外国ルーツの羅生門
ある日の暮方の事である。一人の女子中学生が、ビルの軒下で雨やみを待っていた。
狭い軒下には、この少女のほかに誰もいない。ただ、所々、ペンキの剥げかかった看板に、「外国ルーツの子どもたち」という文字が見える。
マリア——マリア・ダ・シルヴァ——は、長雨に濡れかかった願書を封筒の中に持ちながら、ぼんやりと雨の降るのを眺めていた。
マリアの心は、ある矛盾した感情に引き裂かれていた。
進学か、家族か。
作者はさっき、「マリアが雨やみを待っていた」と書いた。しかし、マリアの問題は、雨がやんでも解決の当てはない。
「雨にふりこめられたマリアが、途方にくれていた」という方が、適当である。
雨は、マリアの心を映すように、果てしなく降り続けた。
マリアは五歳の時、ブラジルから両親とともに来日した。当時の記憶は断片的だ。サンパウロの青い空。ポルトガル語の子守唄。祖母の温かい手。しかし、日本に来てからの記憶は、どれも灰色だった。
小学校に入学した頃から、マリアは「通訳」として機能することを求められた。病院で、市役所で、父の職場で、母の買い物で。日本語がまだ拙い両親に代わって、幼い唇で大人の言葉を翻訳した。中学に入ると、その頻度はさらに増した。定期試験の日に在留カードの更新。文化祭の準備期間に叔父の入院。修学旅行の当日に、役所への書類提出。
「マリア、お前がいないと困る」
父はいつもそう言った。その言葉は鎖のように、マリアの足首に巻きついていた。
日曜日。友達が遊んでいる時間、マリアは教会のミサに参加していた。マリアの生活はブラジル人のコミュニティの中にあり、礼拝は当然の習慣である。マリアはポルトガル語の説教を聞きながら、スマートフォンに届く友達の楽しそうな写真を、こっそりと見ていた。
学校行事に参加したい、友達と遊びに行きたい、と訴えたこともあった。両親は失望の色を見せた。地域の大人達は、マリアの親不孝を責めた。地獄行き、とさえ言われた。
心の中で、何度神様に祈っただろう。しかし、神は沈黙したままだった。
それでも、マリアには才能があった。ポルトガル語、日本語、英語。三つの言語を自在に操るトリリンガル。中学二年の時、英語スピーチコンテストで優勝した。表彰台に立つマリアを見て、担任の先生は涙を流して喜んだ。
しかし、家に帰ると父は言った。
「そんな暇があるなら、弟の面倒を見ろ。母さんを助けろ」
その夜、マリアは布団の中で静かに泣いた。涙は音を立てずに枕を濡らした。
進学。高校、そして大学。しかし、願書にサインをする父の姿は想像できなかった。
「女に勉強は要らない」
父はそう言った。母は何も言わなかったが、目が「家族を助けてほしい」と訴えていた。兄さえ高校に行かず、家計を助けている。自分だけが進学するなど、許されるはずがない。
マリアは封筒を見つめた。中には、父のサインのない願書が入っている。提出期限が迫っている。
雨は止まない。
寒さがマリアの体を包んだ。まるで、生きる希望そのものが、この冷たい雨に洗い流されていくようだった。
やがて、ビルの入り口の看板が、再び彼女の目に入った。
「外国ルーツの子どもたち、学習・進学支援します NPO法人 ゲートオブライフ」
六分の恐怖と四分の好奇心。マリアは、その奇妙な感情に動かされて、ゆっくりと立ち上がった。どうせ、このまま帰ってもどうしようもない。寒さしのぎに、話を聞くだけでもいい。
マリアは、雨に濡れた足を、その階段の一番下の段へふみかけた。
二階の自習スペースでは、何人かの子供が勉強している。その中の一人が、ポルトガル語で電話をしていた。その声に、少女は足を止めた。その手は、萎れた封筒の端を煩わしそうにつまんでいる。
「うん、お母さん、大丈夫。奨学金が取れたから。来年、大学に行ける」
ポルトガル語。母語。懐かしい音。しかし、その内容は、マリアの心に鋭い刃を突き立てた。
「家族? もちろん助けるよ。でも、今は自分の未来のために勉強するんだ」
その高校生——名札には「カルロス」と書いてある——は、穏やかな声で話し続けた。
「お母さん、僕が大学を出て、ちゃんとした仕事に就いたら、もっと家族を助けられる。今は我慢して」
電話が終わると、カルロスはため息をついた。
マリアは、胸の奥から何かが込み上げてくるのを感じた。同郷でありながら、彼は夢を叶えている。羨望、怒り、嫉妬、もっと複雑な、名前のつけられない感情が、マリアを突き動かした。
「あの……」
マリアは思わず声をかけていた。カルロスが振り向く。
「ポルトガル語、聞こえちゃって……あなた、大学に行くんですか?」
「ああ、そうだよ。君も外国ルーツ?」
「ブラジルです。でも……」
マリアの声は震えた。
「家族は、どうするんですか? あなたが勉強している間、誰が家族を助けるんですか?」
カルロスは少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「君は、優しいんだね。家族思いなんだ」
「優しいとか、そういうことじゃなくて……」
マリアの声は、次第に感情的になっていた。
「私の父は毎日12時間働いて、母は日本語ができなくて、兄は高校にも行かず働いて、弟もまだ小さいし……私だけが進学するなんて、おかしいじゃないですか。家族を犠牲にして、自分だけ幸せになるなんて……それって、悪じゃないですか」
マリアの目から涙がこぼれた。自分でも驚くほど、感情が溢れ出した。
カルロスはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「君は、自分を犠牲にすることが愛だと思っているんだね」
「……違うんですか?」
「僕は違うと思っている」
カルロスはゆっくりと立ち上がり、マリアの隣に座った。
「僕もね、最初は君と同じことを考えていた。家族のために、自分は我慢するべきだって。でも、ここの…ゲートオブライフの人が教えてくれたんだ。自分を犠牲にし続けると、いつか壊れるって。そして、壊れた人間には、家族を助けることはできないって」
マリアは黙って聞いていた。
「君がもし、今、進学を諦めたら、10年後、20年後、君はどうなっている? 同じように通訳をして、家事をして、弟の世話をして……そして、いつか、弟にも同じことをさせるのかい?」
マリアは息を呑んだ。
「自分を大切にすることは、悪じゃない。むしろ、自分を大切にしない人間は、他人も大切にできないんだ」
そのとき、NPOの職員の、中年女性が近づいてきた。
「お話、聞こえちゃいました。ごめんなさいね。あなた、中学生? 進路で悩んでいるの?」
マリアは頷いた。
職員は、温かい笑顔で言った。
「大丈夫。奨学金もあるし、学費免除の制度もある。それに、あなたの語学の能力は、将来、絶対に武器になる。私たちが、ご両親とも話すわ」
マリアの心の中で、何かが揺らいだ。
罪悪感と希望。絶望と可能性。進むべきか、とどまるべきか。
しかし、カルロスの言葉が、耳の奥で響いていた。
「自分を犠牲にし続けると、いつか壊れる」
マリアは、願書の入った封筒を握りしめて言った。
「きっと、そうですね」
それは、決意の言葉だった。
「お願いします。両親と、話してください」
それから一週間後。マリアの中学校では、三者面談が開かれた。
教室には、担任の先生、マリアの両親、そしてゲートオブライフの職員がいた。職員は流暢なポルトガル語で、両親に語りかけた。
マリアがこれまで何を我慢してきたか。トリリンガルの才能がどれほど貴重か。奨学金があれば、家計に負担をかけずに進学できること。そして、マリアが将来、もっと家族を助けられること。
両親は、激しく抵抗した。説得は長時間にわたった。
最終的に、マリアが経済的に負担をかけないこと、できる範囲で家事や通訳を続けること、大学卒業後、必ず家計を助けることを条件に、父親は渋々、願書にサインをした。
進学しても、困難は続くだろう。家族との葛藤も、文化の板挟みも、簡単には消えない。しかし、高校進学への道が開かれた。
面談後、マリアは高鳴る胸のまま、学校の階段を駆け下りた。
暮夜の中、一番星がかすかな輝きを見せていた。
マリアの未来は、誰も知らない。




