ケンタウロスと死にたがりのアキレス
校長室は重苦しい空気に包まれていました。
「新入生の颯亜希さんのことですが」
相談部主任の声が響きます。入学式から二週間。家出をした亜希さんが自殺の名所で警察に保護されたのです。
「中学時代に三度の自殺未遂。家出は七回。医療機関、カウンセリング、児童相談所、警察。あらゆる機関が関わってきた、非常に難しいケースです」
同席したスクールカウンセラーが資料をめくります。
「希死念慮は小学校高学年から。中学では自殺企図を繰り返し、高校入学を機に環境を変えようということで、お母様も必死だったのですが...」
校長が深いため息をつきます。
「馬野先生、担任として、くれぐれも慎重に対応してください。何かあったら学校の責任問題になります」
その時、馬野健太郎先生が立ち上がりました。
社会人経験者、三十代前半の体育教師、身長百八十五センチ。ボディービルダーのような肉体。
付いたあだ名はケンタウロス。
蛍光イエローのTシャツには「MUSCLES NEVER LIE(筋肉は嘘をつかない)」の文字が刻まれています。
「分かりました!俺に任せてください!!」
あまりの大声に、隣の席の教師はひっくり返りそうになります。
校長は眉をひそめました。
「馬野先生、軽々しく...」
「大丈夫です!筋肉は裏切りません!!」
ケンタウロス先生は、両腕を曲げて上腕二頭筋を誇示し、凍りつく校長室の面々を意にも介しません。
「失礼します!!」
ケンタウロス先生は爽やかな笑顔で校長室を出て行きました。残された教師たちは顔を見合わせます。
「...大丈夫だろうか。こんなデリケートな問題を」
ケンタウロス先生が教室のドアを開けると、亜希さんが窓の縁に腰掛けていました。細い体。うつむいた顔。風が髪を揺らします。今にも向こう側に落ちてしまいそうです。
クラスメイト達は、なんとか亜希さんを思いとどまらせようと、おそるおそる声をかけています。
「亜希ィ!!」
ケンタウロス先生の声が教室に響き渡ります。あまりの大声に驚いた亜希さんは、窓の縁から教室側へ降りました。
「お前、筋肉はあるか!?」
亜希さんがゆっくりと顔を上げました。
「は?」
「筋肉だ!!お前の体に、筋肉はあるか!?」
ケンタウロス先生が自分の腕をバンバン叩きます。
「...意味が分かりません」
「見ろ、これが筋肉だ!!」
ケンタウロス先生がTシャツをまくり上げて腹筋を見せます。見事なシックスパックを見せつけられ、亜希さんは戸惑いました。
「今日から放課後、第二体育館な!『放課後筋肉クラブ』!強制参加だ!!」
「え、嫌ですけど…」
「担任命令だ!!これは教育活動の一環だ!!」
「…行きたくありません」
「じゃあ、お前に単位はやらん!!」
「...嘘」
亜希さんは驚きました。この人ならやりかねません。
「嘘だ!!でも来い!!筋肉は嘘をつかない!!人は嘘をつくが筋肉は嘘をつかない!!」
ケンタウロス先生は力強く言いました。
「待ってるぞ、亜希!!筋肉が待っている!!」
呆然とする生徒達を後に、ケンタウロス先生は馬のように颯爽と階段を駆け下りて行きました。その足音は、長い間大きく響きわたっていました。
放課後。亜希さんは仕方なく第二体育館へ向かいました。
古びた建物。中に入ると、バーベルやダンベルが並んでいます。汗の匂いが充満しています。
「来たか、亜希!!よく来た!!」
ケンタウロス先生が両手を広げて迎えます。あまりのテンションに、亜希さんは一歩後ずさりします。
他にも三人の生徒がいました。
「紹介するぞ!!ヘラクレス!!不登校から復帰した高二だ!!」
「ヘラ…?」
「筋肉ネームだ!かっこいいだろう?」
ケンタウロス先生が笑いかけました。優しそうな目をした男子生徒が会釈します。小声で「よろしく」と言います。
「テセウス!!中国からの留学生!!高一だ!!」
小柄な女子生徒が「你好」と言いました。ケンタウロス先生の大声に少し怯えています。
「オデュッセウス!!高三!!無口だが真面目だ!!」
背の高い男子生徒が小さく手を挙げます。無表情ですが、目が「また始まった」と語っています。
「さあ、今日からお前はアキレスだ!!まずは準備運動だ!!」
ケンタウロス先生が突然その場でジャンプを始めます。
「ジャンプ!!五十回!!さあ!!」
「え、待って...」
「筋肉は待たない!!さあ!!」
ケンタウロス先生が亜希さんの隣でジャンプします。床が揺れています
。
ヘラクレスが小声で「ケンタウロス先生、いつもこうなんです」と教えてくれます。
亜希さんは諦めたようにジャンプを始めました。
「よし!!次はバーだけでスクワット!!」
ケンタウロス先生が二十キロのバーを渡します。
「...重い」
「五十回だ!!」
「五十回!?」
「五十回は五十回だ!!さあ!!」
あまりの勢いに、亜希さんは仕方なくバーを担ぎました。
一回、二回、三回。十回で息が上がります。二十回で足が震えます。三十回で涙が滲みます。
「無理...です...」
「大丈夫!!いけるぞアキレス!!あと二十だ!!」
ケンタウロス先生が隣でスクワットを始めます。
「ほら!!俺も一緒だ!!」
なんと、百キロのバーベルを担いでいます。
四十回。四十一回。四十二回。
四十五回目で、亜希さんは吐いてしまいました。
「っ...」
ケンタウロス先生が即座にバーベルを置いて駆け寄ります。
「よくやった!!初日で四十五回は上出来だ!!素晴らしい!!」
大声で褒められ、亜希さんは吐きながら困惑しています。
ケンタウロス先生が両腕を高く掲げます。
「筋肉!!最高!!」
ヘラクレス、テセウス、オデュッセウスの三人は黙々とトレーニングを続けています。
亜希さんは床に座り込んだまま、この異様な光景を見つめていました。
保健室に運ばれた亜希さんは、ベッドで横になっていました。
養護教諭がケンタウロス先生に小声で言います。
「馬野先生、やりすぎです」
「大丈夫です!!筋肉は大丈夫です!!」
保健室で大声を出すケンタウロス先生に、養護教諭は頭を抱えます。
「声、小さくしてください...」
「あ、すみません。先生、栄養指導お願いします」
養護教諭は呆れた顔をしましたが、やがて小さく頷きます。
「...分かりました」
養護教諭がプロテインシェイクを作ります。チョコレート味です。
「亜希さん、これ飲んで」
「いりません...」
「普段から食事、ちゃんと摂れてないでしょ」
亜希さんは黙っています。
「これなら飲めるわ。甘いから」
差し出されたシェイクを、亜希さんは恐る恐る口にしました。
甘い。温かい。
不思議と体が受け入れました。
「...美味しい」
養護教諭が微笑みます。
「よかった。これから毎日、筋トレの後に飲みなさい」
「プロテイン最高!!」
「馬野先生!!」
養護教諭がケンタウロス先生を睨みます。無敵のケンタウロス先生ですが、養護教諭には頭が上がらないようです。
「す、すみません。でもプロテイン最高です…」
ケンタウロス先生は小声で言いました。
一週間が過ぎました。
校長室には、校長、教頭、相談部主任が険しい顔で座っています。ケンタウロス先生は直立不動で立っています。
「馬野先生」
校長が重々しく口を開きます。
「先生たちから心配の声が上がっています。颯さんに過度な運動をさせているのではないかと」
「過度ではありません!!筋肉にとって適度です!!」
大声に校長が顔をしかめます。
「判断するのはあなたではない。もし何かあったら、学校の責任問題です。教育委員会からも指導が...」
その時、ノックの音がしました。
「失礼します」
養護教諭が入ってきました。
「校長先生、お話の途中ですが、颯さんのお母様から電話がありました。『娘のトレーニングを続けてほしい』と」
「え?」
校長が目を丸くします。
「お母様は直接お話ししたいと仰っています」
「そうですか!!やはり!!筋肉は...」
「馬野先生、黙ってて」
養護教諭が冷たく言います。ケンタウロス先生は口を閉じました。
翌日。亜希さんの母親が校長室を訪れました。疲れた表情ですが、目には光がありました。
「校長先生、馬野先生のご指導、ぜひ続けてください」
「しかし、お母様...」
「娘が、昨日、笑ったんです」
母親の声が震えます。
「小学校の高学年から、娘は笑わなくなりました。中学では...」
言葉が詰まります。
「毎晩のように『死にたい』と繰り返し、家出するたびに、もう帰ってこないんじゃないかと。病院も、カウンセリングも、何もかも試しました。でも、何も変わらなかった」
養護教諭ががティッシュを差し出します。
「それが、昨日。夕食の時に、娘が『今日、筋肉痛で死にそう』って言って、笑ったんです。『死にたい』じゃなくて、『筋肉痛で死にそう』って」
母親は泣いていました。
「お願いします。続けさせてください」
「お母様!!お任せください!!娘さんを必ず筋肉で救います!!」
ケンタウロス先生は、両腕を曲げて筋肉を誇示しました。
母親は、小さく笑ってから、頭を下げました。
「ありがとうございます、馬野先生」
――放課後筋肉クラブ日記
今日はプロテインの味比べ大会をした。ヘラクレスはストロベリー派。私はチョコが最強だと思う。
ケンタウロス先生は、「全部最強だ!!プロテインに優劣はない!!全て素晴らしい!!」だって。
今日はケンタウロス先生の新作Tシャツ発表会。蛍光ピンクに「筋肉は正義」。オデュッセウスがすぐさま「ダサすぎ!!」と突っ込んでいた。
ケンタウロス先生は、元自衛官らしい。ヘラクレスが教えてくれた。だからあんなに鍛えるのが好きなんだ。なんで自衛隊を辞めたんだろう?
ベンチプレス三十キロ成功。テセウスと笑った。ケンタウロス先生が『素晴らしい!!』って体育館中に響く声で褒めてくれた。恥ずかしかった。
亜希さんはノートをゆっくりと閉じました。
一年が過ぎました。
亜希さんは体育館の大きな鏡の前に立ちました。
そこに映っているのは、入学当初の自分ではありませんでした。
全身に筋肉がついて、健康美に溢れています。背筋が伸びて姿勢が変わりました。顔つきも生き生きとしています。
「これ...私?」
亜希さんは、自分の姿に惚れ惚れと見入り、おもわずポージングをしてしまいました。その目は自信に満ちていました。
ある日の夜。ケンタウロス先生は一人、第二体育館に残っていました。
バーベルを持ち上げます。百キロ。百二十キロ。
汗が滴ります。
亜希さんが戸口に立っていました。
「ケンタウロス先生」
「亜希?まだいたのか」
ケンタウロス先生は、珍しく小さな声で、亜希さんを本名で呼びました。
「百二十キロ...流石ですね。自衛隊にいたって、本当ですか?」
ケンタウロス先生の手が止まりました。
バーベルをゆっくりと下ろします。
「...ああ」
沈黙した先生に、亜希さんは気まずくなりました。
「…すみません、聞かない方がよかったですか?」
「いや、いいんだ。少し話そう」
ケンタウロス先生が床に座ります。亜希さんも座りました。
「PKO。海外派遣だった」
ケンタウロス先生の声が、さらに低くなりました。
「俺の目の前で、仲間が死んだ。二人。助けられなかった」
亜希さんは黙って聞いていました。
「帰国してから、眠れなくなった。悪夢。フラッシュバック。毎日、死にたかった。お前と同じだ、亜希」
ケンタウロス先生が天井を見上げます。
「カウンセリングを受けた。薬も飲んだ。でも何も変わらなかった。ある日、もう終わりにしようと思って、駅のホームに立った」
亜希さんは息をのみました。
「そこに、昔の上官がいた。『馬野、お前筋肉落ちたな』って言われた。それだけ。でも...その日から、筋トレを始めた」
ケンタウロス先生が拳を握ります。
「筋肉は嘘をつかない。頑張れば頑張っただけ、確実に成果が出る。世界で唯一、裏切らないものだ。半年後、俺は生きていた。それから、教員免許を取った。筋肉が、俺を救った」
亜希さんの目から涙が流れました。
「だから、お前も救えると思った」
二人は並んで座っていました。
しばらくして、ケンタウロス先生が立ち上がりました。
「よし!!」
また大声が戻ってきました。
「明日も筋トレだ、アキレス!!」
亜希さんは笑いました。
「はい、ケンタウロス先生」
校長室で会議が行われました。
養護教諭が資料を配ります。
「颯さんのデータです」
グラフが並んでいます。
「体重は三キロ増加。でも体脂肪率は五パーセント減少。筋肉量が大幅に増えています。睡眠時間は一日平均三時間から六時間に。食事量も改善。何より」
先生たちは資料に釘付けになっています。
「鬱状態を測るBDI-IIスコアが、重度から軽度に改善しています」
校長が目を見開きます。
「これは...」
「筋力トレーニングが鬱状態の改善に有効であることは、複数の研究で示されています。セロトニン、ドーパミン、エンドルフィンの分泌。自己効力感の向上。そして」
養護教諭がケンタウロス先生に視線を向けました。
「信頼できる指導者の存在。これらが複合的に作用したのでしょう」
「素晴らしい!!」
ケンタウロス先生が立ち上がります。
「筋肉は裏切らない!!データが証明しています!!」
「馬野先生、座ってください」
養護教諭が冷静に言いました。
校長は深く頷きました。
「馬野先生、すまなかった」
「いえ!!校長先生!!これからもガンガン筋トレします!!」
「声、小さく...」
教頭が呟きました。
ある日曜日。母親が第二体育館を訪れました。中では、亜希さんがデッドリフトで六十キロのバーベルを持ち上げていました。
「よし!」
亜希さんが拳を突き上げます。仲間達が拍手します。
「素晴らしい!!六十キロだ!!完璧なフォームだ!!」
ケンタウロス先生の声が体育館中に響きます。
母親は立ち尽くしました。
娘が笑っています。汗を流して、仲間と笑っています。
「亜希...」
母親の声が震えます。
「ママ!?」
亜希さんが駆け寄ります。
「見てた?今の見てた?六十キロだよ!はじめは二十キロのバーも重かったのに!」
母親が娘を抱きしめました。泣いていました。
「よかった...よかった...」
亜希さんも泣きました。
「ごめんね、ママ。心配かけて」
「ううん、いいの。元気でいてくれれば、それでいいの」
「感動的だ!!」
ケンタウロス先生が大声で叫びます。
「お母様!!娘さんは立派な筋肉を手に入れました!!」
「馬野先生...本当に、ありがとうございます」
「いいえ、礼なら筋肉に言ってください!!」
ケンタウロスが両腕を高く掲げます。
三人の仲間達は「なんだそりゃ」という表情で笑っていました。
時は過ぎ、進路面談。三年の秋です。ケンタウロス先生の前に、亜希さんが座っています。
「アキレス、進路希望を聞かせてくれ」
「体育大学に行きます。そして、体育教師になります。ケンタウロス先生みたいな教師に。筋肉で、誰かを救いたいんです」
ケンタウロス先生の目が潤みました。
「アキレス...お前...」
「師匠!」
「弟子!!」
二人で筋肉ポーズ。上腕二頭筋を誇示します。
廊下を通りかかった生徒達は、異様な光景に驚いて立ち止まっていました。
今日は卒業式です。
亜希さんが堂々と答辞を読んでいます。
「私は、三年前、死にたいと思っていました」
会場が静まり返ります。
「でも今、私は生きています。それは、筋肉のおかげです」
今度はざわめきが起こります。
「馬野健太郎先生が、私に筋肉を教えてくれました。筋肉は裏切らない。やればやるだけ応えてくれる。その真実が、私を救いました」
「放課後筋肉クラブは、私の居場所でした。仲間がいました。汗を流す喜びがありました」
「そして今、私は夢があります。体育教師になって、誰かを救いたい。筋肉で」
「素晴らしい!!」
ケンタウロス先生が立ち上がり、両腕を高く掲げました。
「「筋肉は裏切らない!!」」
二人で、声を合わせて力強くポージングを決めました。
校長が、笑いながら拍手をします。お母さんも笑っています。会場は爆笑の渦に包まれたのでした。




