メデューサとクレーマーの母
巳鏡佳さんは、高校一年生の女の子。
朝、教室の扉を開けました。誰も自分からは声をかけません。生徒たちはできるだけ、彼女を視界に入れないようにしています。
意地悪をしているのではありません。みんな、鏡佳さんが怖いのです。
いえ、正確に言うと、鏡佳さんのお母さんが怖いのです。
数日前のことです。
あるクラスメイトが、友人に旅行のお土産を配っていました。美味しそうなお菓子です。鏡佳さんはそれが欲しくなり、お願いしましたが、数が足りないと断られました。
その数分後、鏡佳さんのお母さんから、学校へ苦情の電話が入りました。
お母さんはとても怒っていました。
学校にお菓子を持ってきてはいけない、というルールがあるのは事実です。担任の先生は帰りのホームルームで全体に注意をしました。
クラスメイトは目が点になりました。
ルールに驚いたのではありません。
お土産の一件から、一時間も経っていないのです。鏡佳さんが先生に告げ口する時間があったとも思えません。なぜ、先生は知っていたのでしょうか。
鏡佳さんと同じ中学校出身の生徒は察していました。彼女の背後には、常にお母さんの影があるということを。
「絶対、鏡佳ちゃんのお母さんだよ。いつもそうだったもの」
「あの子、何かあるとすぐにお母さんに言って学校に電話させるんだ」
それ以来、皆、鏡佳さんの視線を警戒するようになったのです。
鏡佳さんが小学校三年生の時、図工で作った粘土の人形の頭が取れてしまったことがありました。
別に、誰かが壊した訳ではありません。重みでバランスを崩し、自然に落ちてしまったのです。
鏡佳さんから聞いたお母さんはすぐに学校に電話をして、「管理責任がある」と訴えました。
担任の先生は謝罪し、鏡佳さんの作品だけ特別に作り直す時間を設けました。その光景に、クラスメイトは冷めた目を向けていました。
中学校の時、鏡佳さんはバスケ部でレギュラーになれませんでした。母は顧問に「えこひいきだ」と抗議しました。結局、鏡佳さんはレギュラーになりましたが、チームメートは練習中も必要最低限のことしか話してくれませんでした。
高校に入学して三ヶ月。状況は変わりません。それどころか、鏡佳さんがスマートフォンを手にしたことで、お母さんとの結びつきは、さらに強固になっていました。
廊下で、誰かがひそひそ話しています。
「メデューサが来た」
鏡佳さんのあだ名でした。見た者を石に変える怪物です。皆、鏡佳さんの目を恐れていたのです。
鏡佳さんにとっては、「困ったことがあったらお母さんに助けてもらう」のは、「のどが渇いたら水を飲む」ようなものでした。
つまり、当たり前の行動だったのです。
ある日、体育の授業で、バスケットボールのチーム分けがありました。
「Aコート、Bコート、それぞれこのメンバーだ」
太陽先生が、はっきりした声で告げます。三十代の女性教師で、厳しいけれど、生徒たちからの信頼が厚い人でした。
しかし、鏡佳さんはBコートのメンバーが気に入りませんでした。
「先生、私、Aコートがいいです」
鏡佳さんは手を挙げて言いました。
太陽先生は、少し眉をひそめて、それから首を横に振りました。
「悪いが、チーム分けはもう決まっている。公平にクジで決めたんだ。このままでいこう」
「でも…」
「ルールはルールだ。みんな同じ条件でやってるんだからな」
太陽先生は、今までの教師たちとは違いました。優しさの中に、譲らない芯がありました。
その直後、鏡佳さんのお母さんは学校に電話をしました。
「娘は精神的な苦痛を受けました。教育的配慮が足りないのではありませんか。担当を変えてください」
電話に出たのは教頭先生は、こう答えました。
「お気持ちは理解いたしますが、その要求には応じられません。詳しくは、直接お話ししたいと思います。明日、お時間をいただけますか」
お母さんは、予想外の反応に一瞬言葉を失い、その後、猛烈に抗議しました。
しかし、教頭先生は毅然とした態度で、電話では応じられない旨を伝えるばかりです。10分経過したところで、「会議がありますので」と、切り上げられてしまいました。
かくして、巳親子は来校を余儀なくされました。
お母さんから怒りの報告を聞いて、鏡佳さんは驚きました。自分の困りごとに、自分が関わるのは初めてのことです。鏡佳さんは不安な気持ちになりました。
翌日の放課後、鏡佳さんはお母さんとともに校長室へ通されました。
そこには、校長先生、教頭先生、太陽先生。そして、見知らぬスーツの男性がいました。
「こちらは、橋安弁護士です。スクールロイヤーとして、本校の法的相談を担当していただいています」
弁護士、と聞いて、鏡佳さんとお母さんは思わず身構えました。
橋安さんは四十代くらいの男性です。穏やかな笑みを浮かべていました。しかし、その目は鋭く、まるですべてを見透かしているようでした。
「はじめまして。橋安と申します」
彼は丁寧に挨拶をして、机の上に一冊のファイルを置きました。
「こちらをご覧ください。巳さんに関する、過去の記録です」
ファイルには、小学校、中学校からの引き継ぎ事項が、びっしりと書かれていました。
「図工作品の件、十二回。部活動の件、八回。座席配置の件、二十三回。給食の件、七回…」
橋安さんは、淡々と読み上げていきます。
母は顔を真っ赤にしました。
「何が言いたいの!こんな…」
「お母様」
橋安さんは、静かに母の言葉を遮りました。
「これは教育的配慮の要求ではありません。特別扱いの強要です。そして、この行為がお嬢さんの成長を阻害し、友人関係の構築を妨げているという認識はおありですか」
お母さんは言葉に詰まりました。
「私は、娘を守ってきただけ…」
「守ること、と支配することは違います」
橋安さんは続けました。
「お嬢さんは、周囲の人々を萎縮させる『視線』を持ってしまっています。正確には、お母様のクレームという『視線』が、関係者を石のように黙らせてきた。その結果、お嬢さんは誰とも対等な関係を築けなくなっている」
彼は顔を上げて、母娘を見ました。
「今、お二人に必要なのは、鏡です。ご自分たちの行動が、周囲にどう映っているのか。それを見る勇気です」
その言葉が、鏡佳さんの胸に突き刺さりました。
結局、体育の授業へのクレームは聞き入れられませんでした。お母さんは大いに不満そうでしたが、鏡佳さんは、それよりも、今までの自分の行いが気になっていました。
ある日、女子トイレの個室にいると、同級生の声が聞こえてきました。
「太陽先生、大丈夫だったみたいでよかったね」
「うん。巳さん、本当は悪い子じゃないと思うんだけどな。お母さんが、ちょっと…」
「わかるけど、でも、もう近づきたくないよ。石にされたくないし」
鏡佳さんは、その場に固まりました。
石のように動けなくなっていたのは、鏡佳さんの方でした。
みんなを怖がらせて、黙らせて、一体何を得ていたのでしょう。
友達は一人もいません。誰も心を開いてくれません。
お母さんが作ってくれた「守られた世界」は、実は牢獄だったのかもしれません。
鏡佳さんは、もう一度、橋安さんと話したくなりました。母には内緒で。
橋安さんは、学校の相談室で鏡佳さんを迎えてくれました。
「よく来ましたね、巳さん」
「あの…私、どうしたらいいか、わからなくて」
初めて、鏡佳さんは自分の口で誰かに相談しました。
橋安さんは、優しく微笑みました。
「あなたは今まで、自分で問題を解決したことがありますか」
「それは…」
鏡佳さんは、言葉に詰まりました。
「お母さんには悪意があったわけではないでしょう。しかし、過保護という行為は、子どもから成長の機会を奪います。そして、その子は自分で問題を解決する力を失っていく」
鏡佳さんは、涙が溢れそうになるのを必死で堪えました。
「じゃあ、私は…」
「まだ遅くありません。変われます。でも、それにはあなた自身の勇気が必要です」
橋安さんは、鏡佳さんの目を真っ直ぐ見ました。
「お母さんと、話してみませんか。本当の気持ちを」
その夜、鏡佳さんは初めて母に反抗しました。
「私とお母さんのやり方は、間違ってる」
母は、驚いたような顔をしました。
「何を言ってるの、鏡佳」
「私ね、友達が一人もいないの。みんな、私を怖がってる。お母さんのクレームが怖くて、誰も私に近づいてこないの」
「それは…あなたを守るために…」
「守るって、何から? 私は困ったとき、お母さんに全部やってもらってばかりだった。でも、そのせいで自分で解決するチャンスがなくなった」
母は、言葉を失いました。そして、突然泣き出しました。鏡佳さんも一緒に泣きました。
後日、お母さんは、橋安さんと話しました。
「お母様、よろしければカウンセリングを受けてみませんか。実は、このパターンは世代を超えて繰り返されることが多いんです」
お母さんは、震える声で答えました。
「私の母も…同じだった。私も、守られすぎて、友達がいなくて…だから、娘には幸せになってほしくて…」
「でも、同じことを繰り返してしまった」
橋安さんの言葉に、母はうなずきました。
「変われます。でも、それには時間と、努力が必要です。お二人とも、一緒に頑張りましょう」
そのしばらく後。
体育の授業で、鏡佳さんはBコートでバスケをしています。シュートを外して、悔しくて、自分で壁打ち練習を始めました。
「巳、こうやって打つといいぞ」
太陽先生が、声をかけてくれました。彼女は手本を見せながら、コツを教えてくれました。
「ありがとうございます」
心から、そう言えました。
数学の授業でわからない問題があって、隣の席の生徒に恥ずかしそうに聞きました。その生徒は少し驚いた顔をしましたが、優しく教えてくれました。
お母さんは、週に一度、メンタルクリニックのカウンセリングに通っています。「子離れ」を学んでいるそうです。最初は辛そうでしたが、最近は少し表情が柔らかくなってきました。
「お母さん、今日の委員決め、ジャンケンで負けちゃって、やりたい委員になれなかったんだ」
鏡佳さんの言葉に、お母さんは学校への文句が出かけましたが、ぐっとこらえました。
「…そう、残念だったね。何の委員になったの?」
「図書委員。当番が面倒だなあ」
「でも、面白い本に出会えるかもね」
鏡佳さんは微笑みながらうなずきました。
子供の悲しい気持ちを受け止めて、形を変えて子供に戻してやる。母娘の、穏やかな心のやり取りでした。
放課後、鏡佳さんは、帰り道で橋安さんとすれ違いました。
「巳さん、調子はどうですか」
「よくなりました。少しずつ、ですけど」
「それでいいんです。変化には時間がかかります。でも、あなたは確実に前に進んでいる」
橋安さんは、にっこりと笑いました。
「自分を客観的に見る力。それが、新しい関係を築く第一歩です」
帰宅して、洗面所の鏡を見ました。
そこに映っているのは、もう「メデューサ」ではありませんでした。
人と繋がろうとしている、普通の女子高生の顔がありました。
鏡佳さんは、鏡の中の自分に、小さく微笑みかけました。




