万引き少女と青い鳥
むかしむかし、といっても、ほんの少し前のお話です。
ある町に、知流という名前の女の子がおりました。小学校三年生の知流は、困った癖を持っておりました。お店の品物を、お金を払わずに持ち帰ってしまうのです。
最初は、小さな消しゴムでした。
小学校一年生の夏のことです。教室で、隣の席の子が使っていた、イチゴの香りのする可愛らしい消しゴム。知流の心は、その消しゴムに釘付けになりました。放課後、文房具屋さんの前を通りかかったとき、その消しゴムを見つけたのです。
知流の手が、勝手に動きました。
気がつくと、消しゴムはポケットの中にありました。
それからというもの、知流の手は、時々勝手に動くようになりました。シール、お菓子、きれいなヘアピン。
盗んだものを友達に配ると、「知流ちゃん、優しいね」と言ってもらえました。その瞬間だけ、知流の胸の中の、大きな空っぽが、少しだけ満たされる気がしたのです。
お母さんは、見つけるたびに叱りました。
「どうして盗むの? 悪いことだって分かってるでしょう?」
ある時は厳しく、ある時は涙を流しながら優しく。けれど、知流の手は、止まりませんでした。
知流にも、理由が分からなかったのです。なぜ、自分の手は勝手に動いてしまうのか。なぜ、胸の中はいつも空っぽなのか。
そんなある日のことです。
知流は、スーパーマーケットで、小さなブレスレットを盗もうとして、店員さんに見つかってしまいました。お店の人は警察に連絡し、知流は交番に連れて行かれました。
交番の冷たいベンチに、知流は小さくなって座っていました。
やがて、お母さんが迎えに来ました。お母さんの目は真っ赤で、頬には涙の跡がありました。
「申し訳ございません」
お母さんは、何度も何度も頭を下げました。
その様子を、一人の警察官が静かに見守っておりました。光守という名の、五十代の男性です。多くの子供たちを見てきた光守の目は、厳しくもあり、温かくもありました。
「お母さん、少しお話を聞かせていただけますか」
光守は、椅子を勧めました。
お母さんは、ぽつりぽつりと話し始めました。
三年前、弟の満が生まれたこと。その直後、お父さんが遠い町へ単身赴任になったこと。自身は看護師の仕事で夜勤もあり、疲れ果てていること。何度叱っても、何度諭しても、知流の癖が治らないこと。
「私の育て方が、間違っていたんでしょうか…」
お母さんは、また泣き出しました。
光守は、最後まで黙って聞いていました。そして、静かに口を開きました。
「お母さん、法務少年支援センターという場所をご存知ですか」
「ほうむ…?」
お母さんは、聞き慣れない言葉に戸惑いました。
「少年鑑別所に併設されている、支援の場所です」
「鑑別所…!」
お母さんの顔色が、さっと変わりました。
「いえいえ」
光守は、慌てるお母さんを落ち着かせるように、ゆっくりと説明しました。
「お子さんを収容する場所ではありません。専門の先生方が、お子さんとご家族を支援してくださる場所なんです」
光守は、パンフレットを取り出しました。表紙には、青い鳥のマークが描かれていました。
「こちらでは、なぜお子さんがこのような行動をとってしまうのか、専門家と一緒に考えることができます。カウンセリングや、親子での面談、遊びを通した治療など、様々な取り組みをしています」
お母さんは、青い鳥のマークを見つめました。
藁にもすがる思いで、パンフレットを受け取りました。
その夜、お母さんはお父さんに電話をしました。長い長い話し合いの末、二人は法務少年支援センターに予約を入れることにしました。
法務少年支援センターの入口にも、青い鳥のマークがありました。
お母さんは知流の手を握って、扉を開けました。
そこには、カウンセラーの先生が待っていました。
「ようこそ。よく来てくださいましたね」
先生は、知流に優しく微笑みかけました。知流は、少しだけ緊張が解けた気がしました。
それから、何度も何度も、センターに通いました。
知流は、箱庭という砂の入った箱で、小さな家や人形を使って遊びました。不思議なことに、知流が作る世界では、家の模型はいつも箱の隅っこに小さく置かれ、真ん中には空っぽの箱がいくつも並んでいました。
カウンセラーの先生は、お母さんとも何度も面談をしました。
知流には、軽い衝動性という特性があること。でも、それだけが理由ではないこと。
ある日、先生はお母さんにこう言いました。
「お母さん、知流ちゃんは、物を盗みたかったわけではないと思います」
「え…?」
「小さな子の窃盗にはよくあることです。無意識に、満たされない何かを埋めようとして万引きという行動につながることが…思うに、知流ちゃんが盗もうとしていたのは、お母さんの時間ではないでしょうか?」
その言葉を聞いた瞬間、お母さんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちました。
満が生まれてから、知流とゆっくり過ごす時間が、どれだけあっただろう。仕事と育児に追われて、知流の目を見て話すことが、どれだけあっただろう。
お母さん自身も、子供の頃、親に愛されたくて仕方がなかった覚えがありました。その寂しさを、今、知流も感じていたのです。
お母さんには、知流の心の声が、聞こえてくるようでした。
――本当に欲しかったのは、イチゴの香りの消しゴムでも、キラキラのシールでも、甘いお菓子でもない。お母さんが、私だけを見てくれる時間がほしい。お母さんの、温かい手がほしい――
それから、家族に変化が訪れました。
お母さんは夜勤の回数を減らしました。お父さんは、会社に単身赴任の見直しを相談しました。週末は必ず帰ってくると約束しました。
ある土曜日、お母さんは仕事を休みました。
そして、知流にこう言ったのです。
「今日は、知流と二人きりで過ごそうね」
満は、おばあちゃんが預かってくれました。
お母さんと知流は、手をつないで公園へ行きました。
ブランコに乗った知流を、お母さんが押しました。
「もっと高く!」
知流は笑いました。本当に、心の底から笑いました。
青い空に、白い雲が流れていきます。
知流は、ずっとずっと探していた宝物を、ようやく見つけた気がしました。
それから半年が過ぎました。
ある春の日、お母さんと知流は、商店街を歩いていました。手をつないで、楽しそうに話しながら。
すると、向こうから制服姿の光守が歩いてきました。
あの日、交番で優しく話を聞いてくれた警察官です。
「やあ、お元気そうですね」
光守は、穏やかに微笑みました。
「光守さん!」
お母さんは、深々とお辞儀をしました。
「あの時は、本当にありがとうございました。おかげさまで…」
光守は、母娘の姿を見て目を細めました。
「いえいえ。知流ちゃん、元気にしてた?」
知流は、こくりと頷きました。
光守は、しゃがんで知流と目線を合わせました。
「知流ちゃん、今、一番欲しいものは何ですか?」
知流は、少し考えました。
それから、隣に立つお母さんの手を、ぎゅっと握りました。
「もう、持ってる」
お母さんは、知流の小さな手を、両手で優しく包み込みました。
温かい、温かい手でした。
光守は立ち上がり、お母さんに向かって言いました。
「また、何かあったら、いつでも相談してくださいね」
「はい。ありがとうございます」
光守は、親子を見送りながら、静かに微笑みました。
春の風が、優しく吹いていました。




