ヤングケアラーのシンデレラ
午前五時。高校三年生の灰田 英良君は、目覚まし時計が鳴る前に起き上がりました。
すぐにお母さんの部屋へ向かいます。カーテンの隙間から差し込む薄明かりの中で、お母さんは苦しそうに呼吸をしていました。進行性の難病を患って三年。もう自力での起き上がりも難しくなっています。
「お母さん、朝だよ」
英良は優しく声をかけ、お母さんの着替えと投薬の補助をします。手際は慣れたものです。それから階下へ降り、四歳の双子の弟たちの朝食を準備します。パンを焼き、卵を茹で、牛乳を注ぎます。
「お兄ちゃん、おはよう」
「おなかすいた」
双子が眠そうな顔でリビングに現れます。食事をさせ、着替えさせ、保育園の準備を整えます。その間にお父さんが帰宅しました。夜勤明けの疲れた顔です。
「悪いな、英良。今日も頼んだ」
「うん、大丈夫」
英良はそう答えました。
大丈夫ではありませんでした。
でも、そう言うしかありませんでした。
双子を保育園に送り届け、駅へ走ります。電車の中で制服のシャツにアイロンをかけ忘れていたことに気づきました。昨夜はお母さんの体調が急変して、それどころではなかったのです。
高校三年生の夏。進路を決める大切な時期です。しかし、英良にはそんな余裕はありませんでした。
「灰田、また居眠りか」
一時間目の授業中、教師に肩を叩かれて、英良は目を覚ましました。クラス中の視線が痛く感じられます。
昼休み、職員室に呼ばれました。提出物が三週間分溜まっています。言い訳はできませんでした。家のことは、話したくありませんでした。
友人たちは進路の話で盛り上がっています。大学、専門学校、就職。それぞれの未来を語り合う声が、英良には遠く聞こえました。
放課後、保育園に双子を迎えに行き、スーパーで買い物をして帰宅します。夕食を作り、双子と遊び、お母さんの食事を介助します。お父さんが帰ってくるのは夜の十二時過ぎです。
そして深夜、やっと自分の時間です。机に向かいますが、疲労で文字が頭に入りません。いつの間にか、机に突っ伏して眠っていました。
いつまで続くんだろう。でも、自分がやらなければ、この家は回らない。英良はそう思っていました。
担任の神母先生は、三十代の女性教師でした。
ある日の放課後、英良は神母先生に呼び止められました。
「灰田くん、少しいいかな…君、もしかして何か困ったことがあるの?」
警戒する英良に、神母先生は穏やかに言いました。
「違ったらごめんなさい。それに、もし何かあっても、無理に話さなくていいの。ただ、私の高校時代を思い出しちゃって」
神母先生は自分の過去を語り始めました。高校時代、父子家庭で認知症の祖母の介護をしていたこと。進学を諦めようとしたこと。しかし恩師の助けで奨学金を得て大学に進学し、今、教師をしていること。
「私、よく居眠りや課題のことで叱られていたから」
神母先生は懐かしそうな目をしました。
英良の水仕事で荒れた手に、くしゃくしゃのシャツに、深いクマに、高校生の自分を重ねていたのです。
その言葉に、英良の中で何かが崩れました。
「母が、病気で……双子の弟がいて……父は仕事で……」
涙と一緒に、言葉が次々に溢れました。
「でも、僕が我慢すれば、家族は何とか回っているんです。進路なんて、考えられません。家から通える範囲で、働ければ……」
神母先生は静かに聞いていました。そして一枚のパンフレットを差し出しました。
「一度だけでいい。自分の未来を見に行かないかな」
それは県外の大手製造企業の見学会の案内でした。寮完備、福利厚生充実、高卒採用枠があります。
「君に、自分の人生を生きるチャンスを持ってほしいの」
英良の手は、パンフレットを握りしめていました。
土曜日。初めて家を長時間離れて遠出をしました。罪悪感と緊張で胸がいっぱいです。
「十二時には終わるから」
そう約束して、英良は新しい靴と綺麗にアイロンがけされた制服を身につけて、おずおずと会場へやってきました。
企業の工場と寮は、想像以上に立派でした。清潔な個室寮、食堂、図書室、さらには託児所まであります。若手社員との懇談では、地方から出てきて自立している先輩たちの話を聞きました。
「ここで人生をやり直せた」
そう語る先輩の目は、輝いていました。
適性検査にも参加しました。簡単なものづくり体験です。英良の几帳面さ、集中力、丁寧な仕事ぶりが、担当者から高く評価されました。
「君のような人材を求めているんだ。ぜひ受験してほしい。よかったら、もう少し残って話をできないか」
しかし、時間はまもなく十二時です。英良はスマートフォンの電源を入れ、家族に連絡しようとしました。
お父さんからの着信履歴が二十件も残っていました。双子が熱を出し、お母さんも体調を崩したというのです。英良の顔は真っ青になりました。
「すみません、家族の世話があって、僕、帰らなくてはいけないんです」
英良は頭を下げると、急いで会場を出て行きました。
「ちょっと待って、君の名前と学校名を…」
担当者の声は届きませんでした。ふと、作業台を見ると、校章が落ちていました。
「あの子の制服から外れたんだな」
担当者は校章を拾い上げ、大切そうにしまいました。
急いで帰宅した英良は、看病と家事に追われました。夜中、やっと双子が眠った後、英良は思いました。
ーーやっぱり、僕がいないとだめなんだ。
週明け、英良は就職担当の先生に呼ばれました。てっきりまた叱られると身構えていましたが、そうではありませんでした。
「お前、この前の見学会で校章なくしただろ」
先生は言いました。確かに、あの日、校章をどこかに落としたようでした。
「なぜそれを…」
「先方の担当者がお前を気に入ってな、校章を頼りに電話をくださったんだ。あそこの見学会に行ったのはお前だけだから、すぐ分かったよ」
「電話って…」
「指名求人だ。すごいな、あんな大手、なかなか行けないぞ」
先生は喜んでくれましたが、英良の心境は複雑でした。
数日後、採用の出願期限が迫っていました。でも英良は、家族に何も言えずにいました。
ある日、図書室の奥で泣いているところを、神母先生に見つかりました。
「家族を捨てるみたいで……僕がいなくなったら……」
神母先生は優しく言いました。
「あなたは何も捨てていないわ。自分の人生を選ぶだけなの」
その後、神母先生は管理職に相談して、市の福祉課と連携しました。ヤングケアラー支援の制度があること。ヘルパー派遣、レスパイトケア、保育の延長。英良が知らなかった支援が、たくさんありました。
神母先生も、かつて、恩師を通して福祉につなげてもらったのです。
そしてお父さんとの面談が設定されました。
「灰田さん、今の生活は、息子さんの犠牲ありきで成り立っています」
神母先生の言葉に、父は俯きました。
「気づかなかった……いや、見て見ぬふりをしていました」
お父さんは泣いていました。
週末、灰田家の家族会議が開かれました。お母さんも交えて、初めての本音の対話です。
「あなたに未来を諦めさせるために産んだんじゃないわ」
お母さんの弱々しい声が、強い意志を帯びていました。
「何とかする。必ず、お前抜きでも家族が回るようにする」
お父さんも決意を語りました。
「お兄ちゃん、行っちゃうの?」
双子の問いに、英良は膝をついて二人の目を見ました。
「行くよ。でもずっと、お前たちの兄ちゃんだ」
涙と笑顔が入り交じっていました。
しばらくして、福祉サービスが導入され、家には週三回ヘルパーさんが来るようになりました。お父さんは、会社に相談して、テレワークを増やしました。まだ不完全ですが、確実に変化しています。
卒業式の日。式の後、神母先生と最後の会話をしました。
「灰田くん、頑張ったわね」
「先生のおかげです」
「違うわ。あなた自身と、福祉の力よ」
神母先生と英良は、固い握手と言葉を交わしました。
春。会社の寮の窓から桜が見えました。実家からビデオ通話がかかってきます。お父さんと双子が、笑顔で手を振っていました。お母さんの姿も映っていました。
「大丈夫そうだね」
「うん、こっちも頑張ってる」
英良は窓の外を見ました。桜の花びらが風に舞っています。
英良は、神母先生と最後に交わした言葉を思い出していました。
「もし、同じように苦しんでいる人がいたら、今度はあなたが手を差し伸べてあげてね」
福祉とは、幸せな社会を作ること
その精神が、神母先生から英良へと引き継がれたのでした。




