生からは「全国を狙える」と言われるほどでした。


 でも、心のどこかで、人魚姫は水を恋しく思っていました。水中の静寂を。言葉のいらない世界を。


 高校三年の春、人魚姫のもとに一通の手紙が届きました。差出人は隣県の私立高校、聖陵学園。全国屈指の陸上部を持つ名門校からのスカウトでした。


「うちの高校なら、全国大会はもちろん、インターハイ優勝も夢じゃない。卒業後は企業チームへの道も開ける」


 手紙には、陸上部の顧問である、通称「魔女」、スポーツトレーナーの黒木コーチの署名がありました。電話で話した黒木コーチの声は、甘く、そして強引でした。


「声? そんなもの、走るのに必要ない。あなたには脚があれば十分よ」


 人魚姫は迷いました。確かに、走ることに言葉は要らない。トラックの上では、身体だけが真実を語る。両親も「チャンスだ」と背中を押してくれました。


 四月。人魚姫は聖陵学園に転入しました。


 新しいクラスでの自己紹介。人魚姫は教壇に立ったまま、一言も発することができませんでした。クラスメイトの視線が、針のように刺さります。担任の先生が心配そうに声をかけても、首を横に振ることしかできません。五分が経過し、教室には気まずい沈黙だけが広がりました。


 陸上部でも状況は同じでした。魔女の厳しい指導、先輩たちの遠慮のない視線。人魚姫は、ミーティングでは一言も話せませんでした。「挨拶もできないの?」という先輩の冷たい言葉が、胸に刺さりました。


 そんな中、人魚姫は一人の男子生徒に恋をしました。


 隣のクラスの陸上部、長距離のエース、王子君です。彼はいつも人魚姫に優しく微笑みかけてくれました。一緒に走るとき、言葉はなくても通じ合える気がしました。でも、告白する勇気が、声が出ませんでした。


 ある日、王子君に彼女ができました。


 人魚姫は走れなくなりました。トラックに立っても、足が動かない。心臓だけが、狂ったように鳴り響く。


 その日を境に、人魚姫は学校に行けなくなりました。


 朝になると吐き気がする。制服を着ると息ができなくなる。母親が心配して声をかけても、人魚姫は布団から出られなくなりました。


 二週間後、担任の先生が家庭訪問に来ました。そして、一人の女性を連れてきた。


「特別支援教育コーディネーターの佐藤です。少しお話しできますか?」


 佐藤先生は、人魚姫に筆談を提案しました。彼女はノートに、これまでのことを書きました。選択性緘黙のこと。転校してから声が出なくなったこと。失恋のこと。走れなくなったこと。


「つらかったね」


 佐藤先生は、人魚姫の手を握りました。その温かさに、彼女は初めて涙を流しました。


 それから、人魚姫のリハビリが始まりました。


 週に一度、佐藤先生との面談。月に二度、言語聴覚士の山田先生とのセッション。山田先生は、段階的なコミュニケーション訓練を提案してくれました。


 まずは、家族に録音した声を聞いてもらうこと。次に、ビデオ通話で佐藤先生と話すこと。それができたら、保健室で担任と話すこと。


 時間はかかりました。でも、一歩ずつ、確実に前進していきました。


 一方で、人魚姫は別室登校を始めました。別室で自習をし、放課後に一人で走りました。誰もいないトラックで、人魚姫は再び自分の脚を信じることができました。


 ある日の放課後、田中先生が保健室を訪ねてきました。


「少し話せるかな?」


 人魚姫は小さく頷きました。最近、田中先生の前では二、三言なら話せるようになっていました。


「実は、大手スポーツ用品メーカーのミズノ産業が、陸上部のマネージャー職を募集しているんだ。あなたの記録分析の力を買ってくれる企業だと思う」


 人魚姫の心臓が高鳴りました。でも同時に、不安が押し寄せました。


「面接......無理、です」


 か細い声だっでしたが、田中先生には届きました。


「大丈夫。学校みんなで支えるから」


 翌日から、人魚姫のための特別プロジェクトが始まりました。


 田中先生は、毎日放課後に人魚姫と面接練習をしました。最初は二人きりで。次に、佐藤先生も加わって。それから、保健室の先生、進路指導の先生、そして魔女までが協力してくれました。


「志望動機は?」


「......陸上が、好きだから」


「もっと大きな声で」


「陸上が、好きです」


 何度も何度も繰り返しました。人魚姫の声は少しずつ、確実に大きくなっていきました。


 九月、クラスメイトたちも協力してくれるようになりました。休み時間、教室で模擬面接が開かれました。みんなが面接官役をやってくれました。クラスメイトたちは真剣に、そして優しく人魚姫に向き合ってくれました。


「あなたの長所は?」


「諦めないことです」


「短所は?」


「緊張しやすいことです。でも、準備をすることで乗り越えられると学びました」


 答えられるたびに、教室には拍手が起きました。


 十月、いよいよ本番の面接が近づきました。田中先生は、人魚姫をを呼び出しました。


「これ、みんなからだよ」


 それは、クラス全員からの寄せ書きでした。


「がんばって!」「あなたならできる」「私たち、応援してるよ」


 人魚姫の目に涙があふれました。


「ありがとう、ございます」


 人魚姫は、はっきりとそう言いました。


 面接当日。人魚姫は深呼吸をして、扉を開けました。


 面接官は三人。人魚姫は、練習したとおりに礼をしました。


「本日は、お時間をいただき、ありがとうございます。」


 声は震えていました。でも、途切れませんでした。


「志望動機を教えてください」


「私は、水泳から陸上に転向した経験を持っています。中学まで『人魚姫』と呼ばれるほど水泳に打ち込んでいましたが、コミュニケーションの困難から競技を離れました。高校で陸上と出会い、データ分析の面白さを知りました。タイムや走法を数字で可視化することで、言葉以外の方法でも選手を支えられると気づいたんです。一度は競技から離れた私だからこそ、選手の見えない苦しみに寄り添えると思います」


 面接官の一人が微笑みました。


「あなたは、何か困難を乗り越えた経験がありますか?」


 人魚姫は、一瞬息を呑んだ。でも、田中先生の言葉を思い出しました。


「隠す必要はない。それもあなたの力だから」


「はい。私は選択性緘黙という、緊張すると話せなくなる特性を持っています。転校をきっかけに不登校になりましたが、先生方やクラスメイトの支えで、少しずつ話せるようになりました。この経験から、コミュニケーションの多様性と、支え合うことの大切さを学びました」


 面接室に静寂が流れました。人魚姫は、自分が失敗したのかと思いました。


 でも、面接官は頷きました。


「素晴らしい。困難を乗り越えた人は、他者の痛みがわかる。それは、チームで働く上で何より大切な資質です」


 ほどなくして、合格通知が届きました。


「総合職・マネージャー候補として、採用が決定いたしました」


 卒業式の日。人魚姫は代表生徒として答辞を読みました。


「私は、この学校で声を失いました。でも、この学校で、本当の声を見つけることができました」


「中学まで、私は水の中にいました。水中は静かで、言葉がいらない世界でした。でも、逃げていたんだと思います。陸に上がることが、怖かった。声を出すことが、怖かった」


「この学校で、私は本当の意味で陸に上がりました。たくさん転んで、たくさん傷ついて。でも、手を差し伸べてくれる人たちがいました」


 声は、まだ少し震えていました。でも、体育館いっぱいに響いていました。


「支えてくださった先生方、友人たち、ありがとうございました」


 会場は、割れんばかりの拍手に包まれました。


 春。人魚姫は、新しいスタートラインに立つことができました。


「行ってきます!」


 その声は、もう震えていません。力強い声でした。

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