拒食症のピーターパン
坂雛さんは、中学二年生の女の子です。
生徒会長として全校生徒の前でスピーチをし、成績は常に学年トップ。ピアノコンクールでの入賞歴もあります。
雛さんは、誰もが羨む完璧な優等生でした。
また、雛さんのお母さん、坂麻里さんは料理研究家として広く知られていました。
「シングルマザーの幸せレシピ」「子どもの心を育てる食卓」「一人でも負けない子育て術」
お母さんの著書は何冊もベストセラーになり、テレビの料理番組にも頻繁に出演しています。雑誌では「完璧な子育てをしているシングルマザー」として特集され、母娘での対談記事も多数ありました。
さて、雛さんの制服は、この半年でサイズが合わなくなっていました。
雛さんは鏡の前で、自分の体を見つめていました。以前よりふっくらとした体。丸みを帯びた腰のライン。女性らしくなっていく自分の体が、ひどく気持ち悪く感じられました。
(こんな体じゃ、お母さんみたいな大人にはなれない)
お母さんは、いつも完璧でした。スリムで引き締まった体型。仕事も子育ても、一つの隙もありません。父親のいない家庭を、完璧に運営しています。テレビに映るお母さんの姿は、いつも美しく輝いていました。
(私は、お母さんの娘なのに)
雛さんは、その日から食事の量を減らし始めました。
「雛、朝ごはんよ」
お母さんが作る朝食は、いつも彩り豊かで栄養バランスが完璧です。雑穀米のおにぎり、野菜たっぷりの味噌汁、焼き鮭、小鉢が三品。料理番組でも紹介されたメニューでした。
「いただきます」
雛さんは笑顔を作りました。お母さんが喜ぶ笑顔です。けれど、箸を持つ手が震えていました。
「どうしたの? 食べないの?」
「ごめんなさい、お腹がいっぱいで……」
お母さんの顔に失望の色が浮かぶのを、雛さんは見逃しませんでした。
「少しでいいから、食べてちょうだい。雛の体のことを考えて作っているんだから」
その声は優しいけれど、有無を言わせない響きがありました。雛さんは小さなおにぎりを一口だけ口に入れます。飲み込むのに、とても時間がかかりました。そして、お母さんが見ていないときに、トイレに駆け込みました。
学校での雛さんは、いつも通り完璧でした。生徒会長として全校集会でスピーチをし、授業中は誰よりも熱心にノートを取ります。生徒会の仕事も完璧にこなしました。
「雛会長って、本当に何でもできるよね」
「お母さんが料理研究家なんでしょ? すごいよね」
友人たちの言葉に、雛さんは、張り付いたような笑顔で応えました。
放課後、一人になった雛さんは保健室でこっそりと体重計に乗りました。数字が昨日より0.5キロ減っています。不思議な達成感が胸に広がりました。
鏡に映る自分の顔を見つめます。少し頬がこけてきていました。
(もっと、もっと……)
数ヶ月後、雛さんの体重は、さらに減っていました。
制服がぶかぶかになっています。友人たちが心配そうに声をかけてきますが、雛さんは「大丈夫」と力なく微笑みました。
ある夜、雛さんは自分の部屋で、腕を見つめていました。そこには、浅い傷がいくつもありました。カッターナイフで、自分を傷つけていたのです。
痛みを感じると、不思議と心が落ち着きました。完璧でいなければならないプレッシャー、母への罪悪感、自分への嫌悪。すべてが一瞬、消えるような気がしました。
(これは、私だけの秘密)
長袖で隠せば、誰にも分かりません。いつかどこかに置き忘れた、お母さんの知らない、私の「影」。それを確認することで、雛さんは自分を取り戻したような気がしました。
さらに一月後。雛さんの顔は、頬骨が浮き出るほど痩せていました。階段を上るだけで息が切れます。立ちくらみも頻繁にありました。
体重計の数字が減っていくことが、唯一の安心でした。
ある夜のことです。
お母さんが作った夕食は、雛さんの好物だったハンバーグでした。けれど、雛さんは首を横に振りました。
「お母さん、ごめんなさい。食べられない」
「雛、あなた最近全然食べてないわ。どんどん痩せていくじゃない。心配なのよ」
お母さんの声に、焦りと恐怖が滲みます。
「このままじゃ、本当に体を壊すわよ。お願いだから、一口でいいから食べて」
お母さんは、箸でハンバーグを一切れつまむと、雛さんの口元に持っていきました。
(もう、むり、たべられない)
雛さんの全身が硬直しました。
――タベナサイ、ノミコミナサイ、ワタシノアタエルモノヲ、ノコサズ、ゼンブ――
その瞬間、雛さんの中で何かが音を立てて壊れました。
「あああああ!!うるさい!うるさい!うるさい!!!!」
自分の声に、雛さん自身が驚きました。これまで、お母さんに大きな声を出したことなど、一度もなかったのです。
雛さんは、乱雑にテーブルの上のパンを掴みました。そして、呆然とするお母さんの口に、力任せに押し込みました。
「食べろ!お母さんが食べろって言ったんでしょ! だったら、お前が食べろよ!」
「やめて、何をするの、雛…」
お母さんはむせかえって、パンを吐き出しました。
お母さんの目が、恐怖で見開かれました。娘の目に、見知らぬ「影」を見たのです。
それは、雛さんからの、お母さんへの「仕返し」でした。
理想のご飯、理想の生活、理想の娘…次々と飲み込み続けて、ついに限界を超えた雛さんが吐き出した「影」の姿でした。
それから、雛さんの「影」による支配が始まり、家の中の空気が完全に変わりました。
雛さんは、お母さんに暴言を吐くようになりました。
「こんな料理、誰が食べるか!テレビで偉そうに言ってるけど、お前の料理なんか食べたくないから!」
そう言い放ち、料理の入ったお皿を投げつけられることもありました。
「お前の完璧な子育てって、何だよ?!私を人形にしたいんだろ!!」
「私をダシにして、本を売りやがって!!迷惑なんだよ!!」
時には物を投げられたり、平手打ちをされたり、蹴られたりして、お母さんは痣を作りました。
お母さんは、すっかり萎縮していきました。娘の顔色を窺いながら、それでも毎日料理を作ります。けれど、雛さんは食べません。食べても、すぐにトイレに駆け込んで吐いてしまいました。
外では、二人は変わらず「完璧な母娘」でした。お母さんの仕事の取材で一緒に写真を撮るときも、雛さんは笑顔を作りました。カメラの前では、理想的な親子関係を演じたのです。
けれど、家に帰ると豹変しました。
「お母さん、この部屋汚い!料理研究家の家がこんなんでいいの? 読者が見たらがっかりするだろうね!」
小さな埃を見つけては責め立てる雛さん。お母さんは言葉を飲み込み、黙って掃除をしました。
(私の育て方が、間違っていたのだろうか)
お母さんは、誰にも相談できませんでした。「完璧な子育て」を売りにしている自分が、娘から暴言と暴力を浴びせられている。骨と皮だけに痩せ細っていく娘になす術もない。そんなこと、誰に言えるでしょうか。出版社に知られたら、仕事を失うかもしれない。そう思うと、怖くて声を上げられませんでした。
ある朝、雛さんが学校を休みました。体調不良、と言いましたが、本当は起き上がる気力がなかったのです。鏡を見ると、目の下には深いくまがあり、髪も抜けやすくなっていました。
お母さんは、その日一日、娘の部屋の前で座っていました。ドアの向こうから、かすかな泣き声が聞こえました。
夕方、お母さんは震える手で電話を取りました。
「担任の先生でしょうか。坂雛の母です。あの、娘のことで、相談が……」
言葉が続きません。涙が溢れました。
「娘が、危ないんです。このままでは……お願い。た、助けてください」
担任の先生は、お母さんの声に、只ならぬ事情を感じ取りました。すぐに養護教諭と管理職に報告し、スクールカウンセラーの緊急支援を手配しました。
翌日、登校した雛さんは、相談室に呼ばれました。スクールカウンセラーと養護教諭が座っています。
「坂さん、最近、食事はちゃんと取れていますか?」
養護教諭が尋ねました。
「はい、大丈夫です」
雛さんは、穏やかに答えました。生徒会長としての完璧な笑顔です。
「でも、すごく痩せましたよね。心配しています」
「ダイエットしているだけです」
カウンセラーは、雛さんの長袖に目を留めました。真夏なのに、長袖のカーディガンを着ています。
「暑くないですか? なぜ、こんな日でもカーディガンを?」
雛さんの顔色が変わりました。
養護教諭が、優しく声をかけました。
「坂さん、あなたを責めたり、無理にどうこうするつもりはないわ。ただ、私達…あなたを見ていると、心が痛いの。あなたの命を大切にしたいの。」
養護教諭は、そっと雛さんの手を取りました。その体温に、雛の目から涙が溢れました。なぜ泣いてしまうのか、自分にも分かりませんでした。泣きながら目を上げると、養護教諭も涙を流していました。
そして、長い沈黙の後、雛さんは、ぽつりぽつりと語り始めました。
「…大人になるのが、怖いんです」
初めて、本当の気持ちを口にしました。
「お母さんみたいに完璧な女性になれない。女の人の体になっていく自分が、気持ち悪くて……。完璧じゃない自分は、価値がない気がして……」
カウンセラーは、静かに頷きました。
「辛かったですね。一人で、ずっと抱えていたんですね」
その後、お母さんもカウンセリングを受けていました。
「私は、完璧な母親でなければと思っていました。シングルマザーだからこそ、隙を見せてはいけない。世間に、完璧な娘を見せて、私たちは幸せだと証明しなければと」
カウンセラーは、お母さんを労うように答えました。
「あなたは、大変な重圧の中でお嬢さんを育ててこられたのですね」
お母さんは、涙を流しました。共感してもらえることが、こんなにも安心するとは思いませんでした。
「しかし、見方を変えると…お嬢さんは、その重圧からあなたを救おうとしているのではありませんか?」
お母さんは、意外な言葉に顔を上げました。
「娘の暴力や暴言が?」
カウンセラーは優しく言いました。
「もちろん、暴力や暴言は許してはいけません。しかし、お話を聞く限り、お嬢さんが暴力を使ってまで壊したかったのは、『完璧なお母さん』と『完璧な娘』ではありませんか?」
お母さんは、目を見開いてから、沈黙して考え込みました。
「自分の命を、使って…」
「私には、お嬢さんからお母さんへの、強い愛が感じられます。とても素敵な親子関係だと思います。」
お母さんの目から、再び涙がこぼれ落ちました。
その後、母娘は、専門医療機関に繋がりました。摂食障害の治療と、母子関係の修復のためです。
数ヶ月が経ちました。
雛さんは、短期間の入院治療を経て、通院治療に移っていました。家族療法も続けています。
お母さんは、仕事のペースを落としました。新しい本の企画は断り、テレビ出演も減らしました。「完璧な母親」の看板を下ろす決意をしたのです。
ある日の夕食後、雛さんは小さな声で言いました。
「お母さん、ごめんなさい。たくさんひどいことをして」
「本当にひどいわ!でも、お母さん、何があっても、雛が大好きよ」
お母さんは、笑って答えました。
「私も、お母さんが大好き」
雛さんは、照れながら言いました。
心も、体も、すぐには変わりません。でも、確実に、変わろうとしています。
大人になっても、大丈夫。
雛さんは、いつかそう思えるようになるのです。




